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『ちいかわ』化する社会の「解決策」としての『マタギドライヴ』

さて、先月『ちいかわ』について取り上げてから、行く先々でこの話を振られて、ちょっとビックリしている。しかし、これは、結果的にそうなっただけかもしれないが、同作が「よくできている」証拠なのだろう。身も蓋もないことを言えば、これは、身分化しつつある日本社会の寓話であり、同時に、かつて戦後中流と呼ばれていた階級の出身者の多くがアンダークラスにジワジワと転落していったこの「失われた30年」のなかで、「身分」に納得し、余計なことを考えず、搾取される側のままでいることを正当化する物語ーー麻薬としての「小さな幸せ」ーーへの需要がある、ということに尽きる。

で、今日考えてみたいのは、それとはまたちょっと別の話だ。先に結論を述べてしまおう。「ちいかわ」化する社会を「どうすればいいのか」。その問いに正面から応えるのが落合陽一『マタギドライヴ』なのだ。

要するに、いま「ちいかわ」の側に置かれた人間の選択肢は限られている。一つは、アンダークラスであることを受け入れ、仕事を通じた自己実現も家族形成も諦めて、「友だちとのラーメン」的な小さな幸せを支えに生きていく選択だ。

もう一つは、発狂してモンスター化(キメラ化)し、誰かを叩いて憂さ晴らしをする生き方だ。具体的には、XやYouTubeで、社会問題について、あるいは有名人に対して、頭の悪い文句を書き連ねることで、無理やり「自分はバカじゃない」と自分に言い聞かせているような人たちだ。この層は、世界中で政治的なマーケティングの対象になっていて、現在の戦争リスクの高まりの原因でもある。

僕は、前者の「小さな幸せ」は大事だと思う。しかし、それが強いられたものであり、最初から他の選択肢が与えられないのは問題だと思う。

そして後者の層は、早く自己像を妥当なものに修正し、この「小さな幸せ」で恒常性を保つ努力をしたほうがいいと思うが、彼ら彼女らは、そのプライドの高さゆえに、こうした「正論」に耳を貸さないだろう(たとえマイルドな語り口にしても、単に反省しなくなるので、結局同じだ)。

だから、こうした構造をハッキリと言語化し、構造を把握したうえで、彼らが「そうならない」ための環境整備が重要だと思うのだが、それはまた別の話(『庭の話』『第四の主体のためのノート』)だ。

で、構造的なケアとは具体的に何か。それは、格差そのものを緩和すること(少なくとも格差の「身分化」は回避しないとマズい)と、人間の実存の問題に対応することだ。今回考えてみたいのは、後者のほうで(前者も考えるが、2000字のnoteなので別の回でやる)、要するに、今日の世界では、自分が「誰かに認められている」という感覚がある程度安定していないと、人間の精神は不安定になる。市場で高い値段がつくか、有名になるか、家族の中で満たされるか(一見「いい話」だが、これは「父」や「親」による「妻」や「子」の搾取の温床なので、あまり持ち上げないほうがいい)、ムラ社会(昭和的な職場や「業界」や「界隈」、あるいは地域共同体)で満たされるか、だ。最近は逆張り的に最後の「共同体」が人気だが、これは歴史的に、端的に言って、差別とイジメの温床だ。

やっぱり、僕は「個人」を単位に世界とつながる回路「も」必要であり、これによって、アイデンティティの問題(誰かに認められることで維持される「一般の中の特殊な私」という物語への依存)を「緩和」するしかないと考える。

この僕の考えのなかで大きな役割を果たすのが、落合陽一『マタギドライヴ』の理論(の一部)だ。

さきほどの『ちいかわ』の例で言うと、ちいかわたちがモンスターを討伐し、毒草を駆除しても、世界は何も変わらない。しかし、落合陽一の描く未来像では違う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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