見出し画像

論文紹介 共産圏の軍隊で政治委員が登場した経緯とその国際的な広がり

20世紀の社会主義国家では党が軍隊を統制するために政治委員(political commissar)を用いてきました。政治委員は、ロシア内戦(1918 - 1922)の初期に登場した制度であり、軍隊の内部で将校の動向を監視し、下士官と兵の士気を高め、有望な人材を党に引き入れる役割を担ってきました。ソ連はコミンテルンを通じて共産圏のほとんどすべての軍事組織にこの制度を広めていますが、各国ごとの事情に合わせて独特な変化も遂げています。今回は、この政治委員の多様化について、さらなる研究が必要であると論じている研究を紹介します。

Kokosalakis, Y. (2026). The commissar in revolutionary war: development, export and adaptation of a civil–military relations institution. European Review of History: Revue européenne d'histoire, 1-17. https://doi.org/10.1080/13507486.2026.2616789

19世紀に専門的な職業軍人が国防に不可欠な存在であることが認識されるようになると、各国の指導部ではこれを政治的に統制する制度を構築する必要が高まりましたが、その対応策は政治思想によってかなり異なっていました。社会主義思想家のカール・マルクス(Karl Marx)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)は、職業軍人が革命的イデオロギーから影響を受けにくい存在であると考えており、フランスの政治家ジャン・ジョレス(Jean Jaurès)も、社会主義者の立場で将来の軍隊は、職業軍人に依拠した常備軍の形態ではなく、全国民が臨時に兵役に就く民兵の形態を採用すべきだと主張しています。

しかし、社会主義国家が形成されるにつれて、単に職業軍人を排除して、民兵制度を採用するだけでは有効性が十分ではないことが浮き彫りになりました。1917年のロシア革命でウラジーミル・レーニン(Vladimir Lenin)は各地で成立した労働者・兵士代表ソビエトを場当たり的に自らの動員基盤に組み入れ、即席の軍事組織で反革命運動を抑え込みましたが、1918年に内戦の危険が高まると、より訓練された軍隊を組織する必要が生じ、労働者・農民赤軍(Workers' and Peasants' Red Army)を発足させることを受け入れています。

労働者・農民赤軍の新設で課題とされたのは、職業軍人を体制内に取り込む方法でした。1918年3月4日に最高軍事会議に加わった軍人のミハイル・ボンチ=ブルエヴィッチ(Mikhail Bonch-Bruyevich)が、常備軍を再建するためにロシア帝国の職業軍人を採用することで指揮要員の不足に対応するという方針を打ち出していますが、ほとんどの職業軍人には反革命的な傾向を持っているという警戒があったため、各部隊でボリシェヴィキの党員を政治委員として派遣し、その動向を監視させるという制度が同時に導入されることになりました。これが政治委員制度の始まりとなります。

「1918年4月、彼ら(政治委員)の活動を調整するために、全国軍事政治委員局(All-Russian Bureau of Military Commissars)が設立され、政治委員の職に初めて制度的な基盤が与えられた。政治委員が赤軍の指揮構造に組み込まれる最終的な組織形態は、同年6月に政府が東部戦線の軍事作戦を調整するために革命軍事会議(Revvoensovet)を設立したことで達成された」

革命軍事会議の設立で注目すべき効果は、すべての意思決定が合議制に基づいて下されるようになったことです。欧米の軍隊で見られるような指揮統一が制度的に排除され、各部隊の指揮官は自分の一存だけで指揮権を行使することが妨げられました。命令書を発行するには、自分の署名に加えて政治委員の署名が必須とされたのです。このような制度は、軍務遂行で深刻な遅延、混乱、場合によっては指揮官と政治委員との対立を引き起こす恐れがあり、また反逆を防ぐ上で常に有効であったというわけでもありませんでした。革命軍事会議が設立された1か月後にミハイル・アルテミエヴィチ・ムラヴィヨフ(Mikhail Artemyevich Muravyov)が蜂起して反乱を引き起こしています。

赤軍は、政治委員の権威を高めるために制度を見直しており、1919年5月にはボリシェヴィキの中央委員会政治局が革命軍事会議を下部組織に組み入れて直属させました。また、兵役が革命思想の普及に有用であることが認識されたことも政治委員制度の発展に寄与しており、政治委員が兵士の識字運動、演劇活動、政治教育などを推進する体制が採用されています。ロシア内戦が終結してからは、二重指揮に関する制約も緩和されており、職業軍人が国家に対して敵対的な存在であるとは見なされなくなりました。

その後、ソ連は政治委員の制度をコミンテルンを通じてグローバルに伝えていくようになります。赤軍参謀本部軍事大学校で訓練を受けたアウグスト・ガイリス(August Gailis)は1923年にドイツへ共産党の軍事顧問として派遣されており、1930年には中国でも軍事顧問として共産党の指導に当たって政治委員の制度を伝えました。しかし、この際にソ連の制度をそのまま導入させたわけではなく、現地の事情に応じて政治委員の役割は変化しています。

スペイン内戦(1936 – 39)でソ連が共和派(人民戦線)に軍事援助を与える過程で政治委員の制度を伝えていますが、政治委員の役割は将校の監視や政治工作に加えて、塹壕の活用方法や弾薬の保全方法といった基本的な戦闘技能の指導も含まれていました。ユーゴスラビア侵攻後のドイツ軍による占領に抵抗するために組織された人民解放軍もソ連の支援を受けていますが、ここではソ連の赤軍に近い政治委員の制度が導入されています。同じくドイツ軍の占領に抵抗したギリシャ人民解放軍では、ソ連の援助で政治委員の制度を受け入れたものの、制度は修正と変更を重ねました。将校、政治委員に加えて、政治と軍事の両方の機能を担うカリスマ的なゲリラ指導者であるカペタニオス(Kapetanios)の三重の指揮構造が採用された時期もありましたが、ドイツ軍の占領から解放される直前に政治的な代表制は廃止されました。しかし、戦後にギリシャ内戦が勃発したことを踏まえて、再び政治委員を復活させるなど、状況に応じて制度を見直していきました。

以上のように、ソ連の政治委員の制度は、職業軍人を党の統制下に置く必要から生じましたが、次第に軍部を介した政治工作の中心として重要性を増していきました。そのため、ソ連は諸外国の軍事援助を通じて政治委員の制度を普及させていきましたが、その役割は必ずしも一定ではありません。著者は旧共産圏の軍隊の制度を理解する上で政治委員が果たした役割をより詳細に解明する必要があると考えており、この研究をそのための基礎として提示しています。

関連記事

いいなと思ったら応援しよう!

武内和人 / Takeuchi Kazuto 調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。