【読了5分】返事を待つ時間だけが恋だった私へ【自キュンシリーズ11】
放課後、忘れ物を取りに戻ったら、そこにいた。
そのときは、ただの偶然だと思った。
偶然じゃないかもしれない。
そう思うようになったのは、ずっと後のことだった。
たぶん二十年後でも三十年後でもなく、そのもっと前から少しずつ考えていたのだと思う。でも人は、答えの出ないことを長く考えていると、それを考えていること自体を忘れてしまう。
だから気づかなかった。
私はあの日のことを、ずっと持ち歩いていた。
忘れ物をしたのは、月曜日の夕方だった。
体育館のシューズを教室に置いてきたことに気づいたのは、校門を出る直前だった。
友達は先に帰っていた。
「また明日ね」
そう言って手を振って、それぞれの方向へ散っていったあとだった。
私はひとりで校舎へ戻った。
面倒だった。
でも翌日の体育が嫌だった。
先生は忘れ物にうるさい人だったし、何より私は目立つのが苦手だった。
だから仕方なく引き返した。
それだけのことだった。
そのはずだった。
校舎の中は静かだった。
昼間はあんなに騒がしいのに、放課後の学校は別の建物みたいになる。
誰もいない廊下。
積み上げられた机。
少しだけ開いた窓。
風に揺れるカーテン。
どこか遠くから吹奏楽部の音が聞こえていた。
うまく吹けないトランペットが何度も同じところで失敗していた。
私はその音を聞きながら階段を上がった。
教室のドアを開ける。
夕方の光が斜めに差し込んでいた。
机の影が長く伸びている。
自分の席の横に置かれたシューズ袋を見つけて、私は少し安心した。
本当にただの忘れ物だった。
何も起きないはずだった。
シューズ袋を持って教室を出る。
そして靴箱へ向かう。
そこで、私は振り返った。
理由は今でもわからない。
誰かの気配がしたわけじゃない。
呼ばれたわけでもない。
音がしたわけでもない。
ただ、本当になんとなく。
振り返った。
川本くんがいた。
靴箱から少し離れた場所。
廊下の端。
壁の近く。
鞄を肩にかけたまま立っていた。
こちらを見ていた。
目が合った。
たぶん一秒もなかった。
でも、その一秒だけは今でもはっきり覚えている。
川本くんは少し驚いた顔をした。
見つかった、みたいな顔だった。
そしてすぐに視線を逸らした。
私は何を言えばいいのかわからなくなった。
だから、どうでもいいことを聞いた。
「……帰んないの?」
川本くんは少し間を置いて言った。
「帰る」
それだけだった。
帰る。
たしかにそう言った。
でも帰らなかった。
私はそれを覚えている。
言葉のあとも、川本くんは同じ場所に立っていた。
鞄を持ったまま。
動かなかった。
急いでいる様子もなかった。
誰かを待っているようにも見えた。
でも誰を待っているのかはわからなかった。
私は靴を履き替えた。
立ち上がった。
歩き出した。
川本くんの横を通り過ぎる。
近くを通ったとき、少しだけ柔軟剤の匂いがした。
その匂いまで覚えている自分に、今でも少し驚く。
私は校舎を出た。
外は雨上がりだった。
さっきまで降っていた雨が止んでいた。
通学路には水たまりがたくさん残っていた。
空は薄いオレンジ色で、雲の隙間から夕方の光が漏れていた。
私は最初の水たまりを踏んだ。
ぱしゃりと水が跳ねる。
次も踏んだ。
その次も。
気づけば全部踏んでいた。
小学生みたいだと思った。
靴下が濡れる。
母に怒られる。
そんなことはわかっていた。
でもやめられなかった。
水面が壊れるたび、胸の中の何かも一緒に跳ねていた。
うれしかったのかもしれない。
違うかもしれない。
浮かれていたのかもしれない。
それも違うかもしれない。
ただ、世界が少しだけ変わった気がしていた。
理由はわからなかった。
わからないまま、水たまりを踏み続けた。
家に帰るころには靴がぐしょぐしょになっていた。
母に怒られた。
私は謝った。
でも、そのときも頭の中には川本くんがいた。
なぜ廊下にいたんだろう。
なぜ帰らなかったんだろう。
なぜこちらを見ていたんだろう。
翌日になっても答えは出なかった。
川本くんは何も言わなかった。
私も聞かなかった。
教室で会っても普通だった。
休み時間も普通だった。
掃除の時間も普通だった。
あの日だけが、どこか浮いていた。
その後も何も起きなかった。
文化祭もあった。
体育祭もあった。
修学旅行もあった。
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