2026.3.3 毎晩、子どもの鉛筆を削っている
夕食後、小学校3年生の次男は、宿題と筆箱をランドセルからリビングテーブルの上に出す。横に座って話をしながら宿題を見てやる。途中、彼はやりかけの宿題と筆箱を放置したまま、どこかに行ってしまう。きっと気を取られる何かがあったのだ。
読みかけの漫画を思い出したり、お風呂に持っていくおもちゃが気になったり、何かに呼ばれたのだろう。
私は、そっと次男の筆箱から鉛筆を出す。今日の授業で使って縮んだ鉛筆を見つけ、削ってやる。電動の鉛筆削りがじーきゅるきゅると音を立てる。1本、2本、赤鉛筆。じーきゅるきゅる。
気づけば、私はほぼ毎日、鉛筆を削っている。夕飯後のリビングテーブル。じーきゅるきゅる。途中で横から声が聞こえる。
小学校3年生なのに! 自分のことは自分でさせなくていいのか。鉛筆が削れていなくて困るという経験をさせなくていいのか。親が甘やかすから、自分のことができない子になっていってるのではないか。
もう一人の私から、その私の後ろにいる世間から、そんな言葉が聞こえてくる。聞こえてはくるけど、私は黙って鉛筆を削ってやる。彼がリビングテーブルに戻ってくるのを待ちながら。
私がこうやって子どもの鉛筆を削るようになったのは、次男からだ。現在中1の長男が小学生のときには、削らなかった。時間割も細かく見てやらなかったし、持ち物もチェックしなかった。忘れ物をしたとしても「そこから学習し自分でできるようになる」と思っていた。信じていた。
もっと言うなら、「忘れて困ればいい」と思っていた。だって、前日に準備していないのは長男自身だから。だって、「時間割を見てね」と声をかけたのに、やらなかったのは長男自身だから。困ってみて恥をかいてみて、できるようになると思っていた。自分のことは自分でという呪文。

では、今振り返って、そのおかげで、長男は自立したのだろうか。
彼は小学校5年生頃からは自分で鉛筆を削り、時間割を見て準備し、忘れ物も減っていった。しかし、それは私が準備を手伝わなかったからなのか、鉛筆を削らなかったからなのか。わからない。本当にわからないのだ。
その答えはパラレルワールドにしかない。やらなかった世界は存在しないので、私は知ることができない。
わかっているのは、当時小学校3年生だった長男へ「やらないお前が悪い」という自己責任の植え込みになってしまったのではないか、という悔恨だけが残っていること。
私は今、次男を通じて、過去の長男への対応を省みており、自分の育児を時々後悔している。
親の私が、あの鉛筆たちを削ってやっても良かったんじゃないか。図工で明日これが絶対いるとわかっているなら、親がランドセルにそっと入れてやれば良かったんじゃないか。まだ7、8歳の子どもに、できないなら「自己責任」と思わせる機会を何度も持たせるようなことをしなくても良かったんじゃないか。
もちろん、失敗から子どもが学ぶことはたくさんあるだろう。自分が持ち物を確認していなくて、忘れ物をして困ることもあるだろう。鉛筆が削られていなくて、授業がうまく受けられなくて困ることもあるだろう。
でもそれって別に、小学生のときじゃなくてもよかったんじゃないかな。
今の小学生は、求められることがものすごく多い。加えて、持ち物から時間割チェックから宿題の丸つけまで、ガチガチに親の関与も求められている。
親の私でも時々見落とすことがある。明日?図工の材料? モール? それどこに売ってるの? 新聞紙? 取ってないわい。
いろいろなことが求められ続けている小学生親子。
確かに、時間割も持ち物チェックも鉛筆を削ることも自分のことだ。全部、自分でできたらいいと思う。いいとは思うけど、何度も「やった?」と、口で目で確認するより、私がただ寄り添ってやるだけのほうがいいのではと思うようになった。その寄り添いとしての、鉛筆削り。
小学校で筆箱を開けたら、鉛筆が全部ピンピンであること。お母さんが削ってくれていることがわかること。どこかに守ってくれる大人の存在を感じられること。
筆箱を開けて鉛筆が全部ちびちびで、勉強の意欲が失われてしまうこともあるだろう。授業を受けようと思ったのに、教科書ひとつ、ノートひとつ忘れたことで気持ちがくじかれることもあるだろう。小学生は成長の途中。いろいろなことを毎日がんばっている。ピンピンの鉛筆ひとつで何かが動くなら、それでいいのではないだろうか。
気づけば、私は毎晩、次男の鉛筆を削っている。「自分で削りなよ」と声かけはするけど、にっと笑う彼を見て、黙って鉛筆を削ってやる。
以前、読んだ本の中で、小児科医の田中茂樹先生が、子どもが毎日玄関に投げているランドセルや制服を黙って拾ってやるというエピソードを書いていた(『子どもを見守ること』)。
毎日、仕事から帰宅して玄関に転がっているランドセルを黙って拾う。子どもに向かって片づけなさいと怒鳴るのはやめた。
これが原因で、片づけられない子になるかもしれないし、ならないかもしれない。でも、それは重要なことじゃない。わが子を玄関を呼びつけて叱り、「片づけない君は悪い」と毎日言い続けるのではなく、家庭という場で、ただ淡々と子どもができていないことをフォローしてやるほうを選んだ。片づけの躾うんぬんではなく、子育ての方針として「黙って拾う」を選んだのだ、という話。
その結果、子どもが片づけられる子になるかどうか、そんな視点は持たない。そんなことを期待しない。ただ、今の親子の関係性として、ランドセルや制服を拾ってやる。そういう親子がいてもいいのではないか。
このエピソードを読んで、私もただ、次男がいつか「もういいよ」と言うまで、鉛筆を削ってやろうと思った。
長男のときには、これができなかった。子どもの成長のためには長男自身にさせなくてはならぬのだ、と息巻いていた自分がいた。今は、そんな自分を引っこ抜いて、毎晩ただ、次男の鉛筆を黙って削ってやっている。ではまた。
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