『ちいかわ』と「格差」の問題
先週、映画が話題の『ちいかわ』についての座談会動画を公開した。反響が思いの外大きく、ここに簡単にその座談会を通して考えたことを記しておこう。
僕が『ちいかわ』について考えるのは、これが貧困化と実質的な身分制のような分断が進行する今日の日本社会の寓話になってしまっているということだ。(一応、義務教育レベルのことを確認しておくと、作者の意図とかはどうでもいい。人間には「無意識」があるので、あらゆる表現には、結果的にそうなってしまった部分が含まれる。)
要するに、主人公たちの種族はアンダークラスであり、危険で低賃金のアルバイトで糊口をしのいでいる。彼らを管理している鎧姿の種族(人間?)との間には、明確な支配―被支配の関係がある。
これも教科書的な解説だが、「失われた30年」以降の日本では階級分化が進んでいる。要するに、大企業や公的機関の正規職員、あるいは、そこから戦略的に逸脱してベンチャー市場に参入する層と、それ以外の層(下級ホワイトカラー、ブルーカラー、エッセンシャルワーカー)との間に明白な格差がある。前者に属する人々には、戦後的な社会保障がなんだかんだで温存されており、パワーカップル化もできる。後者にはその保障がなく、相対的に購買力が低下している。そして後者の中には、キャリア形成の過程で正規雇用のルートに一度も乗らないアンダークラスが存在し、この層はかなり貧困化のリスクが高い。さらに頭が痛いことに、この30年の間に世代交代がはじまり、上記の階級は半ば「身分」化しはじめている。端的に言って、「地獄」(のはじまり)だ。
要するに、僕には、この作品がこうした格差社会の結果として出てきて、受け入れられてきたものに思えてならないのだ。
毒草やモンスターの駆除というブラックなアルバイトで糊口をしのぎ、半ばホームレス(洞窟生活をしている)のハチワレが、インスタントの袋ラーメン(チャルメラ)に小さなしあわせを見出すエピソードなどは、その象徴だろう。
主人公(ちいかわ)たちの種族に性別が描かれないのは、彼らが再生産(子孫を残すこと)を前提としていないからだ。それが僕には、経済的な理由で子どもを持てないアンダークラスの姿に重なって見えてしまう。ここで描かれているのは、経済的な理由で結婚も家族形成もできないが、同じ境遇の者同士、肩を寄せ合って小さなしあわせ(インスタントラーメン的な)を共有して生きていく、という世界ではないかと思うのだ。
いや、それがいいとか悪いとか、そういう話じゃない。ご存じの人も多いと思うけれど、僕は家族形成をロマン化して持ち上げる考えにはかなり冷ややかだ(別に家族を持たない生き方をする人がいてもいいし、そういう人もいるほうが世界は豊かだと思う)。だから、ちいかわとハチワレがふたりでインスタントラーメンを食べるのを楽しみに生きるスタイルを否定したいとはまったく思わない。(去年、中年男性二人が毎週ラーメンを食べに行くという内容のエッセイ本を出版した人間は、かなり「そちら側」の価値を共有している。)
しかし、端的に言って、この作品がここまで受けてしまういまの日本はヤバいと思う。というか、それはこの作品が傑作である証拠なのだが、どう考えても、この作品を受容している普通の人のなかには、それこそ無意識的に、この階級分化と身分制の中での小さな幸せの提示に癒されている人も少なくないと思われるからだ。
これは明らかに、ポスト戦後中流ファミリーマンガ(アニメ)だろう。たとえば『サザエさん』は妹たちを支え、ペン一本で上京してきた長谷川町子が理想化した高度成長期の幸福な(大)家族モデルの提示だし、『ちびまる子ちゃん』は八百屋の娘だった(つまり、勤め人中心の戦後中流のやや外側にいた)さくらももこが憧れた70年代の「普通(戦後中流)」の理想化だし、『クレヨンしんちゃん』は(しんのすけの変態性を除けば)そのバブル的な核家族へのアップデートだと考えればいい。
こうして考えたとき、少なくとも『ちいかわ』の受容が意味するものは明白だ。
ここから先は

u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。
