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【読了5分】電話するだけで人生が変わりそうだった日【自キュンシリーズ09】

十円玉を三枚持っていた。

電話するためだった。

でも、電話できなかった。

昭和五十四年。秋。
駅前の通りは、夕方になると魚屋の匂いと焼き鳥の煙が混じった。
踏切が鳴るたび、遠くの空気までいったん止まるような町だった。
駅の前には公衆電話が一台だけあって、透明な箱の中に閉じこめられたように、小さく立っていた。夕暮れの光を受けて、ガラスがやけに白く光っていた。

おれはそこを、何度も前を通り過ぎた。

電話したい相手の名前は、最初から決まっていた。
田中あき子。二組。窓際の三番目。
ノートを取る手がきれいで、笑うと目尻が少し下がった。体育のあと、汗でぬれた前髪を指先で上げる癖があった。消しゴムを貸してくれたとき、「ありがとう」と言われた声が、ずっと残っていた。
あのときから、おれはあき子のことを、名前の置き場がないまま好きだった。

だが、かける理由がない。

理由を作ろうとしてみる。
「消しゴムを返すのが遅れて」
遅すぎる。
「数学の宿題がわからなくて」
嘘くさい。
「元気かと思って」
そんなのは、もっと言えない。
どれも、口に出した瞬間に崩れてしまう。理由に見えて、どれも理由ではなかった。ただ、好きだということを、好きだと言わずに済ませるための、薄い板切れみたいなものだった。

六時。

七時。

駅前は少しずつ暗くなり、バスが一台通るたび、電話ボックスのガラスに街の灯りが揺れた。自転車の高校生が二人、笑いながら角を曲がっていった。おれはまだ、電話の前に立てずにいた。

ポケットの中の十円玉を、指で何度も数えた。

三枚。

一枚ずつ、角が擦れている。
何度も入れたり出したりしたせいで、指先に金属の匂いがついていた。

八時になったとき、ようやくおれは一枚を取り出した。
もう理由はどうでもよかった。
かけたい。それだけだった。

受話器を持ち上げる。
思っていたより重い。
コインを入れる。
番号を押す。
指が一瞬、震えた。

コールが鳴った。
一回。
二回。


三回。

胸の奥で、何かが音を立てた。
四回目を待つあいだに、もう切ってしまいたくなった。だが、切れなかった。切ったら、たぶん一生、今日は来ない。そんな気がした。

四回目の途中で、相手が出た。

「もしもし」

女の声だった。
低くて、落ち着いていた。
あき子ではない。
その瞬間、おれは自分がいちばん会いたかったのはあき子本人よりも、あき子につながる何かだったのだと知った。声でも、気配でも、たぶん生きているという事実でもよかった。

「……もしもし?」

たぶん、あき子の母親だった。
何か言わなければならないのに、喉が動かなかった。
電話の向こうの静けさが、こちらの沈黙を聞いている気がした。

「……すみません」

それだけ言って、受話器を戻した。
音を立てないように、そっと。
十円玉は戻ってこなかった。

おれはポケットに残った二枚を握りしめたまま、電話ボックスを出た。
夜になっていた。
町はもう、昼間の顔をしていなかった。

かけた。
でも、出たのはあきこではなかった。
それだけのことが、ずっと残った。
理由もなくかけた電話。
戻ってこなかった十円。
言えなかったひと言。
あの夜から、おれは何かを失ったのではなく、失ったまま大人になったのだと思う。

三十年後。
同窓会の帰り道、あき子は笑いながら言った。

「あのころ、間違い電話がかかってきたことがあってさ。なんだったんだろうね」

おれは少しだけ間を置いて、「さあ」と答えた。
それで終わるはずだった。
なのにあき子は、夜風のなかで少しだけ首をかしげて、昔と同じ窓際みたいな目でこちらを見た。

「あれ、もしかして……」



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三十年前の電話が、あき子に届いていたのか。
戻ってこなかった十円玉の答えです。


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