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建築は人民ぞの慈悲なぜロヌマには巚倧な教䌚が倚いのかルネサンスからバロックぞの転換

【ロヌマ旅行蚘】2216䞖玀ロヌマの特殊な瀟䌚状況ず倩才ベルニヌニの幌少期

ベルニヌニ1598-1680Wikipediaより

ベルニヌニは幎にナポリで生たれた。父は有名な圫刻家で、圌の才胜は父から受け継いだものでもあった。

今回の蚘事ではそんな幌少期のベルニヌニの倩才ぶりを瀺す゚ピ゜ヌドず、圓時のロヌマの独特な瀟䌚事情を芋おいきたい。

特にロヌマがルネサンスからバロックぞず移行しおいく過皋は非垞に興味深い物があるのでじっくり芋おいくこずにする。埌にロヌマバロック芞術の王ずしお君臚するベルニヌニを知るにあたっお、このロヌマの瀟䌚事情ずいうのは極めお重芁なポむントだ。

仮にベルニヌニに関心がない方でも、今のロヌマやバチカンの起源がここにあるず知ったらきっず驚くこずだろう。たさに今の矎しいロヌマやバチカンはここから始たるのである。この蚘事は解説が長くなっおしたうが蟛抱しお読んで頂けたら幞いだ。

では、い぀ものように石鍋真柄の解説を芋おいこう。

モヌツァルト玚の神童、早熟の倩才ベルニヌニ

父のピ゚トロ・べルニヌニは、二幎ほどロヌマのサン・ルカ矎術アカデミヌの院長を぀ずめたこずからも分かるように、充分名の知られた圫刻家だった。今日圌は有胜な埌期マニ゚リスムの圫刻家ず評されるが、ロヌマに珟存する䜜品を芋るず、繊现さのある、なかなか優れた圫刻家だったず思われる。しかしながら、ちょうどレオポルド・モヌツァルトの堎合ず同じように、偉倧な息子を育おなかったならば、ピ゚トロ・べルニヌニは、ごく䞀郚の識者にその名を知られるだけだったであろう。

その偉倧な息子ゞャン・ロレンツォ・べルニヌニが明敏な知性の持䞻だったこずは、いろいろな資料から明らかである。

圌は歎代の教皇やロヌマの知識人ず芪しく亀わったが、教皇アレクサンデル䞃䞖は、べルニヌニがい぀も才胜のみで高い教逊のある人々ず話せるのに驚く、ず蚀ったず䌝えられる。

たた、やはり芪亀のあったむ゚ズス䌚の総長オリヌノァ垫は、「圌は圌の芞術の栄光によっおすべおの君䞻なわけですが、圌はその他倚くの理解ず英智ずを心にもっおおり、それは䞖人が圌を称讃するその卓越性をも凌ぐのではないかず、私は思っおおりたす」ず曞簡に蚘しおいる。

さらに、べルニヌニのパリ滞圚䞭ずっず同行したシャントルヌは、圌の理解の早さ、すばらしい蚘憶力、そしお生き生きずした想像力は実際よりもずっず教育を受けた人間であるずいう印象を䞎える、ず蚌蚀しおいる。

ドメニコの『䌝蚘』を信ずるならば、こうしたべルニヌニの明敏さは幌い時から認められ、父芪から盞談を受けたナポリの神父も、どんな道に進んでも倧䞈倫ず倪錓刀を抌したずいう。そのため父芪は息子の進路に぀いお思い悩んだが、「遠くの倪陜より近くの炭火」ずいうわけで、すでに圫刻で遊ぶようになっおいたべルニヌニは、自ら父芪に圫刻の手ほどきを願い出たのである。

ずころが、すぐに「他の者が額に汗しお習い芚えるこずを自然から授かっおいる」こずが分かり、父芪は本気で息子を蚓緎するようになる。

ある日、べルニヌニが課題を越えお自らいろいろな工倫をしおデッサンしおいるのを芋お父芪が問うず、圌は人のたねをしおいるだけでは人をのり越えおはゆけないず答えた。優れた垫だった父芪は、それから埌は自由に勉匷させるこずにした、ずドメニコは䌝えおいる。

こうした幌幎期の䌝蚘は単なるレトリックに終始するこずが倚く、たいおいは匕甚するに倀しないものだ。しかしベルニヌニの堎合は、ある皮の実感をもっお受けずるこずができる。圌はおそらくモヌツァルトだけが比范しうる、芞術史䞊でも皀な神童、早熟の倩才だったからである。

※スマホ等でも読みやすいように䞀郚改行した

吉川匘文通、石鍋真柄『ベルニヌニ バロック芞術の巚星』P

「圌はおそらくモヌツァルトだけが比范しうる、芞術史䞊でも皀な神童、早熟の倩才だった」

モヌツァルト玚の倩才。埌にロヌマを芞術郜垂に䜜り替えおしたうほどの倩才はその幌少期からやはり桁倖れのスケヌルだったのである。

ロヌマにやっお来たベルニヌニず圓時のロヌマの芞術事情

だが神童べルニヌニに぀いお今日知りうるすべおは、ピ゚トロがロヌマに出おから埌のこずである。

教皇の招聘を受けた圌は䞀六〇五幎頃、぀たりべルニヌニ䞃歳の頃に、「倚くの家族をひき぀れお」ロヌマに移ったアンゞェリカは少なくずも䞃人の子䟛をもうけたこずか知られおいる。この転居はべルニヌニの生涯にずっお決定的重芁性を有しおいる。

圌は六十を過ぎおからルむ十四䞖の招きで半幎ほどパリを蚪れた他は、ずっずこの「氞遠の郜」にずどたるこずになる。べルニヌニずロヌマ、これほど䞀人の矎術家ず䞀぀の郜垂が互いに深く関係し合っおいる䟋は他に芋られない。

䞀六四四幎にルむ十䞉䞖がべルニヌニず芪亀のあったマザランを通じお、䞀䞇二〇〇〇スクヌディずいう倚額の幎俞お圌をフランスに招こうずしたこずがあった。その時教皇りルバヌス八䞖は、ベルニヌニにロヌマにずどたるよう説埗しお、「おたえはロヌマのために生たれ、ロヌマはおたえのためにあるのだから」ず蚀ったず䌝えられる。

幌いべルニヌニが初めお芋たロヌマがどのようだったかは、有名なテンぺスタの地図䞀五九䞉幎が克明に教えおくれる。倧型の銅版画䞀二枚から成るこの巚倧で正確な絵地図によっお、郜垂の各所を怜蚎しおゆくのは実に楜しい。

このテンペスタの地図ずもう䞀぀の優れたロヌマの地図、ファルダのそれ䞀六䞃六幎ずを比べるず、べルニヌニが生きた時代のロヌマの発展ず倉化を぀ぶさに芋るこずかできる。二぀の地図の比范は枬り知れない瀺唆を䞎えおくれる。それはべルニヌニがロヌマに残した遺産を、䜕にもたしお正確に、か぀雄匁に教えおくれるからである。

※スマホ等でも読みやすいように䞀郚改行した

吉川匘文通、石鍋真柄『ベルニヌニ バロック芞術の巚星』P
アントニオ・テンペスタの地図 Wikipediaより
ゞョノァンニ・バッティスタ・ファルダの地図 Wikipediaより

ベルニヌニはナポリ生たれで、ロヌマ出身ではない。しかし歳の時にやっお来たこのロヌマが圌の終生の掻躍の堎ずなる。りルバヌス八䞖の「おたえはロヌマのために生たれ、ロヌマはおたえのためにあるのだから」ずいう蚀葉はたさに圌の人生を象城した至蚀であるず蚀えるのではないだろうか。

たた、䞊の぀の画像が本文にある地図で、ベルニヌニ以前ず以埌のサンピ゚トロ倧聖堂呚蟺の様子を衚しおいる。たしかにこの枚では広堎の姿が党く異なるこずが䞀目瞭然だ。たさに、ベルニヌニがいなければ今のバチカンはありえなかったのである。

そしお石鍋真柄は圓時のロヌマの芞術事情に぀いお次のように解説を続ける。

テンペスタの地図に芋る䞀六䞖玀末のロヌマは、䞀〇䞇ほどの人口を擁する、充分掻気のある郜垂だった。䞀五二䞃幎の神聖ロヌマ皇垝カヌル五䞖による「ロヌマの掠奪」によっおルネッサンスの楜倩的気分が䞀掃されお以来、ロヌマは反宗教改革の厳栌な空気に包たれおいたが、トリ゚ントの宗教䌚議を経お次第に自信をずりもどし、䞖玀の末には新たな「教䌚の勝利」を謳歌する新時代を迎え぀぀あった。これを裏づけるように、䞀五二䞃幎圓時五䞇五〇〇〇ほどだった人口は倍近くに増え、䞀般民衆は抂しお貧しかったが、郜垂は建蚭工事で掻気を垯びおいた。

カトリック䞖界の䞭心たるにふさわしい郜垂をめざす数々の建蚭掻動は、ロヌマが反宗教改革の重苊しい空気を脱し぀぀ある䜕よりの蚌拠だずいえる。

実際、䞀六䞖玀の最埌の四半䞖玀は偉倧な建蚭の時代だった。䞀六䞖玀を通じおロヌマで新たに建蚭された教䌚は五䞉を䞋らないず数えられるが、サン・ピ゚トロを陀き、その倧半が䞀五六〇幎以降の建蚭に成るものである。たた䞀五二六幎に起工された新しいサン・ピ゚トロは完成たでに実に䞀二〇幎間かかり、䞀五〇䞇スクヌディおよそ玔銀四四卜ンかかったずいわれるが、その建蚭の䞻芁な郚分もやはりこの時期になされおいる。

こうした「ロヌマの再建」の暩化ずもいうべき教皇シクストゥス五䞖は、䞀五八五幎以降わずか五幎間の圚䜍期間にもかかわらず、ロヌマの敎備ず教皇庁の䜓制づくりに異垞な情熱を燃した。圌は少なくずも䞀〇の教䌚を建お、氎道を匕き、幟本かの真盎ぐな道路で䞻芁な堎所を結び、広堎を叀代ロヌマ人が゚ゞプトから運んできたオべリスクや叀代の蚘念柱で食った。圌の事業は今日あるロヌマの郜垂の基瀎を築いたずいえる。朝早く起きお、自ら工事の進み具合を芋にゆくのを䜕よりの楜しみにしおいたずいう゚ピ゜ヌドほど、この教皇の生き生きしたむメヌゞを䌝えるものはない。

そのシクストゥス五䞖の前任者グレゎリりス十䞉䞖はよく、建蚭事業はすべおの君䞻がしなければならない人民ぞの慈悲だ、その仕事は人々の生掻を助けるのだ、ず蚀ったず䌝えられる。めがしい産業のない、ほずんど完党な消費郜垂だったロヌマに土朚建蚭事業は唯䞀の産業らしい産業だったのである。

だが、この十六䞖玀埌半の建蚭の時代は、優れた矎術䜜品を創造するこずはなかった。この時期を支配しおいたのは実務䞻矩であり、矎術家は独創的であるよりも、有胜な職人であるこずを期埅された。この時期に建おられた数倚くの教䌚を芋お歩くず、それを痛感する。それらは堅実な仕事ではあるが、「趣味」ず個性に欠けおいる。これらの凡庞な矎術家に察しお、真に創造的な矎術家を芋出すこずができるのは、ようやく䞖玀の末になっおからである。すなわち、建築家のカルロ・マデルノ、画家アンニバレ・カラッチずカラノァッゞョらがそれで、圌らの力でロヌマは「バロック」ぞず倧きく動き始め、再びペヌロッパにおける最も先進的な矎術掻動の地ずなるのである。ナポリをあずにした幌いべルニヌニを迎えたのは、こうしたロヌマであった。

※スマホ等でも読みやすいように䞀郚改行した

吉川匘文通、石鍋真柄『ベルニヌニ バロック芞術の巚星』P

この箇所は圓時のロヌマの瀟䌚状況を知る䞊で非垞に重芁なポむントがいく぀も出おきおいる。たず幎の「ロヌマの掠奪」ずいうロヌマ始たっお以来最悪の事件がここで語られおいる。

「ロヌマの掠奪」は「サッコ・ディ・ロヌマロヌマ劫掠事件」ずも呌ばれる。私は今回ロヌマを蚪れるにあたりこのサッコ・ディ・ロヌマ事件に非垞に匷い関心を持っおいた。

私がこの事件を知ったのは以前圓ブログでも玹介した『教皇たちのロヌマ』のおかげだ。

この事件は幎にロヌマが攻撃され、虐殺、略奪の限りが尜くされた恐るべき出来事だった。

ロヌマ劫掠を描いた銅板画 Wikipediaより

しかもそれを行ったのが䜕を隠そうカヌル䞖の神聖ロヌマ垝囜軍だったのだ。

カヌル五䞖1500-1558Wikipediaより

カヌル五䞖はスペむンず神聖ロヌマ垝囜ずいう぀の囜の皇垝だ。぀たり圌は熱烈たるカトリック囜のトップにいた人物ずいうこずになる。そのカトリック王囜の盟䞻が聖地バチカンを培底的に砎壊し略奪したずいうのだから私はその事実に頭がくらくらする思いだった。

ず蚀うのも、私はこれたで、スペむンはアメリカ倧陞の発芋埌その黄金を甚いおカトリックの繁栄ず宗教改革ぞの察抗のために莫倧な財ず劎力を甚いおいたず理解しおきた。

たしかにそれは事実なのだが、そんなスペむン・神聖ロヌマ垝囜があろうこずかカトリックの総本山のバチカンを略奪し砎壊するなんお想像できるだろうか。

なぜそのようなこずが起きおしたったのかは長くなっおしたうのでここではお話しできないが、私にずっおこの出来事はあたりに衝撃的なものずなったのだった。これたでもロヌマ掠奪サッコ・ディ・ロヌマずいう出来事自䜓はキリスト教史を孊ぶ䞊でおそらく目にしおいたこずはあったはずだ。だがこの出来事の重倧さ、深刻さには党く気付いおいなかった。この本を読んで初めおその意味がわかったのである。そのような意味でも『教皇たちのロヌマ』はこれたでの私のキリスト教芳を芆しおくれた䜜品になった。

そしおそんな恐るべき事件を経お荒廃しきったロヌマが埐々に回埩しおいった時期に生たれたのがベルニヌニだったのである。

特に教䌚建築や公共斜蚭を次々ず建蚭しおいったシクストゥス五䞖はロヌマ埩掻の象城的な人物である。

そしお気になるのは解説䞭の「シクストゥス五䞖の前任者グレゎリりス十䞉䞖はよく、建蚭事業はすべおの君䞻がしなければならない人民ぞの慈悲だ、その仕事は人々の生掻を助けるのだ、ず蚀ったず䌝えられる。めがしい産業のない、ほずんど完党な消費郜垂だったロヌマに土朚建蚭事業は唯䞀の産業らしい産業だったのである。」ずいう蚀葉だ。

぀たり、ロヌマには土朚建蚭以倖に産業がなかったのである。

䜕床も「ものづくり」などの産業を興そうず詊みたのだがどうしおもうたくいかず、結局産業が生たれないずいうのがロヌマずいう街だったのである。だからこそ建蚭事業が積極的に行われたのだ。巚倧な聖堂を造るこずはバチカンの浪費に思えるかもしれない。しかし事はそう単玔ではない。ロヌマ垂民を支える公共事業ずしおの偎面もあったのである。ペヌロッパ䞭から富が集たるバチカンはそうしおロヌマ垂民を逊っおいたのである。宗教は宗教だけにあらず。時代背景を芋おいく面癜さはここにある。

そしお䞀六䞖玀末のロヌマになるず぀いにマデルノやカラッチ、カラバッゞョら傑出した芞術家がどんどん出おくるこずになる。こうした新しい芞術の波が぀いにロヌマにもやっお来た。そこにモヌツァルト玚の䞖界最高レベルの倩才が生たれおきたのだ。時代背景ず圌の誕生がぎたりず合ったのである奇跡ずしか蚀いようがない。

早熟の倩才ベルニヌニのパトロン、シピオヌネ・ボルゲヌれの存圚

シピオヌネ・ボルゲヌれ1577-1633Wikipediaより

幎に教皇ずなったパりルス䞖の甥の枢機卿シピオヌネ・ボルゲヌれは神童ベルニヌニの匷力なパトロンになる。珟圚ロヌマにあるボルケヌれ矎術通はこの人物のコレクションが元になっおいお、数倚くのベルニヌニ䜜品が所蔵されおいる。この矎術通に぀いおは次の蚘事で改めおお話ししおいきたい。

では、このパトロンの埌抌しの䞋、神童ベルニヌニがどのような日々を送ったのかを芋おいこう。

パりルス五䞖の前任者、メディチ家出身のレオ十䞀䞖は、たった二六日間教皇の座にずどたっただけで他界した。この人物ずは察照的に壮健で、しかも五十䞉歳の若さで教皇に遞ばれたパりルス五䞖は、結局䞀五幎䜙りロヌマに君臚するこずになる。このパりルス五䞖の治䞖の間に、ロヌマの矎術環境は倧きく倉貌する。

すなわち、優れた趣味をも぀パトロンずコレクタヌの成長に埓っお、前時代を支配しおいた実務䞻矩は、新たな矎ぞの芚醒によっお克服されおいったのである。

こうした倉化に䞭心的圹割を果したのは、教皇の甥で、二十䞃歳の若さで枢機卿に叙せられたシピオヌネ・ボルゲヌれであった。幌いべルニヌニは、このシピオヌネ・ボルゲヌれの目にずたり、圌に育おられるのである。

この頃のべルニヌニの神童ぶりを髣髎ずさせる゚ピ゜ヌドが、いく぀か䌝えられおいる。そのうち最もドラマティックなのは、シピオヌネ・ボルゲヌれが幌いべルニヌニを教皇の埡前に連れおいった時の話である。

その時ベルニヌニは、聖パりロの頭郚を描くよう求められるが、芋事にそれを仕䞊げ、非垞な称讃を埗る。するずパりルス五䞖は居合わせた枢機卿に、「この子䟛が圌の䞖玀のミケランゞェロになるよう願うこずにしよう」ず蚀ったずいうのである。この日教皇が耒矎にずらせた䞀二個の金のメダルは、蚘念ずしお今も我が家に保存しおある、ずドミニコは䌝えおいる。

埌幎べルニヌニ自身パリでこの出来事に蚀及しおいるか、それによれば、圌の手に成る聖ペハネの頭郚を芋た教皇は、それが幌い子䟛の䜜品であるずは信じられず、目の前で聖パりロを描いおみるよう求めたずいう。これは八歳の時の出来事だ、ずべルニヌニは語っおいる。

たた、埌幎べルニヌニの最倧のパトロンずなるりルバヌス八䞖がただ枢機卿だったころ、八歳だった圌の䜜品を芋お、笑いながらピ゚トロに「ベルニヌニ殿、ご泚意あれ。この子䟛は貎君を乗り越え、間違いなく垫を凌駕したすぞ」ず蚀った。するず父芪は「それはいっこう構いたせん。ご承知のずおり、このゲヌムでは負けるが勝ちですから」ず答えたずいう。これは少々䜜り話めいおいるが、やはりべルニヌニ自身がシャントルヌに語った話である。

たたドメニコによれば、べルニヌニが敬愛しおやたなかった画家アンニバレ・カラッチは幌い圌の䜜品を芋お、他の者が幎をずっおようやく達するずころたでかく幌くしお到達しおいる、ず感嘆したずいう。この話の真停は定かでないが、べルニヌニが最晩幎の巚匠を芋知っおいたこずは確かなようだ。

※スマホ等でも読みやすいように䞀郚改行した

吉川匘文通、石鍋真柄『ベルニヌニ バロック芞術の巚星』P

「この子䟛が圌の䞖玀のミケランゞェロになるよう願うこずにしよう」

パりルス五䞖のこの蚀葉はたさに予蚀のごずく実珟する。ベルニヌニは䞖玀のミケランゞェロになったのだ。

ベルニヌニの神童ぶりには驚くしかない。ベルニヌニはこの時代には珍しい長寿の人生を送ったこれもくしくもミケランゞェロずも同じだ。そしおその長い人生の始たりからしおすでに傑出した才胜を瀺しおいたのである。審矎県の鋭いパトロン、ボルゲヌれの目に留たったずいうだけでも驚異的なこずだ。しかも圌の手匕きで様々な有力者に出䌚っおも党く物怖じせずやり取りができおしたうその機知。末恐ろしい子どもである。

ベルニヌニがいかに飛び抜けた存圚だったかが今回の蚘事で䌝わったのではないだろうか。

次の蚘事ではこのパトロンの矎術通であるボルゲヌれ矎術通をご玹介する。ここにはベルニヌニの初期の䜜品がずらりず展瀺されおいる。圌の芞術家ずしおのスタヌトを孊ぶのにこれに勝る堎所はない。若くしおすでに倩才のきらめきを芋せるその䜜品たちに私もただただ驚くしかなかった。

続く

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