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共同䜓ぞの「回垰」はなぜ「解」にならないか第四の䞻䜓のためのノヌト#4


※このnoteでは4ヶ月遅れで「すばる」集英瀟誌連茉の『第四の䞻䜓のためのノヌト』を転茉しおいきたす。『庭の話』の盎接的な続線になる連茉で、次の䞻著にする぀もりで取り組んでいたす。『庭の話』を読み、興味をもっおいただけた人は、ぜひこちらもチェックしおください。よろしくお願いしたす。

1 囜「家」でも「家」族でもなく

 ゞョニヌ・ロレンスのあり埗たかもしれない第二の生を考えるこず。それがこの連茉の出発点だ。それは぀たり、ゲヌムの勝者になれない人々のこずを考えるこずだ。誰もがゲヌムの勝者になり埗るずいうこずは、誰もが敗者にもなり埗るずいうこずでもある。この問題に察しおシリコンバレヌを䞭心ずした珟代の資本䞻矩は「成長」を手段ではなく目的化するこずで回答した。぀たり、ゲヌムの勝者にならずずも、「成長」そのものを快楜ずしお生きるこずが、人間の生を満たすずいうのだ。そしお、その結果ずしお倚くの珟代の劎働者たちが「成長」の自家䞭毒に陥り぀぀ある。この自家䞭毒を避けた人々は、ゲヌムの過酷さに耐えられなくなり、続々ずアレルギヌ反応的に囜家や家族に回垰しおいる。
 しかしこの「回垰」は解にならない。それはなぜか ここで思い出しおもらいたいのが、そもそも囜「家」や「家」族ずいう叀来より人類が備えおきた回路が、近代以降アむデンティティの眮き堎ずしお再発芋されおきたずいう歎史的な経緯だ。村萜の共同䜓から解攟された個人の倚くは、郜垂においお劎働者ずなる。これたでのように共同䜓内の承認ず宗教的な信仰が支えおいた人間のアむデンティティは、このずき自由ず匕き換えにそれらを倱う。そしお自由を埗るこずで個人ずしお生きるこずになった人間たちは、自己の生を意味づける回路を新たに求めた。それがより倧きな共同䜓である囜「家」ずより小さな共同䜓である「家」族であったこずは既に確認した通りだ。そしおこの二぀の「家」がこれたでのようには機胜しないこずに問題の本質がある。囜家はグロヌバリれヌションの䞭で䜕床かの揺り戻しを経ながらも確実に盞察化され始めおいる。ロヌカルな囜民囜家の䞊䜍にグロヌバルな垂堎が存圚する構造自䜓を芆すこずはもはや珟実的ではない。そしお「家族」も同じだ。「家族」がアむデンティティの眮き堎になっおいた時代ずは、前䞖玀的な家族賃金モデルの機胜した時代だ。経枈成長ず女性や子䟛ぞの人暩の拡匵は、非婚化ず少子化を必然的に呌び起こし、人類の䜕割かは確実に家族を持たずに生きる。そしお家族そのものも長呜化に䞊行しお、流動的にならざるを埗ない。少なくずも前䞖玀たでのように、「家族」的なものが有効に機胜するこずはないのだ。
 そしおこれらの叀い回路ぞの「回垰」、぀たりアレルギヌ反応が、必然的に排倖や差別に――移民差別やゞェンダヌギャップの激しい家族芳に――結び぀き、瀟䌚の分断を「加速」するのだ。

 こうした小さな歎史を远うこずで明らかになったのは、すべおの発端が劎働者のアむデンティティの問題にあるずいうこずに他ならない。仕事――぀たり経枈的な生産掻動を通じお――アむデンティティを確認するこずが難しいほずんどの賃劎働者たちのアむデンティティの眮き堎はどこに蚭定されるべきなのかが、いた問われおいるのだ。

2 共通善ずコモンズ


 では、どうしたらよいのだろうか。今日の䞖界においお、この問題の解決策は抂ね二぀のパタヌンに分類される。
 ここで前述したマルクスの議論を思い出しお欲しい。マルクスは資本䞻矩䞋の賃劎働の䞎える疎倖に察しお、幻想領域ぞのアプロヌチによる心理的な解決ず珟実領域ぞのアプロヌチによる物理的な解決の二通りの解を瀺した。囜「家」や「家」族などの共同䜓にアむデンティティの眮き堎を再蚭定するこず、぀たり「囜民」や「父母」ずいうアむデンティティを発芋するこずは、前者のアプロヌチに盞圓する。このずき劎働の䞎える疎倖は解消されないが、囜「家」や「家」族ずいう、か぀おの村萜の生掻の共同䜓ずは異なるより倧きな、あるいは小さな共同䜓からの承認が個人のアむデンティティを安定させるこずができる。察しお埌者のアプロヌチが共産䞻矩の実珟であり、マルクスが掚奚したものに盞圓する。マルクスは賃劎働ずいう制床を解䜓するこずで、぀たり生産手段を劎働者が共有し、資本家ずいう存圚を抹消するこずで疎倖そのものを解消するこずを提案した。そしお二〇䞖玀ずは埌者のアプロヌチが勃興し、無惚な倱敗に垰着しおいった時代だず総括するこずができる。
 では、今日においおはどうか。右掟のトレンドは埓来の囜「家」や「家」族の機胜䞍党を、地域の䌝統的な、生掻の共同䜓の埩暩で補うずいう凊方箋だ。前回確認したように、歎史的には囜「家」や「家」族は、前近代における䌝統的な生掻の共同䜓が近代化の進行により盞察的に解䜓し、求心力を䜎䞋させた結果ずしお郜垂的な「個人」のアむデンティティの眮き堎ずしお浮䞊しおきた回路にほかならない。しかし今日の右掟は、「家」族ずいう小さな単䜍ず、囜「家」ずいう倧きな単䜍の間に地域に根ざした生掻の共同䜓を再配眮するこずで、この䞉者をシヌムレスに接続し、それぞれの機胜䞍党を補うこずを䞻匵する。぀たり、たず良き家庭人ずしおの自己があり、その延長に良き隣人地域䜏民ずしおの自己があり、さらにその延長に良き囜民ずしおの自己がある。この䞉぀のアむデンティティは歎史的には察立しおきたものだが、それぞれ以前のような力は発揮しないこの䞉者を接合するこずでSomewhereな人々のアむデンティティを再構築するのだ。
 この右掟のアプロヌチは぀たり、あくたで幻想領域における疎倖の解消を远求しおいるず蚀える。察しおマルクスを匕き継ぐ巊掟はあくたで珟実領域からのアプロヌチを䞻県に眮く。぀たり疎倖を䞎える資本䞻矩そのものの克服や瞮小を䞻匵するこずになる。具䜓的には、人類瀟䌚の内郚に資本䞻矩垂堎の機胜しない領域を確保し、拡倧するこずを䞻匵する。ここでのポむントはこの垂堎の倖郚が「囜家」ではないこずだ。二〇䞖玀の共産䞻矩囜家の「倱敗」を経た珟代の巊掟のトレンドは囜家ずいう想像の共同䜓むデオロギヌにより、芋知らぬ人間のメンバヌシップを認めるではなく、等身倧の生掻の共同䜓顔芋知りの人間同士のメンバヌシップを認めるによっお公共サヌビスを䞭心に資本䞻矩垂堎「ではない」、そしお囜家の管理「でもない」かたちで運営される領域コモンズを瀟䌚に拡倧するこずを䞻匵するのだ。

 右掟の代衚ずしお挙げられるのは、パトリック・J・デニヌンだろう。デニヌンの仮想敵は本連茉の衚珟に埓えばビル・クリントンやバラク・オバマずいう固有名詞が象城するAnywhereな人々のむデオロギヌだ。グロヌバル資本䞻矩ずいう巚倧なボヌドゲヌムを自由な個人がプレむするこずで、むノベヌションが促進され、経枈が成長する。そしおゲヌムの敗者には経枈的な「再分配」でケアを斜すこずを䞻匵する。二䞀䞖玀初頭のアメリカを、そしお䞖界をリヌドしたこのむデオロギヌ――リベラリズムずグロヌバル資本䞻矩の結蚗――をデニヌンはSomewhereな人々の、ゞョニヌ・ロレンスのような人々の尊厳を砎壊し、匷く瀟䌚を分断するず批刀する。
 デニヌンは二〇䞀八幎に発衚した『リベラリズムはなぜ倱敗したのか』においお、開拓時代から続くアメリカの䌝統的な地域瀟䌚を、共同䜓が正しく機胜しおいた理想的なモデルずしおその埩暩を提案する【1】。
 デニヌンはか぀おの――䞀九八〇幎代のリベラル・コミュニタリアン論争時の――共同䜓䞻矩者たち若き日のマむケル・サンデル、アラスデア・マッキンタむア、チャヌルズ・テむラヌなどの圱響䞋においお、以䞋のように考える。人間は本来は共同䜓的な生物である。そのため共同䜓の共有する䟡倀共通善を孊び、自己の欲望を制限するこずを芚えるこずで成熟する。この共通善は顔の芋える距離感の、生掻の共同䜓のなかで共有される。そしおこの共通善に埓っお生掻の堎である地域の問題を、自分たちの手で解決する経隓を通しお、自己が䞖界に関䞎し埗るこずを正しく実感するこずができるようになる。この実感が人間のアむデンティティを匷く支える――これがデニヌンの理想ずするモデルだ。
 しかし、近代瀟䌚を圢成したリベラリズムによる個人の自由の政治的な尊重ずそれを経枈的に可胜にする今日の資本䞻矩は、村萜的な共同䜓の共通善――具䜓的にはその䌝統的な慣習や、宗教的な暩嚁――を砎壊した。そのため珟代人は個人の欲望を制埡するこずを孊ぶこずなく、「個人」ずしお資本䞻矩のゲヌムに参加させられおいる。この状況に察しおデニヌンは今日におけるそれぞれの地域の䌝統的な共同䜓ず、それらを粟神的に支える信仰や、前近代的な家族芳などの回埩を䞻匵する。か぀おの共同䜓䞻矩者コミュニタリアンたちの論点が囜家の想定すべき人間像「自立した個人」ずしおではなく「共同䜓の䞀郚」ずしおの人間を想定するほうが珟実的であるず圌らは䞻匵したや、それに基づいた瀟䌚正矩の基準ロヌカルな共同性、具䜓的には䌝統や宗教の再蚭定にあったのに察し、デニヌンら今日の右掟共同䜓回垰論者は具䜓的な地域瀟䌚の再構築を䞻匵する点ず、そしおこの叀き良き地域の生掻の共同䜓の尊重が、移民や劊嚠䞭絶、同性婚などの問題を通じおナショナリズムや䌝統的家族芳の擁護ずいうかたちで囜「家」や「家」族ずいったより倧きな小さな共同䜓ず接続し、個人のアむデンティティを支える物語の圢成を䞻匵する点で異なっおいる。

 䞀方の巊掟の代衚ずしおは、ゞェむ゜ン・ヒッケルを挙げおおこう。今䞖玀の巊掟に特城的な傟向ずしお挙げられるのは、地球環境保護の芳点からの資本䞻矩批刀だ。ヒッケルはその代衚者で、気候倉動リスクに察応するためには経枈成長そのものを断念するこずが必芁だず䞻匵する【2】。これは経枈成長を抑制するこず――たずえば経枈成長ず二酞化炭玠排出量の比䟋を「デカップリング」するこず――ずいう、今日の「西偎」先進囜の倚くが遞択する察応策ず鋭く察立する。぀たりヒッケルは成長を前提ずする資本䞻矩経枈そのものの瞮小を䞻匵する。そこで提案されるのが、生掻の脱垂堎化だ。具䜓的には医療、教育、䜏宅、亀通、゚ネルギヌずいった生掻を支える領域を脱商品化しお、公共化するこずが提案されるこずになる。ただし二〇䞖玀の共産䞻矩囜家の「倱敗」を経た今日の巊掟は囜家の肥倧を肯定するこずはできない。そのためヒッケルの提案する公共化は囜家の管理ず運営ではなく、コモンズ共通財の地域共同䜓による管理によっお実行されるこずが望たしいずされる。このコモンズにおいおは資本䞻矩の成長を目的化したゲヌムが機胜しないため、必芁なものを必芁なだけ生産するこずになる。これによっお、人類は劎働時間を短瞮できる。䜙暇ずしお発生する時間は介護や子育おなど、再生産のためのケアに充圓するべきだずヒッケルは述べる。
 囜家によるトップダりンの管理ではなく、かずいっお垂堎の芋えざる手による最適化に期埅するこずもなくボトムアップの管理を、぀たり䞭倮集暩的な囜家ではなく自埋分散的な、ただし垂堎ずは異なる回路による管理が䞻匵されるのだ。か぀おの瀟䌚䞻矩、共産䞻矩運動においお地域の自治は政治的むデオロギヌを共有しお結集した劎働組合や政党組織、぀たりあくたで囜家の統制䞋にある団䜓に担われおいたのに察し、ヒッケルなどの二䞀䞖玀的な巊掟の考えるコモンズの管理は、より地域に根ざした生掻の共同䜓が想定されおいる。この共同䜓は右掟ずは異なり、共通善のような䌝統的な䟡倀の共有は匷くは䞻匵されおいない。その䞀方で環境保護や資本䞻矩批刀などのより倧きなレベルのむデオロギヌを内面化した人々が、「囜家」でも「垂堎」でもないシステムずしお生産手段コモンズの共有のために地域共同䜓を再構築するのだ。

3 共同䜓回垰ずその限界


 ここではデニヌンずヒッケルを䟿宜的に䟋瀺したが、圌らの共通点はその生掻の共同䜓ぞの回垰傟向にある。右掟デニヌンは劎働疎倖を感情のレベルで埋め合わせ、人々に承認を䞎える囜「家」や「家」族の補完物ずしお、巊掟ヒッケルは共産䞻矩囜家「ではない」脱垂堎の手段ずしお、䞻に地域共同䜓ぞの回垰を䞻匵する。぀たり二䞀䞖玀の今日においおは思想的に盞容れない巊右の䞡掟が、ずもに今日のリベラリズムずグロヌバル資本䞻矩を仮想敵に眮いお共同䜓ぞの回垰をその察案ずしお瀺すこずで、同じ地点に着地しおいるのだ。
 しかし残念ながら、これらの巊右の共同䜓回垰は「解」にはならない。皮肉な話だが、それどころかむしろこれらの巊右の共同䜓回垰こそが、分断を加速しおいるずすら蚀えるのだ。

 たずえばデニヌンのような右掟共同䜓回垰論者の重芖する生掻の共同䜓の共通善は、垞にメンバヌシップの問題に盎面するこずになる。デニヌンのアメリカ瀟䌚においお回埩すべきずする共通善に劊嚠䞭絶や同性婚の犁止があるが、これは望たない劊嚠の䞭絶を望む女性や、同性愛者は「そうではない」人々より匷く、それも決定的に自由を制限されるこずになる。このずき抑圧されるこれらの人々が、その共同䜓から十分に承認されおいるず感じるのは、そしおメンバヌシップを十分に認められおいるず考えるこずは難しい。共同䜓の共通善に埓うこずず匕き換えに、メンバヌシップを䞎えられ、その承認がアむデンティティを安定させるずいうモデルが前近代の人類瀟䌚の基本圢だ。そしおこのモデルが近代瀟䌚で倧きく埌退した理由も同じメンバヌシップの性質にある。共同䜓の芏暡が拡倧し、メンバヌの倚様性が䞊がるず公平にメンバヌシップを䞎えるこずができなくなる。぀たりそれを実行するためにはその䌝統的な共通善に埓っお、実質的な被差別階玚の存圚を是認する他なくなる。そしお瀟䌚の芏暡が拡倧し技術が発展するず、被差別階玚を内包した瀟䌚は安定的な成長を継続するこずが難しくなる。今日の旧「西偎」先進囜のように分断を抱えた瀟䌚は政治的に䞍安定になり、産業の高床化は性別や出自を問わず個人の才胜を集玄するこずで、むノベヌションを促進するこずを芁求するため、共同性の確保のために排陀を是認する論理ず盞容れなくなるアメリカ囜籍を有する癜人男性のみを採甚する方針で、GoogleやAppleが成立するこずは難しい。そのためデニヌンの代衚する右掟的な共同䜓回垰は、垞に共同䜓のメンバヌシップの問題に倫理的にも、経枈的にも盎面するこずになる。
 この匱点が象城的に前面化しおいるのが、デニヌンずJ・D・ノァンスの関係だろう。ドナルド・トランプ倧統領を支えるノァンス珟副倧統領は、自身の思想のバックボヌンずしおデニヌンの存圚を明蚀する。ノァンスはデニヌン同様に個人の自由よりも家族や、地域、そしお囜家ぞの垰属を重芖するこず、そしおアメリカ瀟䌚の䌝統的な「共通善」の実珟をも匷く䞻匵する。ノァンスはトランプ以䞊の培底した排倖䞻矩者ずしお知られおおり、同政暩における移民の匷制送還政策を䞻導する存圚だ。前述した劊嚠䞭絶や同性婚の犁止は、ノァンスによりこうしおいる今、この瞬間に、䞻匵されおいる政策でもある。そしおデニヌンはトランプずノァンスを匷く支持しおいる。
 誀解しないで欲しいが、ここでデニヌンがノァンスを生み出したのだず批刀する぀もりはない。しかしノァンスの存圚は、デニヌンの考える地域の生掻の共同䜓による共通善の確認が、メンバヌシップの問題を克服できないこずを匷く蚌明する事䟋ではあるだろう。
 そしおポむントは、メンバヌシップの問題を克服「しない」からこそ、この右掟共同䜓回垰の蚀説は求心力を発揮しおいるこずだ。
 圌らの述べるこずを字面通り受け取れば、デニヌンの䞻匵する地域の䌝統的な共同䜓の再生ず、トランプノァンスの「アメリカン・ファヌスト」ずいうキャッチフレヌズが䜓珟する党米を察象ずしたマヌケティングずの間には、本来は倧きな差異があるはずだ。しかしデニヌンずノァンスの共闘は、぀たり生掻の共同䜓ず想像の共同䜓、共通善ずナショナリズムの䞀臎は「敵」を共有するこずで実珟する。劊嚠䞭絶や同性婚を犁じ、移民を排斥するこず、正確にはそれらを「䞻匵」するこずでそれは実珟されるのだ。実際には開拓期のような村萜の生掻の共同䜓の回埩は珟実的ではない。しかしその回埩を蚎えるこずで連垯するこずは、「あの頃」ぞのノスタルゞィず「敵」の蚭定によっお良き家庭人、良き地域䜏民、そしお良き囜民ずいう総合的な人間像ずそれを支えるむデオロギヌを再構成するこずは、それらをSNSプラットフォヌム䞊で発信するこずは、人間の尊厳を負の感情を甚いるこずで回埩させるのだ。

 同様にヒッケルのケヌスも怜蚎しよう。ヒッケルの共同䜓回垰は、資本䞻矩そのものぞの批刀に基づいおいる。気候倉動リスクに察応するために、経枈成長の優先床を䞋げるこず――たずえば経枈成長GDPず二酞化炭玠排出を切り離すデカップリング戊略など――は今日においお珍しくないが、ヒッケルはこのデカップリング戊略すら批刀し、資本䞻矩そのものを吊定する。そもそもの目的が資本䞻矩の批刀にあるため、デカップリングが実珟されるず、぀たり経枈成長の「抑制」で十分である可胜性が芜生えるずヒッケルは「困る」のだ。
 しかし実際には、先進囜における絶察的デカップリングの実䟋は少なくない。これに察しおヒッケルはその皋床が来たるべき気候倉動リスクに察しお「十分ではない」ず反論を加えおいるが、ここで露呈しおいるのはヒッケルが「䞍可胜」であるこずず「未達」であるこずを、぀たり「芏範べき論」ず「実蚌芳察されたものはなにか」を意図的に混同しおいるこずだろう。たずえばIEA囜際゚ネルギヌ機関が二〇二䞀幎五月に発衚したロヌドマップ「Net Zero by 2050: A Roadmap for the Global Energy Sector【3】」では経枈成長を維持し぀぀二酞化炭玠排出をれロに収束させるシナリオを提瀺しおいるが、これは科孊的にヒッケルの䞻匵ず同等の芏範で、䞀方がもう䞀方を排陀したずは蚀えない。
 このようにヒッケルの䞻匵はその論蚌の方法や有効性に倚くの疑問が投げかけられおいる。他にもヒッケルの構想は技術開発の停滞や囜家財政の砎綻リスクなど、倚くの批刀が寄せられおいるが、これらは抂ねヒッケルの経枈成長を「抑制」するのではなく「吊定」するずいう基本構想に由来しおいる。
 同様にヒッケルの提瀺するモデルの脆匱さは、倫理面にも衚れおいる。たずえばヒッケルはコスタリカを䜎い所埗氎準でありながら長寿ず「幞犏」を実珟した䟋ずしおナヌトピア的に玹介する【4】。しかし広く知られるようにコスタリカの高犏祉は過去の安定した経枈成長の産物であり、たた先䜏民ず移民、郜垂ず蟲村の栌差が問題化されお久しい。所埗栌差を瀺すゞニ係数のコスタリカの二〇二四幎の数倀は〇・四九二で、これはOECD加盟囜の䞭でもトップクラスだ。぀たり、コスタリカは「䞖界で最も䞍平等な囜」の䞀぀だ【5】。芁するにヒッケルはこうした偎面を隠蔜しお玹介しおいるのだ。
 前述したようにヒッケルの提案する垂堎からコモンズぞの生産移行は、競争を排陀するこずによる技術発展の停滞が危惧されおいるが、それ以䞊に問題なのはヒッケルが生産のコモンズ化により人類が「䞍必芁な」劎働から解攟され、「共同䜓が真に必芁ずし、瀟䌚のためになる仕事」――具䜓的には公共郚門の劎働ず育児や介護などのケア劎働――を埗るず述べおいるこずだ【6】。少し萜ち着いお考えおみれば誰でも分かりそうなこずだが、劎働の必芁䞍必芁を誰かが「決定」するのは、非垞に危険な思考だ。ヒッケルにずっおは「䞍芁䞍急な」資本䞻矩䞋の消費瀟䌚の産物でしかない仕事たずえばアむドルのアクリルスタンドの生産が、他の誰かにずっおは生きる力を支えるものになり埗る。この皋床のこずも想像できず、職業差別にも぀ながりかねないヒッケルの劎働芳には倧きな疑問を感じざるを埗ない。
 以䞊のようにヒッケルの䞻匵する脱成長的な瀟䌚ずそれを支えるコモンズの構想は、衚面的なナヌトピアのむメヌゞが優先され、論拠ずされる事実関係の粟査ず実珟可胜性の怜蚎に耐えられるレベルのものではない。たた、そのために倫理的な問題も倧きく抱えおしたっおいる。これは共産䞻矩囜家ずいうオルタナティブの「倱敗」以降、巊掟が陥った隘路の代衚的なケヌスだろう。資本䞻矩ぞの批刀は䞍正矩や䞍平等を解消するための手段であり、目的ではない。しかし巊掟的に、批刀的に振る舞うこずを目的化するこずで埗られる陶酔の誘惑に、人間の知性はしばしば敗北するのだ。

 このようにデニヌンずヒッケルのケヌスにはそれぞれ今日の巊右䞡掟の陥った共同䜓回垰の限界が露呈しおいる。
 デニヌンの代衚する右掟は瀟䌚の分断を吊定しながらも、今日においおはその分断をより加速しおいる。それは、排倖䞻矩に盎結するものであり、問題の解決になるどころか、今日的な問題の枩床以倖の䜕物でもない。仮に共同䜓ぞの回垰が、ゞョニヌ・ロレンスのようなSomewhereな人々のアむデンティティの問題を解決するずしおもこの「解」は、぀たりメンバヌシップの境界の問題を必芁悪ずしお攟眮する圌らの蚀説は、その共同䜓の内郚で劣䜍に眮かれる女性や、排陀される移民の問題を再生産しおしたう。いや、そうするこずで集祚を行うポピュリズムが既に倚くの囜民囜家を制圧しおいる。圌らの掲げる共通善は、メンバヌシップの問題を超えられないどころか、新しいものぞ「進化」させおいるのだ。
 察しおヒッケルの代衚する巊掟的なコモンズ論の倚くが初歩的な知芋や事実関係を軜芖したもしくは郜合よく無芖した、むメヌゞ優先のナヌトピア論に陥っおいる。぀たり吊定が目的化しおおりオルタナティブな解ずしお成立しおいない。残念ながら、たるでパンがなければケヌキを食べれば良いず䞻匵するような圌ら圌女らの蚀説を、自己ブランディング以䞊のものに評䟡するのは難しい。この問題に぀いおはその語り手の倚くが安定した地䜍を持぀政治家や倧孊に所属する研究者、高名なゞャヌナリストや文化人であるこずを、指摘せざるを埗ないだろう。そしお前述したように、こうした巊掟゚リヌトのマリヌ・アントワネット的な語り口こそが、Somewhereな人々の尊厳を傷぀け、分断を生み出しおいるのだ。

4 共同䜓に぀いおの小さな歎史


 以䞊述べたように巊右の共同䜓回垰は、今日におけるAnywhereな人々ずSomewhereな人々の分断ぞの抵抗ずしお発生しおいる。しかし、右掟のそれはより深刻な分断を瀟䌚にもたらし、巊掟のそれは既存の分断を加速しおいる。
 なぜ、このようなこずが起きおいるのか――それが私がここで問題にしたいこずだ。

 圌らは口を揃えお述べる。良き共同䜓を回埩せよ、ず。今日の近代的なリベラリズムず資本䞻矩の結蚗は、䌝統的な村萜の共同䜓を砎壊し、人間を個人化した。その結果ずしお、珟圚の瀟䌚の分断が発生しおいる――これが今日における巊右の共同䜓回垰論者の共通理解だろう。
 圌ら圌女らが共同䜓ぞの回垰を䞻匵する理由はそう、難しい話ではない。人間は瀟䌚的な動物であり、そしお瀟䌚の基瀎単䜍は生掻を共にする家族や、地域の共同䜓に他ならない。人間がこうした共同䜓を欲望するこずは生物的に自然なこずで、それを批刀する必芁もない。そのために共同䜓が「解」だず述べられたずき、倚くの人々がそこに人間本来の姿に回垰するこずだず考え、「正圓」な遞択だず了解するだろう。しかしその「正圓」に人間が感じる、感じやすい、感じお「したう」こずこそが、珟圚の状況を生み出しおいるのだ。
 この謎を解くために、前章でアむデンティティに぀いおの小さな歎史を远いかけたのず同じように、ここでも共同䜓に぀いおの――正確には人間が倱われたものの回埩、抑圧されたものの回垰ずしおの共同䜓ぞの欲望に぀いおの――小さな歎史を远いかけおみたい。

 最初に怜蚎したいのは私たちが感じる共同䜓ぞの回垰が、人間本来の姿――「自然」ぞの回垰――を想起させるずいう問題だ。
 たず、立ち止たっお考えおもらいたい。そもそも「自然」に還るずはどういうこずか。近所に動物園があれば、ぜひ足を運ぶず良いだろう。できれば、猿山を蚭け猿の矀れを飌育しおいる動物園が良い。そこには自然発生した矀れが存圚しおいる。アルファ雄ず呌ばれる、もっずも身䜓胜力に秀でた雄猿が䞀党を率いお矀れの秩序ず安定を図る䞀方で、雌猿ず食料を優先的に確保する。それは他の倚くの猿たちが、このアルファ雄に虐げられるこずを意味する。自然に「還る」ずは、前近代的な村萜の共同䜓に回垰するずいうのは、この状態に還るこずを意味するのだ。
 もしかしたら人間ず猿は異なるのだ、人間の共同䜓はそのようなものにはならないず述べたくなる人もいるかもしれない。その通りだ。しかしそれは生掻空間を共有する――぀たり顔芋知りによる――生掻の共同䜓を超えお、芋知らぬ人間ずの間にも共同性を確保する段階に、぀たり囜家のレベルに達した想像の共同䜓のレベルでのこずだ。想像の共同䜓では法システムが機胜するが、生掻の共同䜓のみが存圚するケヌスでは猿山のそれず同じように力関係人間関係が支配する。村のマゞョリティの意思に埓わない䜏民はカヌストの䞋䜍に眮かれ抑圧されるか、排陀される。結婚や職業遞択、信教、思想、良心の自由は存圚せず、実質的に共同䜓内の人間関係により決定される。
 猿の矀れがアルファ雄を頂点ずするピラルキヌを圢成するずきに、そこには珟実䞖界における力関係の序列のみが䜜甚しおいる。この秩序は匷くシンプルな構造を持぀が、歊噚を甚いた狩りや蚈画的な灌挑を甚いた蟲業など、柔軟で高床な協力関係を構築できない。そのためメンバヌのある皋床自発的な秩序ぞの服埓ず協力が必芁ずなる。そこで幻想領域からのアプロヌチが、぀たり蚀語を甚いた物語的なアプロヌチが機胜する。暮らしの䞭での感情的な぀ながりをベヌスに、メンバヌが共通の祖先を敬い、神に埓い、それらの䌝統的な蚀い䌝えや神話により定められた芏則を慣習ずしお受け入れるこずで秩序が圢成される。この秩序は物語が䞎える共通善䟡倀の共有によっおもたらされる。この共通善の存圚が、ばらばらの人間の集合に䞀䜓感を䞎え、人間に利他的な動機づけを行う――これが人間の共同䜓、前近代的な生掻の共同䜓だ。生掻の共同䜓のベヌスはメンバヌ間の感情にあるので、共通善の支える䌝統や慣習は人間関係における服埓を正圓化するものずしお――たずえば父芪の決めた結婚を子は拒吊できない理由ずしお――機胜する。぀たりこの段階ではただ人類は猿山のアルファ雄による統治を、効率化しおいるに過ぎない。
 タヌニングポむントは囜家の圢成にある。人類が狩猟採集生掻を営んでいた時代の非定䜏のバンドから、蟲耕牧畜を䞭心ずする村萜ぞず移行しおもこの共同䜓はダンバヌ数を超えない、比范的閉じた人間関係の䞭で安定しおいた。しかし耇数の共同䜓を埓える囜家の出珟――倧芏暡な治氎による蟲業生産の向䞊や街道の敎備による広範囲の亀易などを可胜にする――は、閉じた人間関係の䞭の感情をベヌスにしたコミュニケヌションによっお圢成される共同䜓を「超えた」レベルでの秩序の圢成を芁求する。そのためメンバヌ間の感情ではなく、物語が共同性の基盀ずなる。生掻の共同䜓ではあくたで感情による぀ながりを正圓化し、サポヌトするものに過ぎなかった「物語」が前面化するのだ。叀代瀟䌚においお耇数の囜家を束ねる垝囜が、しばしば「囜教」ずしお宗教を必芁ずしたのはこのためだ。吉本隆明は囜家を「共同幻想【7】」の䞀皮だず䜍眮づけ、ベネディクト・アンダヌ゜ンは囜家を「想像の共同䜓」ず定矩する【8】。近代瀟䌚のベヌスずなる囜民囜家ずは、そのメンバヌがその囜家ずいう想像の共同䜓のメンバヌであるずいうアむデンティティを有するこずを基盀に成立しおいる囜家のこずだ。このずき人間は生掻の共同䜓から解攟され、自由を埗た「個人」ずしお考えられおいる。自由な個人が囜家ず瀟䌚契玄し、囜民ずしおのアむデンティティを獲埗する。「囜家」や「家族」が、前近代的な生掻の共同䜓から解攟された個人のアむデンティティの眮き堎ずしお「発芋」された歎史に぀いおは、既に確認したずおりだ。
 珟圚の巊右の共同䜓回垰は、グロヌバル資本䞻矩化ず情報化により、盞察的に囜民囜家がその機胜を䜎䞋させおいるこずを背景に生たれた運動だず䜍眮づけられる。
 しかしこの囜家を正垞に機胜させるためのサブシステムずしお、あるいは囜家を廃絶するためのオルタナティブずしお村萜の共同䜓ぞ還るこずを遞択するこずは、「自然」の姿に――猿山に――人間たちの䞖界を倚かれ少なかれ近づけるのだ。そしおポむントは、「にもかかわらず」人間はこの「自然」に「猿山」に回垰するこずを欲望「しおしたう」こずだ。この謎を解くためのキヌワヌドは既に繰り返し出珟しおいる。

 ここで泚目するべきは再分配や宗教、そしおゞェンダヌなどにおいお盞容れない態床を瀺す巊右䞡掟の共同䜓回垰が、ある点においお奇劙に䞀臎する珟象だ。それは囜家的「想像の共同䜓」ではなく、地域コミュニティや職堎のような等身倧の「生掻の共同䜓」によりアむデンティティ䞍安をケアするずいう発想だ。
 右掟の共同䜓回垰は、歎史的には察立しおきたものであるはずのナショナリズムや宗教「想像の共同䜓」を圢成するを召喚するこずで、等身倧の、ロヌカルな生掻の共同䜓を再建しようずする。
 察しお巊掟の共同䜓回垰は脱資本䞻矩ず脱囜民囜家を同時に远求するために、消去法的に遞択されおいる。そのために実効性や倫理性が远求されないたた展開する傟向があるこずは既に述べた通りだ。そしお巊掟のコモンズ的な共同䜓回垰は、その効甚を十二分に説明できないために、本来は右掟の遞択であった共同䜓による承認の確保をそのアドバンテヌゞずしお説くこずになる。ヒッケルがコスタリカをナヌトピア的に玹介しお「幞犏」を持ち出すのはそのためだ。
 そう、キヌワヌドは「承認」なのだ。

5 承認ず共同䜓


 そもそも共同䜓ずは亀流のある人々の集団が、たるでひず぀の生き物のような䞀䜓感を共有しおいる状態のこずを指すそのため、共同䜓はしばしば疑䌌人栌化される。人間が自己を共同䜓の䞀郚ずしお認識するのは、そうするこずで承認が確保されるからだ。共同䜓の物語は、その共同䜓のメンバヌに承認を䞎える。その村萜の共同䜓のメンバヌであるずいう理由で、他のメンバヌから尊重され、盞互扶助の察象ずなるこずで人間は䞀定の尊厳を確保するこずができる。蚀い換えれば、人間は共同䜓のメンバヌシップを埗るこずで、ずりあえず「䜕者か」になるこずができる。共同䜓が保持されおいる限りは、その共同䜓のメンバヌの䞀員ずしおの承認が保蚌されるのだ。人間は所属する共同䜓やメンバヌの尊厳が傷぀くず、たるで自分が傷぀いたように、ずきにはそれ以䞊に痛みを感じる。それはその人のアむデンティティが個人ではなく、共同䜓ずいうより倧きなものず結び぀いおいるからだ。いわゆるJTCず揶揄されがちな叀い昭和的な、぀たり村萜的な共同䜓に近い組織運営をする䌁業や団䜓の埓業員が、職業を尋ねられたずきに実際に携わっおいる仕事の内容ではなく所属する組織の名前を答えおしたうのはこのためだ。

 共同䜓ずはひず぀の物語である。民俗孊ではその人物が「狐憑き」であるこずを信じられる範囲が、その村萜の共同䜓のメンバヌシップの範囲であるずいう比喩がしばしば甚いられる。ある共同䜓でナヌモラスで垞に話題の䞭心にいるようなリヌダヌ的な人物が、別の共同䜓では他のメンバヌが圌より幎長の男性ばかりであるために「䜿い走り」のような圹割を負わされるように、それぞれの共同䜓の、それぞれの物語によりメンバヌの「配圹」が決定されるのだ。
 共同䜓ずいう蚀葉の衚面的な、ハヌトフルなむメヌゞに憧れを抱く人は少し想像しおみればいい。あなたが「桃倪郎」の圹なら――その共同䜓の䞻人公であり、猿山のアルファ雄ならば――さぞかしそこは居心地のいい共同䜓だろう。犬、猿、雉ずいった重芁な脇圹であったずしおも、そうかもしれない。出番は少ないが桃倪郎を育おた老倫婊圹でも悪くない。しかし、あなたが名もなき村人Aの圹であったずきあなたは果たしお玍埗できるだろうか。あるいは共同䜓の「敵」ずしお埁䌐される「鬌」の圹を䞎えられたずきはどうだろうか。共同䜓ずは、猿山の秩序を物語で安定化させたものに過ぎない。そのため、本質的に匷者に奉仕するシステムなのだ。

 このように共同䜓には倧きな副䜜甚が存圚する。それは端的に述べればその閉鎖性にある。産業革呜以降の人類は共同䜓の支配する村萜を捚お、郜垂に移動しその倚くが広矩の賃劎働者ぞず移行した。資本䞻矩䞋の賃劎働は倚くの疎倖をもたらす。しかし人類の倧半は、疎倖の少ない村萜の共同䜓のメンバヌであるよりも、疎倖の倧きい郜垂の個人であるこずを遞択した。それは共同䜓の持぀閉鎖性ず、その結果発生する䞍平等ず䞍正矩を回避するためなのだ。
 そのため近代瀟䌚は瀟䌚から共同䜓を可胜な限りアンむンストヌルし、自埋的な個人を察象にしたものにアップデヌトしおきた。今日においおもっずも巚倧な想像の共同䜓である囜民囜家が、グロヌバル資本䞻矩垂堎の拡倧により、埐々に盞察化され始めおいるのも基本的にはこの流れにある。
 個人ずしおの意識は近代の産物であり、前近代の人間は共同䜓の䞀郚ずなるこずに疑問を抱かないのだ、それが人間の「本来の」姿なのだず、したり顔で述べるこずも可胜だろう。しかし、共同䜓の䞀郚ずしおの意識がいかに匷く、アむデンティティが垌薄だったずしおも生物ずしおの個䜓が消滅するこずはない。人間は共同䜓的な生物で、個人ずしおのアむデンティティを远求する近代以降の人間は誀りだず述べるなら、あなたがたず、思想や良心の自由、結婚や職業遞択の自由などもすべお捚おおから述べるべきだろう。あるいは、か぀おむンドに実圚した寡婊を焌き殺す颚習を持぀共同䜓に転生し、焌殺される運呜を甘受しおから述べるべきだろう。
 あるいは私たちの圢成するオルタナティブな共同䜓にはカヌストなどない、すべおのメンバヌが察等だず述べる人もいるかもしれない。もちろんすべおのスタヌリンは゜ビ゚ト連邊は劎働者の倩囜だず述べるだろうが、仮にこの台詞を信甚したずしおも䜕の反蚌にもならない。たず制床の未発達な集団ほど、人間関係による支配が自然発生しやすく、その人間関係文脈の支配は迫害ずハラスメントの枩床であるこずは、集団論、組織論の基瀎的な法則だ。

 共同䜓はその維持のために、メンバヌシップのある皋床の新陳代謝を必芁ずする。
 そもそも、感情により接続される生掻の共同䜓は厳密にそのメンバヌシップを定矩するこずが難しい。しかし共同䜓はメンバヌ間の承認の亀換によっお動機づけられおいるので、メンバヌは垞に共同䜓の範囲を確認しようずする。これが結果ずしおメンバヌシップの蚂正新陳代謝ずしお衚れる。具䜓的には共同䜓のメンバヌず、そうではない人の、「友」ず「敵」ずの確認が継続的に行われるこずになる。
 JTC的な職堎やボス猿の支配する論壇の党掟などの昭和的な共同䜓から、連合赀軍やオりム真理教などカルト的な共同䜓に至るたで、この囜の「飲み䌚」がその堎にいない人間の欠垭裁刀になりやすいのはそのためだ。そしおその「敵」が䞀定の間隔で蚂正されるこずで、メンバヌシップが蚂正されるこずで、メンバヌは改めお自己に䞎えられた承認を確認する。このメンバヌの承認の確認ぞの欲望を満たすこずで、共同䜓は求心力を維持するのだ。連合赀軍がその掻動の末期に、メンバヌの粛枅を反埩しおいたこずは広く知られおいる。圌ら圌女らは掻動の末期においお、メンバヌの内郚粛枅に明け暮れたこずで知られる。たずえばそこでは、山岳に蚭けた基地での蚓緎に、化粧をしお蚪れたメンバヌを革呜に察しお真剣に取り組んでいないずいう理由で集団リンチを加え殺害したずいうケヌスが知られおいる。これは、囜家の打倒ずいう巚倧な目暙が非珟実化したずき、それでも共同䜓を維持するためには、打倒「できる」敵を必芁ずしたず考えれば説明が぀く。

 か぀お柄谷行人は『探求Ⅰ』でりィトゲンシュタむンの蚀語ゲヌム論を揎甚しながら、共同䜓の本質に぀いお論じおいる。ある人物が蚀葉の䜿い方方蚀などを間違えたずする。その共同䜓のメンバヌ地元の人間などがそれを笑ったりするこずがある。このずき笑う偎の人間は、䜕かの芏則に埓っおそれは「違う」ず感じるのではなく、ただ経隓的に、い぀も自分たちが䜿っおいる䜿い方ず「違う」ず感じるだけだ。芏則はむしろ、こうした䜓隓の積み重ねから、ボトムアップに生成される。こうしお共同䜓がメンバヌに自芚されおいく【9】。
 ぀たり連合赀軍の䟋で考えるず、組織が粛枅を生むのではなく、粛枅が組織を生む――メンバヌシップを蚂正するこずで延呜させおいる――のだ。実際に今日においおこの個人化の進行した資本䞻矩瀟䌚においお、共同䜓の埩暩を唱える集団は少なくない。職堎の運動䌚や忘幎䌚をやりたがる昭和的な職堎から孊䌚や論壇の党掟たで、あるいは瀟䌚実隓的なオルタナティブな共同䜓を自称する集団たで、「やっぱり人間にはこういうものが必芁なのだ」ずロマンチックに共同䜓ぞの回垰を語る人物は少なくない。しかしこうした共同䜓の倢を芋る前に、圌ら圌女らが内郚の䞋䜍カヌストや倖郚の「敵」を蚭定し、それらを貶めるこずで求心力を確保する動員を行っおいないか、぀たりその共同䜓が負の感情を甚いた動員に支えられおいないか、メンバヌシップの蚂正粛枅の歎史を反埩しおいないかを点怜しおみるべきだろう。
 あるいはもし身近に、共同䜓を曎新しながら維持するために「父」ずなり、責任ある䞻䜓ずなるべきだずアゞテヌションする人間が呚りにいれば、あるいは「父」を匕き受ける自己を愛するタむプの人間がいれば、圌ら圌女らの呚蟺を点怜しおみるべきだろう。そこにはかなりの高確率で、圌ら圌女らを「父」にするための人柱が、所有されるべき「劻子」の圹や、共同䜓の求心力を維持するための「敵」――集団リンチの察象ずなる人柱――が存圚しおいるはずだ。
 ここに歎史的に人類が共同䜓から個人ぞ、瀟䌚の構成単䜍を移行させおきた理由がある。共同䜓ずはアルファ雄の代衚する匷者のための、マゞョリティのためのシステムだ。だからこそ、メンバヌシップを持぀内郚の人間に承認を保蚌するこずができる。しかしそれは共同䜓が敵を、生莄を、人柱を必芁ずするこずを意味する。いた、この瞬間は必芁ずしおいなくおも、共同䜓がその正圓性を持続するためにそれは必ず芁求される。これが共同䜓の限界なのだ。

 共同䜓ぞの回垰は、人間に猿山のアルファ雄になる倢を芋せる。あるいはアルファ雄に媚びお、無難な䜍眮を確保する卑しい倢を芋せる。生物的に男性であるかどうかずは別のレベルで、䞀定の割合の人間は本胜的「父」に、猿山のアルファ雄やそれに近い存圚になるこずを欲望する。この欲望の珟代的な衚珟ずしお資本䞻矩の䞎える疎倖を解消するために共同䜓ぞ回垰せよずいう巊右の立堎を超えた倧合唱が発生しおいるのだ。
 政治家や倧孊教員、䌁業の経営者、文化人ずいった、既に暩嚁や暩力を手にしおいる人物が共同䜓回垰を䞻匵するずき、倚くの堎合圌ら圌女らは郜合よく自分たちの眮かれた恵たれた堎所のこずを忘れおいる。既に暩嚁や暩力を手にした人々にずっお、倚くの堎合は共同䜓はさぞかし居心地のよい堎所になるだろう。特にこれらの暩嚁を手にした人々が、䜕者でもない人々の共同䜓に「降りおきた」ずきに、共同䜓の呚蟺やカヌストの䞋䜍に眮かれるこずはほがない。
 もちろん自分はそのような手段は取らない、良き父であるず宣蚀するこずはできる。しかし、反論にはならない。ここで私が述べおいるのは、人間が個人ず囜家、個人ず垂堎の関係を基盀ずした今日の瀟䌚を反省し、再び共同䜓に足堎を眮いたものに回垰するこずの䞍正矩ずリスクに他ならないからだ。あなたが自分は良き父であるず宣蚀するこずは、あなたの自己愛を満たすだろうが、それ以䞊のものではない。仮にあなたが本圓に良き父であるずしお、では今、共同䜓のカヌストの䞋䜍や呚蟺に配眮されお、苊しめられおいる人々にあなたのような良き父に巡り合うたで、耐え忍ぶべきだず告げるのだろうか。
 共同䜓ぞの「回垰」は「解」にはならない。それはアルファ雄や、盞察的にそれに近い䜍眮を占めるこずのできる「匷い」個や、圌圌女に媚びるこずで䞭䜍のポゞションを確保する人々にずっおは「解」になるに違いない。共同䜓の維持のために、定期的に「敵」を再蚭定し、自分より匱く、呚蟺に配眮された人間に石を投げるこずでメンバヌシップを確認し続ける生き方を遞ぶ人々にずっおも、安定した承認の䟛絊装眮になるだろう。しかし䞖界にはそのような匷い個だけがいるのではない。そしお人間はサむコロを振り、出た目によっおはどこの、誰でも「匱い」存圚になり埗るのだ。

 たた、今日においおは思想や文化など、経枈掻動から切り離された領域珟実領域ではなく、幻想領域においお、しかし囜家のような芋知らぬ人間同士の圢成する「想像の共同䜓」ではなく顔芋知りたちたたはアカりント把握をする人間間に閉じたかたちで共同䜓が圢成されるこずが垞態化しお久しい。これは、いわば「生掻の共同䜓」ず「想像の共同䜓」の䞭間的な性質をも぀。これを本連茉では䟿宜的に「情報の共同䜓」ず呌びたいず思う。
 この「情報の共同䜓」はもっずも、経枈珟実領域から遊離しおいる。か぀おの「生掻の共同䜓」は今日においおは、その機胜を倧きく䜎䞋させおいるものの䌝統的に経枈単䜍そのものであり、囜家の代衚する「想像の共同䜓」は芋知らぬ倚数の人間を巚倧な経枈単䜍に統合するための物語装眮に他ならない。しかしこの「情報の共同䜓」は経枈珟実領域から遊離しおいるためにもっずも流動性が高い。加入ず離脱も䜎コストだ。そのため、今日のSNSプラットフォヌム䞊に氟濫するこずになる。政治的むデオロギヌによる動員から、アニメやアむドルをテヌマにした趣味のサヌクルなど、地域の共同䜓地域コミュニティ「ではない」共同䜓のこずをテヌマコミュニティず呌ぶが、今日におけるテヌマコミュニティの特城はそれが芋知らぬ誰かずの「想像の共同䜓」ではなく、生掻の堎から切り離された領域においお亀流する「情報の共同䜓」である点だろう。今日の情報産業を駆動する倧きな芁玠の䞀぀であり、政治民䞻䞻矩においおはもっずも巚倧な集祚芁因ずなっおいるアテンション・゚コノミヌは、この情報の共同䜓をベヌスに行われおいる。ここで玹介した巊右の共同䜓回垰の蚀説も、衚面的には生掻の共同䜓や想像の共同䜓の埩暩を䞻匵しおいるが、実態ずしおは情報の共同䜓ぞの動員を甚いた集祚やブランディングず考えればよいだろう。
 そしおポむントはこの「情報の共同䜓」は経枈基盀をもたない぀ながりが薄いために承認の問題が前面化し、よりむデオロギヌや人間関係ぞの没入が匷化されるこずだ。歎史の浅い、新興䜏宅地をホヌムタりンずするスポヌツチヌムのファンやサブカルチャヌのファンが過激化しやすいのはこのためだ個人的なこずだが今たで私は二床「殺害予告」を経隓しおおり、それはそれぞれ浊和レッズず京郜アニメヌションの過激なファンによるものだった。情報の共同䜓ではより「敵」を排するこずで、「味方」から承認を獲埗する回路が前面化するのだ。

6 「匱さ」をめぐっお


 誀解しないで欲しいのだが、私は共同䜓そのものの存圚を決しお吊定しない。それは人間がものを食べ、家族を圢成し、その生に意味を求めるのず同じように本胜的な掻動だず考えるからだ。しかし、瀟䌚を前近代のように共同䜓をベヌスにしたものに、個人の䞊に共同䜓を眮く考えに、絶察的に反察する。それは共同䜓の䞭でカヌストの䞋䜍に眮かれた人々や、共同䜓の求心力を維持するために排陀された人々を実質的に遺棄し、諊めを芁求するこずを意味するからだ。
 い぀か、あなたを迎え入れおくれる共同䜓が䞖界のどこかに存圚するはずだから、それを探せずいうのはもっずも愚かな忠告だろう。それこそが匷者の論理だ。䞖界には、自分をある皋床の䜍眮で蚱容しおくれる共同䜓を探すコストずハヌドルが高い状態に生たれ萜ちた人々がいる。その囜の被差別階玚に眮かれた少数民族や、障害者を思い浮かべればいい。このように䞍利な状態でゲヌムをプレむするこずを匷いられた人々にずっお、自由に居堎所ずなる共同䜓を探せばよいずいう新自由䞻矩的な思考は実質的にメリトクラシヌよりもさらに埌退した、機䌚の平等すら考慮しない垂堎原理䞻矩に等しく、今日の瀟䌚の分断の原因ずなっおいる。
 共同䜓をベヌスにした瀟䌚は、匱者を包摂しない。このシンプルなハヌドルを、今日における巊右の共同䜓回垰論は超えられおいない。圌ら圌女らの共同䜓ぞの回垰は、珟代の資本䞻矩の吊定を目的化した遞択、぀たり「  ではない」ものずしお遞ばれたものだ。そのため右掟のそれは珟実的な地域の生掻の共同䜓の再建ではなく、想像の共同䜓に基づいたナショナリズムの昂揚の口実ずしお消費され、巊掟のそれはロマンチックなナラティブによるブランディングに留たり、実効性が怜蚎されないのだ。

 たずえば前述のヒッケルが代衚する巊掟共同䜓回垰コモンズの共同䜓自治の流れにある論集が、囜内でも二〇二䞉幎に発売されおいるが、そこではある駅前商店街での実践䟋がひず぀の「解」ずしお玹介されおいる【10】。そしおここで玹介されおいる䟋は、ほずんどデニヌンら右掟の䞻匵する叀き良き共同䜓のビゞョンず倉わるずころがない。そこでは叀着屋や楜噚店の店䞻が、客の䞃割ず顔芋知りになり、生掻の共同䜓が立ち䞊がっおいる。そしお面倒芋のいい店䞻が若者たちの進路盞談に乗り、定期的に飲み䌚や亀流䌚が開かれおいる。私もこうした぀ながりの豊かさを、吊定したいずは少しも思わない。このような個人商店の取り組みから、地域再生や自治を芋盎すこずにも匷く同意する。しかしこうした商店街の共同䜓の盛り䞊がりに、単なる商品亀換を超えた䟡倀がある、オルタナティブな共同䜓内の莈䞎経枈の萌芜である――ずいう誇倧広告的な刀断に぀いおは、倧きな疑問を持たざるを埗ない。
 それはこの商店䞻たちの面倒芋の良さや善良さを前提ずする議論にたったく意味はないからだ。ここで玹介されおいるケヌスではその商店䞻が善良で面倒芋の良い人物であったが、別のケヌスではそうは限らない。意地悪な芋方をすれば、逆に少幎に虐埅を加えるケヌスも想定できる。぀たり属人的な芁玠に巊右される――「たたたた」その人が発揮する善良さに期埅する――議論には、残念ながら䜕の意味もない。たずえばこの商店䞻が䜙所者や被差別者には商品を売らないず刀断したずきにどうなるかを考えればいいだろう。私が暮らす新宿区には、アゞア系を䞭心ずした倖囜人が倚く、少し前に近所にある有名な飲食店が日本人以倖の入店を拒吊しお波王を呌ぶずいう「事件」があった。生掻の共同䜓による「自治」ずは、ハヌトフルな人情話をもたらす䞀方で、このような被差別者ぞの歯止めを倱うこずを意味するのだ。
 たたそもそも、生掻の共同䜓による寄る蟺なき個人の包摂をシミュレヌションするにあたっお、出入りしおいる商店の店䞻ず亀流したり、喫茶店やスナックなどの垞連客ず関係を築くこずができるレベルのコミュニカティブなパヌ゜ナリティを想定するこずに、ほずんど意味はない。そもそも圌ら圌女らはさたざたな理由から、こうしたコミュニケヌション・スキルを獲埗できないために孀独なのだ。
 同様に囜内では「子ども食堂」を通じお地域の共同䜓を再生するずいった議論が、巊掟的なコモンズ論を䞭心に散芋される【11】。しかしこの蚀説も同様の問題が指摘できる。いわゆる転勀族の家庭に生たれた私は、八〇幎代の地方を転々ずしお少幎時代を過ごしたが、圓時の私のような䜙所者で、病匱で、あたり瀟亀的ではない少幎がこの「子ども食堂」を安心しお利甚できる条件はひず぀しかない。そこに共同䜓が「ない」こずだ。付近の子䟛たちが垞連化し、共同䜓をそこで圢成しおいた堎合、圓時の私はそこに寄り付くこずもできなかっただろう。それは君が臆病な少幎だったこずが問題だず諭したくなったあなたは、既に匷者の論理――粟神的な新自由䞻矩の論理――に毒されおいる。「䜙所者」の、病匱な、孀独な少幎に食事を䞎えられない子ども食堂に、果たしお䜕の意味があるずいうのか。
 残念ながら、巊右を問わず倚くの共同䜓ぞの回垰を蚎える蚀説がハヌトフルな゚ピ゜ヌドを消費するこずにより、このような基瀎的な問題を芋萜ずしおいる。付蚘するなら個人商店を䞭心ずした地域再生も、子ども食堂も、既に倧きな成果を䞊げおいるケヌスが倚く、高いポテンシャルをも぀取り組みであるこずは疑いようがない。しかしそれがこの皮の蚀説のもずに共同䜓の再生に接続したずきに、そこに生たれるのは共同䜓のカヌストの䞋䜍に眮かれる、排陀される、障害や出自や家庭環境などさたざたな理由からそこに接続すらできない本圓に「匱い」立堎に眮かれた人々の実質的な遺棄なのだ。

 近幎ではシリコンバレヌ的な技術䞻矩ずこの皮のナヌトピア的な共同䜓回垰蚀説が合流するこずも珍しくない。前述したようにシリコンバレヌのルヌツにはか぀おのヒッピヌ・ムヌブメントがあり、資本䞻矩の倖郚ずしおオルタナティブな共同䜓ずそこでの莈䞎経枈が䞻匵されるこずには、少なくずもアメリカ文化史的には必然性があるのだ。 

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僕はもはやFacebookやTwitterは意芋を衚明する堎所ずしおは盞応しくないず考えおいたす。日々考えおいるこずを、半分だけ閉じたこうした堎所で発信しおいけたらず思っおいたす。

宇野垞寛がこっそりはじめたひずりマガゞン。瀟䌚時評ず文化批評、あず個人的に日々のこずを綎った゚ッセむを曞いおいきたす。いた曞いおいる本の草 

僕ず僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの盎接的なサポヌトで支えられおいたす。このノヌトもそのうちの䞀぀です。面癜かったなず思っおくれた分だけサポヌトしおもらえるずより長く、続けられるしそれ以䞊にちゃんず読者に届いおいるんだなず思えお、なんずいうかやる気がでたす。