【小説】名もなき空の若者たち【第1章 佐伯の冬 ― 九九式艦爆訓練生たち】15.冬の営舎 ― 手紙
第1章 佐伯の冬 ― 九九式艦爆訓練生たち
第15節 冬の営舎 ― 手紙
夜の営舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
灯りは弱く、窓の外には、冬の闇が広がっていた。
風はほとんど吹いていないのに、
どこか遠くで木々がかすかに揺れる音がした。
六人は、それぞれの机に向かっていた。
紙の上に落ちる影は細く、
その影の中に、
彼らの“地上に残してきたもの”が、静かに滲んでいた。
■ 大庭 清一の手紙
大庭は便箋を前にして、しばらく手を止めていた。
書きたいことはある。
だが、書いてはいけないこともある。
いや、書けないことのほうが、多い。
「母さん、こちらも寒いけれど……
空は思ったより静かです」
そこまで書いて、手が止まった。
本当は、
急降下のたびに胸が潰れそうになること。
事故を見て眠れなかったこと。
川畑の声がなければ前を向けなかったこと。
どれも……書けなかった。
「心配はいりません。
皆、いい仲間です」
その“皆”の中に、
川畑の名を思い浮かべながら、
大庭は静かに封をした。
■ 川畑 正の手紙
川畑は、便箋の端を指でなぞっていた。
妻の顔が浮かぶ。
娘の小さな手の感触が蘇る。
「美咲へ
今日も無事に飛びました。
娘は元気にしていますか」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
本当は“怖い”と書きたかった。
“帰りたい”と書きたかった。
だが、書けない。
「大庭さんは頼れる人です。
後ろにいると……不思議と落ち着きます」
その一文だけが、
川畑の本音に最も近かった。
■ 石田 誠の手紙
石田は、いつもの軽口とは違う表情で筆を走らせていた。
「母さん、俺は元気だ。
仲間もいい奴ばかりだ」
そこまでは軽い調子だったが、
次の行で筆が止まった。
「……空は、思っていたより静かだ」
その静けさが、
時に恐ろしくなることは書かなかった。
「浜田って奴がいてな。
無口だが、頼りになる。
あいつが後ろにいると、
なんか、落ち着くんだ」
石田は、
自分が誰かに支えられていることを、
初めて文字にした気がした。
■ 浜田 直哉の手紙
浜田は、便箋を前にして長い時間動かなかった。
書くべき言葉が見つからない。
「父さん、母さん。
こちらは寒いですが……
皆で助け合ってやっています」
それだけ書いて、筆を置いた。
本当は、
石田の軽口に救われていること。
事故の夜、眠れなかったこと。
自分の弱さを誰にも見せられないこと。
どれも書けなかった。
「心配しないでください」
その一文だけが、
彼の精一杯だった。
■ 村瀬 俊太の手紙
村瀬は、婚約者の名を便箋の最初に書いた瞬間、
胸が熱くなった。
「春江へ
そちらは雪が降っただろうか」
彼女の笑顔が浮かぶ。
その笑顔が、自分を支えている。
「今日、少し失敗をした。
でも……次は必ずうまくやる」
本当は、
黒田に殴られた頬がまだ痛むこと。
“怖い”と口にした自分が情けなかったこと。
新城の声に救われたこと。
どれも書けなかった。
「帰ったら、また一緒に歩こう」
その一文に、
村瀬のすべてが込められていた。
■ 新城 勇の手紙
新城は、家族の顔を思い浮かべながら筆を取った。
「皆へ
俺は……元気にやっています」
その“元気”の裏に、
昨日の事故の影がまだ残っている。
「村瀬さんと組んでいます。
前の人がしっかりしていると、
後ろも落ち着きます」
それは、
新城が初めて誰かを信頼した証だった。
「心配しないでください」
その言葉は、
自分自身に向けた祈りでもあった。
■ 高梨勇作の妻・佳代からの手紙
六人が封を閉じたころ、
営舎の隅でひとり静かに便箋を開いている男がいた。
高梨 勇作。
六人の未来を静かに見守る教官。
薄い桃色の封筒。
差出人は――妻・佳代。
高梨は、
封筒の端を指でなぞり、
ゆっくりと開いた。
佳代の手紙
「勇作さんへ
こちらは今日も冷え込みました。
庭の柿の木に霜が降りています。
あなたがいない冬は、
いつもより……少しだけ静かです。」
高梨は、
その“静か”という言葉に胸が疼いた。
「悠は三つになり、
ますます言葉が増えました。
昨日は『お父さん、ひこうき?』と聞きました。
あなたのことを話すと、
嬉しそうに手を広げて走り回ります。」
息子の小さな手の温もりが蘇る。
「どうか、身体に気をつけてください。
あなたが空で何をしているのか、
私は詳しくは知りません。
でも、
あなたが“誰かを導く人”だということだけは
よく分かっています。」
高梨は、
便箋を胸に、そっと押し当てた。
「あなたが帰ってくる日を、
悠と二人で待っています。
佳代」
■ 冬の営舎に灯る七つの影
高梨は便箋を静かに折り、
胸ポケットにしまった。
六人の手紙とは違い、
佳代の手紙には“戦場の影”が一切なかった。
それが、かえって胸に刺さった。
冬の営舎には、
紙の擦れる音と、
誰かのため息と、
遠くの風の音だけが響いていた。
空は奪う。
空は救う。
そして地上には、
“待つ人”がいる。
六人と一人の影は、
その事実を胸に抱えたまま、
静かに、夜を迎えた。
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