なぜ黒色火薬を発見した中国が軍事的近代化で出遅れたのか?:『黒色火薬の時代(The Gunpowder Age)』の紹介
アンドラーデの『黒色火薬の時代』は比較史のアプローチで書かれた軍事史であり、「なぜ中国が先進的な軍事技術を開発しながら、18世紀以降に欧米列強に対して後れを取るようになったのか」という問いを解き明かそうとしています。
この問題を解決するため、アンドラーデは「挑戦・応戦の力学(challenge–response dynamic)」という新たな理論を提案し、中国とヨーロッパの軍事制度の「軍事的な大分岐(Great Military Divergence)」をもたらした原因として、どれだけ戦争の危険に晒されていたかが影響したと説明しています。序論・結論を挟んで4部、18章の構成となっており、日本では2024年に邦訳が出版されています。ここでは原著を参照しています。
Andrade, T. (2016). The gunpowder age: China, military innovation, and the rise of the West in world history. Princeton University Press.(トニオ・アンドラーデ『黒色火薬の時代 : 中華帝国の火薬兵器興亡史』加藤朗訳、芙蓉書房出版、2024年)
中国は黒色火薬を用いた火器という優れた軍事技術を発明した先駆者であったにもかかわらず、18世紀以降の世界情勢では欧米列強に押され、そして19世紀にその大国としての地位を失いました。その理由をめぐって、これまでにもさまざまな議論がありました。その一つとして、中国の思想、特に儒教思想の中に含まれる平和主義的な価値体系が、軍事的革新への関心を弱めたという考え方があります。著者は、こうした見解に対して批判しており、中国の文化的な固有さではなく、戦争の経験に注目するべきだと主張します(Andrade 2016: 104)。
ヨーロッパの歴史においては18世紀から19世紀の初頭にかけてフランス革命戦争・ナポレオン戦争という大規模戦争が発生しており、その影響で近代国家としての行政制度や軍事技術の革新が進みましたが、同時代の中国史を見ると、18世紀には長期間の平和を享受しており、軍事改革の誘因がなかったことが分かります。著者は、この時期の改革の停滞が結果として後に大きな技術的格差を生み出すことになったと主張します(Ibid.: 270)。
そもそも、中国の歴史を振り返れば、軍事技術の革新に無関心であったわけではないことが分かります。中国では多くの戦乱の経験から体系的な部隊の管理と運用が模索されており、新しい装備の開発も盛んに行われていました。12世紀の宋の時代には、歩兵部隊の装備として火槍が導入されており、13世紀には金属製の銃身を備えた銃が開発されたことによって、黒色火薬を用いた戦闘力の向上が図られています。これらの技術はモンゴル人を通じて国際的に拡散していますが、明(1368–1644年)の時代ではさらに火器の導入を推進し、1466年までに装備率が33%にまで達していました(Ibid.: 161)。これは当時としては非常に高い密度であり、著者は1500年代のヨーロッパでこれだけ多くの火器を保有した軍隊は存在しなかったと評価しています(Ibid.)。
ヨーロッパでは封建社会の下で多数の兵士を歩兵部隊として行動させるための教練(drill)を訓練することさえ困難な状態にありました(Ibid.: 160-161)。歩兵の装備として火器を導入する基盤が乏しかったといえます。ただ、ヨーロッパでは火器の発達を促す重要な要因があり、その一つとして城塞の脆弱性が挙げられています。特に攻城戦における火砲の効果はヨーロッパにおける戦争の様相に重大な影響を及ぼしました。英仏百年戦争ではフランス王のシャルル七世がヨーロッパでも有数の砲兵隊を育成し、イングランド軍の支配下にあった城塞を次々と陥落させ、フランスの勢力を大いに高めることができたのも、ヨーロッパの城塞が防壁に高さを持たせることで障害としての効果を追求し、砲撃に耐えうる厚みがなかったためでした(Ibid.: 92)。この砲兵の優位があったからこそ、フランスは1494年にイタリア戦争も引き起こすほど大胆な軍事行動をとることができたとも考えられています(Ibid.)。
こうした地域差はあったものの、著者の調査では、16世紀から18世紀の初頭までは、ヨーロッパと中国との間の軍事技術の優劣はそれほど明確ではありませんでした。その格差が明確になったのは、清の時代に入って、長く平和が維持されたからのことであったと著者は分析しています。定量的な調査を行うと、1350年から1700年まで中国とヨーロッパとの間では戦争の発生の頻度のパターンに大きな違いはほとんど見られませんが、清の統治で平和が実現する「1760年頃から1839年まで数世代にわたり深刻な外部脅威に晒されることはなかった」とされています(Ibid.: 7; 239)。一見すると、平和が長く保たれたことはよいことでしたが、ヨーロッパ地域では国家としての存亡をかけた軍事的衝突が繰り返されたので、挑戦・応戦の力学が働き、軍事技術の水準を高める努力が継続して起きていました。この時期にヨーロッパの軍事技術は中国を凌駕するようになっていきました。
19世紀前半にこの軍事技術のギャップが急速に拡大していることに気が付いた中国の知識人は、西洋の科学技術を移転する洋務運動を開始します。例えば、1843年に技術者の丁拱辰(Ding Gongzhen)は工作機械の不足が深刻しているため、ヨーロッパで普及した内燃機関を搭載した艦船をはじめとする先進的な装備品を製造できないという課題を提起しています(Ibid.: 278)。この事態を重く受け止めた軍人の曽国藩は、米国のイェール大学で教育を受けた実業家の容閎に銀6万8000両(およそ2500キログラム)を支給して、工作機械を米国から輸入させています。こうした技術移転を通じて1865年に江南製造局を設置するための工作機械を確保し、既製品の設計を分析するリバース・エンジニアリングの基盤を整え、遅れを取り戻そうとしました(Ibid.: 279)。
洋務運動は、その後の中国の近代化を基礎づける技術を導入する上で意義がありましたが、同時期に近代化を開始した日本に比べると、その改革は表層的なものにとどまり、軍事的近代化に十分な内容には達していませんでした。1894年に勃発した日清戦争に敗れたことで、清が東アジアにおいて保持してきた覇権は損なわれただけでなく、欧米列強の進出に抵抗することが困難になるほど弱体になってしまいました。
著者がこの議論で提示した挑戦・応戦の力学は、一種の軍備競争のモデルです。数多くの戦争の中で列強が蓄えていた軍備が、平和な時代を長く経験してきた清の軍備を圧倒できるまでに成長したという説明は妥当であり、いったん技術的な遅れが生じると、それを取り戻すためのキャッチアップそれ自体に研究開発の時間と労力が必要になることが分かります。軍備には多くの財政的な負担がかかるため、平時にその費用を抑えることは自然な決定に思えますが、不確実な将来への備えを疎かにすることになりかねません。
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