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天照大御神と瀬織津姫、二柱の循環と 奉納

こんにちは、あい・とわ実行委員会の・はっこうにん(発行人)、あいとです。

ぶっちゃけトークの5回目です。宜しければお付き合いくださいませ。

あの日、磐座で受け取ったもの

あの日、六甲の磐座の前に立っていたとき、何かを受け取ろうと身構えていたわけではなかった。

ただ、そこにいた。風の音や、木漏れ日や、岩の冷たさに包まれていただけだった。

なのに、気づいたら何かが自分の中を通り抜けていくような感覚があった。

流れ込んでくる、というより、もともと自分の中にあったものが、その場所の何かと共鳴して、動き出した、という感じに近い。

※前回の記事は下記を読んでみてください。

「そのままでいい」という言葉が降りてきたのも、たぶんその流れの中でのことだった。

その感覚を持ち帰って、言葉にして、誰かに向けて書いた。

すると、それを読んだ人から、また何かが返ってくる。

そうやって、磐座から始まったはずの何かが、私を通り、言葉を通り、
誰かの中へ渡って、またそこで動き出していく。

後から振り返って、私は気づいた。
私が頑張って何かを差し出したわけじゃない。

ただ、受け取ったものを、せき止めずに流しただけだったんだ、と。
たぶん、これこそが奉納ということなんだ感じています。

何かを新しく生み出して捧げることじゃなくて、受け取ったものを、
そのまま止めずに還すこと。

奉納というと、特別な作法や、改まった場を思い浮かべるかもしれない。

けれど、本質はもっと単純で、この「せき止めずに流す」という一点に尽きるんじゃないだろうか。

その循環に気づいていますか

あの磐座に祀られているのは、瀬織津姫さまです。

水の神、祓いの神と言われている神様だ。

ホツマツタヱでは、天照大御神さまの正后として登場するという説もある。
真偽のほどはわからない。

でも、あの場所で身体に流れ込んできたものを振り返ると、
この二柱のことを、どうしても重ねて考えてしまう。

天照大御神は、光を与え続ける存在なんだと思う。

何かを選んで与えるんじゃなくて、ただそこにあるものすべてに、
分け隔てなく光を注ぎ続けている。

太陽が今日も昇ってくるように、それは意志というより、
そういうものとして、もう最初からそうなっている。

瀬織津姫は、その光を受けて、あらゆるところに降りてきたものを、
川となって集め、清めながら、また海へと還していく。

祓いというのは、きっと拒絶や排除じゃなくて、受け取ったものを、
滞らせずに、もとの大きな流れに戻していく働きのことなんだと思う。

自然の光と海

つまり、天照大御神が与え、瀬織津姫がそれを還す。

分けて見れば二柱の神さまだけど、本質としては、たぶん一つの循環の、
両方の顔なんだと思う。

与えることと、還すこと。光ることと、清めること。

それは対立する二つの力じゃなくて、もともと一続きの動きが、
便宜的に二つの名前で呼ばれているだけなんじゃないか。

あの磐座の前で私が受け取ったのは、たぶんこの一続きの動きの、
ほんの一瞬だった。

天照大御神の光が、瀬織津姫を通して、石を通して、
私の中に流れ込んできた。

そして今、こうして言葉にして、誰かに差し出すことで、
私はその流れの続きを、また外へ還している。

問題は、それに気づいているかどうかだけなんだと思う。

今日も朝、当たり前のように日が差し込んでくる。

その光も、何億年も前からの、同じ循環の一部だと。

でも日常の中でそれを浴びているとき、たいていはそんなことを
意識していない。

眩しいな、暖かいな、くらいで通り過ぎてしまう。
本当は、当たり前なものなんて一つもないはずなのに。

太陽が今日も昇ったこと、水が今日も巡っていること、
自分がここに立っていて、その流れの中にいられること。

全部、奇跡と呼んでもいいことなのだと。

ただ、毎日繰り返されているから、奇跡だと気づかないまま、
通り過ぎているだけなんだと思う。

目の前にあるその現象

だとしたら、『あい・とわ』も、本当は遠くにあるもの
じゃないんだと思う。

これから作り上げていく場所、目指してたどり着く場所。

そんなふうに考えていたけれど、たぶん違う。

目の前で今も続いているこの循環そのものが、もうすでに、
『あい・とわ』なんだと思う。

『あい・とわ』は、あるがままで、もうここにある。

私たちがすることは、それを新しく作り出すことじゃなくて、
目の前の日差しの中に、それがずっと差し出され続けていたことに、
気づいていくことだけなんだと思う。

お天道様は、今もちゃんと目の前にある。
特別な儀式をしなくても、今日も朝、当たり前のように昇ってきた。

大きな海も、そこから立ち上って雨になり、川になって、
また還っていく水の循環も、今この瞬間も、目の前で絶え間なく、
続いている。

だとしたら、八百万の神というのも、遠くの誰かの話じゃないんだと思う。

山にも、石にも、水にも、木にも、それぞれに宿る神さまがいると、
昔から言われてきたのは、たぶん、この一続きの循環のあちこちに、

天照大御神と瀬織津姫のような、与えると還すの働きが、
無数に宿っているからなんだと思う。

神話というものも、たぶん同じことなんだと思う。

いつも同じ空はない

神話は、遠い昔にあった出来事の記録なんかじゃなくて、
今この瞬間も目の前で起きているこの循環そのものを、
人の形をした物語として語ってくれているだけなんじゃないか。

そう読み解くと、天照大御神と瀬織津姫の話は、過去に一度きり起きた
神話じゃなくて、光が差し込み、水が巡り、それがまた還っていくという。

今も、この瞬間に、起きている現象そのものの、
もう一つの言い方であり、見え方そのものなんだと思う。

神話を理解するというのは、だから、昔の物語を知ることじゃなくて、

今目の前で起きていることを、自分のこころで、感じて、理解すること、

それ、そのもの、なんだと思う。

仏心も、きっと同じことを言っているんだと思う。
すべてのものに、もとから仏の心が宿っている、という考え方がある。

特別な修行をして手に入れるものじゃなくて、もとからそこにある。

あるがままですでにある

それは、ここまで話してきた「あるがままで、もう満ちている」
ということと、たぶん同じことを、違う言葉で言っているだけ
なんだと思う。

だから、神さまも仏さまも、遠くにいるわけじゃない。

目の前の光の中に、水の流れの中に、石の中に、もうずっと
宿り続けているんだと思う。

でも、たぶん、みんなそれを忘れてしまっているんだと思う。

それくらい、私たちは自然から遠ざかってしまっているのでは
ないだろうか。

コンクリートに囲まれて、画面ばかり見て、天気予報の数字は見ても、
実際の空を見上げる時間は、どんどん減っている。

なぜここまで忘れてしまったんだろうか、と考えると、

たぶんその大きな理由のひとつは、今の私たちの日常のほとんどが、
資本主義の「取引」を前提にした関係でできているからなんだと思う。

何かを差し出すときは、必ず対価がある。

与えたら、その分を回収する。

損得を先に計算してから動く。

それが当たり前になりすぎていて、気づかないうちに、

私たちは自然に対しても、同じものさしを
当ててしまっているんじゃないのか。

自然は本来、天照大御神が見返りなく光を注ぎ続けているように、
条件をつけずに与え続けてくれている。

でも、取引の感覚に慣れきった目で見ると、
その「見返りのなさ」自体が、うまく捉えられなくなる。

何も要求してこない相手には、こちらも何も返さなくていい、
という誤解が生まれてしまう。

そうやって、与えると、還す、のひとつづきの本来の循環から、
取引という考え方だけが、切り離されて肥大化していったのが、
たぶん、今の、この時代なんじゃないのか。

自然との乖離は、特別な事件が起きて生まれたものじゃなくて、
日々の当たり前の取引の積み重ねが、静かに広げてきた距離なんだと思う。

自然への心の解像度を、ほんの少し上げるだけでいいんじゃないか。

そうすれば、目の前でずっと、循環して還っていくことが起きていた、
そのことに、たぶん誰でも気づけるはずでしょ。

光が届いて、水が巡って、それが自分の中を通って、また外へ出ていく。

その動きに気づけたら、あるがままに、この差し出し合う循環を、
特別に意識しなくても、自然に行えるようになるんだろうなって。

自然をなぜ忘れかけているのか

だとしたら、なぜ私たちは、それをここまで、
忘れてしまったんだろうか。

正直、まだ自分の中でもはっきりした答えは出ていない。

便利になりすぎたからなのか、忙しさに追われているからなのか、
取引という考え方に慣れすぎてしまったからなのか、
それとも、もっと別の理由があるのか。

今の私には、まだわからない。

たぶん、「なぜ忘れてしまったのか」ということ自体が、
答えを出して終わらせる類いの問いじゃなくて、
ずっとその中で生き続ける問いなんだと思う。

イメージとしては、映画『マトリックス』に出てくる人たちに
近いのかもしれない。

作られた世界にどっぷり浸かっていて、その外側に、もう一つの世界が
ずっと広がっていることに、気づかないまま生きている。

私も含めて、便利さや情報、次々に差し出される刺激でできた、
この世界の中にいて、その向こう側で光や水がずっと、
循環し続けていることに、なかなか気づけずにいる。

でも、映画と違うのは、外に出るための特別な扉や、
赤い薬みたいなものは、たぶん必要ないということだと思う。

ふと空を見上げる。

水を一口飲む。

それだけで、いつでもその循環に触れ直せる。

閉じ込められているわけじゃなくて、ただ、意識がそちらに
向いていないだけなんだと思う。

だから、この問いは、解いて終わらせるものじゃなくて、
ふと立ち止まるたびに、何度でも思い出していい問いなんだと思う。

もう一度、その感覚を取り戻したい

私が本当に取り戻したいのは、たぶんこの、自然とつながっているという、あの単純な感覚なんだと思う。

あるがままでいい、というのも、たぶん同じことなんだと思う。

何かを差し出す、と言うと、身構えてしまう人もいるかもしれない。

でも本当は、たぶんもっと優しい話なんだと思う。

「わたしの聖地」で書いた、あの磐座の前で降りてきた
「そのままでいい」という言葉。

あれは、何かを新しく獲得しろとか、頑張って生まれ変われとか、
そういう話じゃなかった。

むしろ逆で、もう今のままで、すでに満たされているという感覚だった。

だとしたら、差し出すという行為も、何もないところから何かを
絞り出すことじゃないのかもしれない。

もともと満ちているものを、ただそのまま外に還していくだけ。

コップにすでに水がいっぱい入っていて、そこにさらに水が流れてくると
自然にあふれだしてこぼれていく、その感じに近い気がする。

奉納というのも、きっとそういうことなんだと思う。

何かを特別に作り出して、条件つきで差し出す取引じゃなくて、
もとから満ちているものが、あふれて還っていく。

そのごく自然な動きに、名前をつけただけなんじゃないか。

だから私は、「命とか生きることっていう本質をどう認識しているか」は、
すでに満たされている自分がいる。

それをただ、あるがままに還していくだけでいい。

差し出す前から、もう十分足りているって、

そう、自然は、教えてくれているのだと。

あなたは、そのままでいいのだと。

それに気づいているか、どうかだけの違いではないのかと感じています。

最後までお読みいただきありがとうございます。

この続きはまたどこかで、よかったら、記事の感想なんかをコメントで教えてください。


さらに詳しく、あい・とわを知りたい方は、
こちらの記事も読んでみてください。


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あい・とわ 発行人 あいと / 制作:あい・とわ実行委員会
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