馬は嘘をつかない。第11回1990年 ― オグリキャップ、最後の戦い
※第1回:1983年、ミスターシービーの衝撃
https://note.com/masudaya01/n/n8beb00becc52
第2回:1984年・毎日王冠――「やっぱり三冠馬だ」と思った日
https://note.com/masudaya01/n/n447b8d60439e
第3回:天皇賞(秋)ミスターシービーという到達点
https://note.com/masudaya01/n/nf4286bade4ca
第4回:ミスターシービーが負けた日
https://note.com/masudaya01/n/n5b39150a34f8
第5回:ミホシンザンという抵抗
https://note.com/masudaya01/n/n70424c1322c4
第6回:勝ったのは、騎手だった
https://note.com/masudaya01/n/n85d05c374b7e
第7回:サクラスターオーという異端
https://note.com/masudaya01/n/ncb4220df7bf1
第8回:二頭の葦毛 ― 1988年
https://note.com/masudaya01/n/n02d59a99df2c
第9回:二頭の葦毛‐ 昭和最後の決戦
https://note.com/masudaya01/n/n7d6f7aad1571
第10回:1989年、競馬は物語になってしまった
https://note.com/masudaya01/n/nba4c4aa9f0c3
第11回:1990年 ― オグリキャップ、最後の戦い
https://note.com/masudaya01/n/n36565555d9c1
第12回:子供が生まれ、一口馬主になった年
https://note.com/masudaya01/n/nb10da38d5b6f
第13回:最初に当たった種牡馬の話
https://note.com/masudaya01/n/ncda1d0e42388
第14回:クラシックロードという名の罠
https://note.com/masudaya01/n/n389612e757ea
第15回:時代が変わったことに、気づいていなかった年
https://note.com/masudaya01/n/n8ba5b5e28d85
第16回:変わらなかったから、別の馬を選んだ年
https://note.com/masudaya01/n/nad157708857d
第17回:ヒダカブライアンという、儚い夢
https://note.com/masudaya01/n/nd0e9d4227dfb
第18回:お馬の親父Wが教えてくれたこと
https://note.com/masudaya01/n/naf55c98bbf52
第19回:血統を“見たつもり”になっていた頃
https://note.com/masudaya01/n/n88ece84a1649
第20回「牧場ツアーという名の分岐点」
https://note.com/masudaya01/n/nfa73d69e87a4
第21回|1998年、ユニオンで夢を買った頃 — サンデーサイレンス/ブライアンズタイムの時代
https://note.com/masudaya01/n/nc8fdd5a2d153
第22回|1999年、持ち込み馬に夢を見た頃(デヒアとコジーン)
https://note.com/masudaya01/n/n50f1f607b769
※本稿は、当時の筆者個人の体験と印象を記録したものであり、特定の個人・団体を批判する意図はありません。
1989年は激動の一年だった。
年が明けて1990年、オグリキャップは再び競走馬リハビリテーションセンター(常磐支所)、通称「馬の温泉」で休養していた。
俺は家族と一緒に、その馬の温泉へ足を運んだ。
実はそれまでに二度訪れていたが、時間や移動の都合が合わず、オグリキャップに会うことはできなかった。
三度目の正直。
ようやく、オグリキャップと初対面を果たした。
穏やかで、いかにも賢そうな馬だった。
それは、当時世話をしていた池江厩務員さんの人柄が、そのまま馬に表れているからだと、俺は思った。
池江厩務員さんとは、いろいろな話をさせてもらった。
その中で、次走は安田記念を目標にしていること、そして鞍上は武豊ジョッキーになる予定だということを知らされた。
新聞にも雑誌にも出ていない貴重な話だった。
胸を高鳴らせ、ワクワクした気持ちで安田記念を迎えた。
安田記念。
鞍上は武豊ジョッキー。かつてテレビで「オグリキャップは嫌い」と言い放った騎手と、再びコンビを組むことになった。
競馬とは、そういうものだ。
強敵だからこそ嫌いなのであり、昨日の敵は今日の友になる。
外国から取り寄せたエアロフォームの勝負服を纏い、オグリキャップは颯爽とパドックを周回していた。
今では普通になった装備だが、当時は新鮮で、誰もが望んだ光景が現実となった瞬間だった。
レースでは三番手を追走。
軽い足取りで走り、四コーナーを回ると早めに先頭へ立つ。
直線でも軽く鞭は入るが、ほぼ馬なりに近い走りでゴール。
タイムはコースレコード、1分32秒4。
スーパースターがスーパースターに乗って勝つ。
これ以上のものはない、完璧な勝利だった。
次走は宝塚記念。
しかし武豊ジョッキーは、お手馬のスーパークリークに騎乗するため、オグリキャップには乗れない。
当初は南井ジョッキーの名前も挙がったが、前年の菊花賞をバンブービギンで制しており、翌年もその馬に乗る予定があったため、オグリキャップは辞退となる話が出ていた。
結果、宝塚記念の鞍上は岡潤一郎ジョッキーとなった。
正直、この時は誰が乗っても勝つと思っていた。
オグリキャップなら当然だと、俺もそう信じていた。
しかし宝塚記念の結果は、オサイチジョージの2着。
負けたことよりも、いつものオグリキャップとは違う走りに、暗雲が立ち込めてきた。
その頃、オグリキャップにはアメリカ遠征の話が持ち上がる。
アーリントンミリオンステークスへの出走である。
すでにオグリキャップ観戦ツアーの広告も出ており、飛行機嫌いの俺でも「これは行かないとな」と思ったほどだった。
ところが、宝塚記念の敗戦直後、両前脚に骨膜炎を発症。
さらにその後、右後脚には飛節軟腫も見つかってしまう。
当然、アーリントンミリオンステークスは回避。
飛行機に乗らずに済んだ安堵と、オグリへの心配が入り混じり、複雑な心境になっていた。
オグリキャップは再び馬の温泉で休養に入り、秋に向けて英気を養うことになる。
やがて秋。
天皇賞(秋)は、ぶっつけ本番での出走となった。
鞍上は増沢末夫ジョッキー。当時、勝利数歴代一位の名手であり、鞍上は万全だと思えた。
しかし結果は6着。
今までのオグリキャップの走りではなかった。
続くジャパンカップでは11着。
「もうオグリは終わった」「引退すべきだ」
そんな記事が紙面を賑わせるようになる。
有馬記念を最後に引退することが発表された。
俺は「次こそ勝つはずだ」と思いながら、さまざまな情報を手にして気を紛らわせていた。
そんな時、オグリ陣営から
「有馬記念を武豊ジョッキーで」
という話が舞い込んだ。
武豊ジョッキーもこれを快諾。
芝での追い切りなどを行い、最後のレースに挑むことになった。
有馬記念当日。
中山競馬場は、膨れ上がった人の群れで埋め尽くされていた。
テレビでは特番が組まれ、カメラは馬房の中まで映し出されていた。
誰も勝つとは思っていない雰囲気。
「最後だから頑張ってほしい」
「無事に走ってほしい」
そんなアナウンスが流れていた。
だが俺は、ずっと勝つはずだと思っていた。
そして生まれて初めて、競馬場で馬券を買った。
熱狂の有馬記念がスタートする。
武豊ジョッキーは、オグリキャップを中段で進めた。
三コーナーから、オグリキャップはぐんぐん進出。
四コーナーを捲り込み、直線へ。
先頭はオサイチジョージ。
オグリキャップは手前を替え、これを交わして先頭に立つ。
そのままゴール。
武豊ジョッキーが手を挙げた。
中山競馬場の熱狂は、最高潮に達する。
武豊ジョッキーは馬場を走りながら、何度もガッツポーズをした。
やがてスタンドから、
「オグリ」
「オグリ」
というコールが響き渡る。
17万人のオグリコール。
その声は、凄まじかった。
俺はテレビの前で絶叫していた。
誰もがビールを飲み、祝杯を挙げた(笑)。
この後、三度の引退式を経て、
オグリキャップはターフを去った。
前回:第10回|1989年、競馬は物語になってしまった
https://note.com/masudaya01/n/nba4c4aa9f0c3
次回:第12回|子供が生まれ、一口馬主になった年https://note.com/masudaya01/n/nb10da38d5b6f
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