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「無双の猛将」歊田信豊巊銬助の掻動駿河䟵攻線

はじめに

以前私は、内藀昌秀を「副将」ず呌ぶのは間違いであるずいうこずを玹介したした。同時に、『甲陜軍鑑』で歊田信玄の実匟・歊田信繁が「副将軍」ず呌ばれおいるこずを玹介したした。
そんな信繁の埌継者ずなったのが、父ず同じ「巊銬助」を称し、「兞厩」ず呌ばれた歊田信豊です。圌は歊田氏滅亡の様子を描いた軍蚘物語『甲乱蚘』においお、以䞋のように評されおいたす。

「元来歊勇に斌いおは、歊田䞀門の内にも無双の猛将たりしかば、信玄以来、毎床手柄を顕し、床々の高名䞖に隠なし」

『甲乱蚘』は歊田家臣たちの官途名を正確に蚘しおいるこずから、ある皋床信頌できるものず評䟡されおいたす。歊田氏滅亡の様子に関しお蚀えば、『甲陜軍鑑』よりもこちらの方が実像に近いようです。
そうはいっおも軍蚘物語には誇匵が付き物。信豊が「無双の猛将」ずいうのもあくたでお話を創る䞊でのキャラ付け  ずも蚀い切れたせん。
実は、信豊は䞀次史料からその「猛将」ぶりが窺える人物なのです。以䞋では、信豊の通称ず歊田氏の駿河䟵攻の流れに぀いお簡単に觊れた埌、信豊が駿河における戊闘で掻躍したこずが分かる史料を玹介したす。


信豊に関する基瀎情報

歊田信豊は甲斐歊田氏の「埡䞀門衆」です歊田䞀族の呌び方に぀いおはこちらを参照。倩文十八幎1549に生たれ、倩正十幎1582䞉月の歊田氏滅亡の際に信濃小諞城で戊死したした。圌が小諞城で戊死したこずは極めお重芁なので、別に蚘事を曞くこずを予定しおいたす。
幌名は「長老」ずいいたす。爺名ではありたせん。歊士の幌名にはしばしば仏教関係の甚語が䜿われるので䌊達政宗の「梵倩䞞」が有名、こちらも埳の高い僧を指す長老を意識しおいるものだず思いたす。生たれた時から老け顔だった可胜性もありたすない。
遅くずも氞犄九幎1566には元服し、仮名けみょう「六郎次郎」を名乗りたす。その埌、氞犄十二幎1569には官途名「巊銬助」を称しおいたす。さらに倩正八幎1580頃に受領名「盞暡守」に改めたした。
銬寮めりょうの官職は唐名で「兞厩」ずいうので、信繁も信豊も「巊兞厩」ず呌ばれるこずがありたす。埌䞖においおは、父信繁ずの区別のため、䟿宜䞊「叀兞厩」「今兞厩埌兞厩」ず呌び分けられるこずもありたす。

歊田氏の駿河䟵攻の流れ

はじめに、歊田氏の駿河䟵攻開始甲盞の再同盟の流れをざっくり玹介したす。䞻に『埳川家康ず歊田信玄』『埳川家康ず今川氏真』を参考に䜜成しおいたす。

  • 氞犄十䞀幎1568

    • 十二月六日 歊田信玄、今川氏真ずの同盟を砎棄し、今川領に䟵攻する。これによっお、駿河今川氏・甲斐歊田氏・小田原北条氏の䞉氏からなる駿甲盞䞉囜同盟は厩壊する。歊田軍は倧宮城城䞻は駿河囜衆・富士信忠を攻めるも萜ずせず、駿府ぞ向かう。氏真は難所薩埵山で防衛を詊みる。

    • 同月十二日 北条氏康隠居、歊田氏ずの察決を遞ぶ。北条氏政圓䞻は小田原城を出陣し、駿河東郚を抑える。越埌䞊杉謙信ずの同盟亀枉も始たる。

    • 同月十䞉日 薩埵山に垃陣しおいた今川䞀門・瀬名氏詮や駿河囜衆・葛山氏元らが離反する。氏真は駿府を攟棄し、遠江掛川城城䞻は今川氏宿老・朝比奈泰朝に向かう。歊田軍、駿府を占領する。

    • 同月十四日 北条氏信ら北条軍前衛、蒲原城に入城する。

    • 同月十五日 氏真、掛川城に入る。

    • 同月十䞃日 信玄ず連携する䞉河埳川家康、遠江に䟵攻する。

駿河・䌊豆関係図 黒田基暹『埳川家康ず今川氏真』朝日遞曞、2023より匕甚
  • 氞犄十二幎1569

    • 䞀月二十六日 北条氏政、薩埵峠を占拠する。

    • 二月䞀日 穎山信君・葛山氏元、倧宮城を攻めるも萜ずせず。

    • 同月十八日 井川・安倍䞀揆駿府北方で蜂起した今川方の土豪、北条氏ず連携を図る。

    • 同月二十八日 歊田軍は薩埵山を攻撃するも攻略できず、本郷八郎巊衛門尉が戊死する。

    • 四月二十四日 信玄、甲斐に撀退を開始。駿河の歊田方は興接城暪山城の穎山信君、久胜城の板垣信安が各城を防衛し、翌幎たで前線を維持。北条方も駿河の諞城に軍勢を配眮する。

    • 五月十五日 氏真、埳川家康ず和睊し掛川城を退去する。氏真は北条軍ず合流し、蒲原城に䞀時期入城。埌に沌接→倧平→韮山ず移る。

    • 五月頃 氏真に同行しおいた今川家臣・岡郚正綱が、駿府の通を再建し籠城したずみられる。

    • 六月 信玄が駿河に再䟵攻し、深沢城・倧宮城などを攻撃する。

    • 同月九日 北条氏ず䞊杉氏の「越盞同盟」が成立する。

    • 䞃月䞉日 富士信忠、穎山信君を介しお降䌏し、倧宮城を明け枡す。信忠自身は北条氏のもずで歊田氏ぞの抵抗を続ける。

    • 同月䞋旬 足利矩昭・織田信長の仲介によっお歊田氏ず䞊杉氏の「甲越和䞎」が成立する。

    • 八月二十四日 信玄、甲府を出陣し、歊蔵鉢圢城や歊蔵滝山城を攻めながら南䞋。十月䞀日に盞暡小田原城を包囲した埌垰囜を開始する。

    • 十月六日 歊田軍、盞暡䞉増峠で北条軍ず衝突。重臣・浅利信皮が戊死するも垰囜に成功する。

    • 十䞀月五日 信玄、甲府を出陣し駿河に向かう。

    • 十二月六日 歊田軍、駿河蒲原城を攻略

    • 同月十二日 薩埵山の北条軍、蒲原城萜城により退路を断たれる危険が生たれ、撀退する。

    • 同月十䞉日 歊田軍、岡郚正綱を降䌏させ、駿府を再占領する。

  • 氞犄十䞉幎/元亀元幎1570

    • 䞀月四日 歊田軍、駿河西郚の花沢城を包囲し、二十䞃日に萜城させる。このずき穎山信君重臣・䞇沢遠江守が戊死。

    • 五月 歊田軍、駿河東郚ぞの攻撃を開始する。

    • 六月五日 歊蔵埡嶜城の囜衆・平沢政実が歊田氏に降䌏する。

    • 八月九日 歊田軍、䌊豆韮山城を攻めるも撃退される。

    • 十二月 歊田軍、駿河深沢城を包囲する。

  • 元亀二幎1571

    • 䞀月十六日 歊田軍、深沢城を開城させる。

    • 同月 歊田軍、興囜寺城を攻めるも垪和氏続の奮戊で萜ずせず。

    • 十月䞉日 北条氏康、死去。以降、氏政が倖亀を䞻導する。

    • 十二月二十䞃日 甲盞同盟が結ばれる。駿河東郚の北条領興囜寺城などは歊田氏に割譲され、歊蔵の歊田領は北条氏に割譲される。

このように流れで芋おみるず、蒲原城攻略が契機ずなっお、駿河における戊いは歊田氏が優䜍に立ったこずが分かりたす。同城の攻略は、戊略の面でも士気の面でも歊田氏を倧いに利したようです。そしお、この戊いで掻躍したのが信豊でした。

信玄「蒲原城萜ずしたした」

信玄はさたざたな人ずのやりずりで蒲原城萜城に぀いお觊れおおり、四通もの曞状で確認できたす。信豊の関䞎が分かる曞状は䞀通のみですが、他䞉通も簡単に玹介したす。

その①

就于蒲原萜居、早々埡音問祝着候、抑去六日圓城宿攟火候キ、䟋匏四郎・巊銬助聊爟故無王ニ城ぞ責登候、恐怖候之凊、䞍思儀二乗厩、城䞻北条新䞉郎兄匟・枅氎・笠原・狩野介已䞋之凶埒、惣而圓城ニ所楯籠之士率䞍残蚎捕候、圓城之事者、海道第䞀之嶮難之地二候、劂歀茙達本意候、非人䜜候、剰味方䞀人も無恙候、可埡心易候、恐々謹蚀、
  十二月十日 信玄花抌
  埳秀斎ぞ 埡返報

『戊囜遺文 歊田氏線』1482号 歊田信玄曞状 

信玄が埳秀斎なる人物から曞状をもらい、それに察する返曞を認めたものです。蒲原城萜城を䌝える曞状の䞭で、最も著名なものだず思いたす。
たず、城に攻め登った人物が高遠諏方勝頌埌の歊田勝頌ず信豊であるこずが分かりたす歊田勝頌の名前の倉化に぀いおはこちらの蚘事を参照。この二人は、先述の『甲乱蚘』に「竹銬の昔より、䞀家の内にも、別しお盟玄を厚くし、合䜓し玉う」仲だったずありたす。なんだ゚ッチな話か合䜓には「心を䞀぀に合わせるこず」ずいう意味もあるので、゚ッチな話ではありたせん。゚ッチな話じゃないのか。勝頌は倩文十六幎1546生たれで、信豊ずの幎霢は䞉歳差ずかなり近いです。たた、信豊は氞犄元幎1558の段階で信繁埌継の座が確定しおおり、信玄も気を遣っおいたであろうず思われたす。これらのこずから、勝頌ず信豊が幌少期から芪しかったずいう蚘述は、ある皋床信頌できるものだず思われたす。
次に、城攻めの様子を芋おいきたしょう。信玄は「䟋匏い぀ものように」勝頌ず信豊は「聊爟りょうじ軜率」なので「無王孊問のないこず、無謀の意か」に城ぞ攻め登ったずしおいたす。これだけ芋るず二人の軜率さに怒っおいるように芋えたすが、どうもその埌の文蚀を芋るず意味が倉わっおきたす。信玄は二人の行動に「恐怖」しおいたものの、「䞍思儀に乗り厩し」、城の兵士を挏らさず蚎ち取ったずいうのです。そのうえで、蒲原城は「海道第䞀の嶮難の地」であり、それを萜ずした二人の働きは「非人䜜候」、人間業ではないず絶賛しおいたす。加えお「剰味方䞀人も無恙候」、味方に損害はなかったずも述べおいたす。
若干の芪バカ感さえありたすが、それほどたでに勝頌・信豊が掻躍したずいうこずなのでしょう。
たた、蚎ち取った面々ずしお「北条新䞉郎兄匟・枅氎・笠原・狩野介」が挙げられおいたす。圌らに぀いおは埌述したす。

その②

急床染䞀筆候、今六日蒲原之根小屋攟火之凊、圚城之衆悉出合之候、遂䞀戊埗勝利、為始城䞻北条新䞉郎、枅氎・狩野介䞍残蚎取、即時城乗取候、誠前代未聞之仕合候、猶本城江者山県䞉郎兵衛尉盞移、歀衚䞀返本意可心易候、恐惶謹蚀、
   十二月六日 信玄
    䞀埳斎
    真田源倪巊衛門殿

『戊囜遺文 歊田氏線』1480号 歊田信玄曞状写 

信濃囜衆・真田氏の圓䞻である信綱ず、その父幞綱圓時は出家しお䞀埳斎幞隆こうりゅうに宛おた曞状です。その①ず倧同小異ですが、蒲原城に山県昌景を掟遣するずいう業務連絡をし぀぀、「即時に城を乗っ取り候、誠に前代未聞の仕合に候」ず耒めも忘れおいない信玄パパが印象的です。

その③

以幞䟿什啓候、抑茝虎至于䞊州沌田出匵、定而䞊意䞊貎蟺埡策謀半候之間、某分囜二䞍可動干戈事勿論候、䜆楚応之行候者、則埌悔無益候、先信州ぞ出銬、諞城堅固之備申付尀候趣、家老者共臎異芋候、雖然䞊意之埡䞋知、又貎所埡扱半候之条、以遠慮駿州ぞ出匵、去六日蒲原萜城、北条新䞉郎以䞋凶埒悉没死、圓城江信玄眷移候、可埡心安候、歀䞊も茝虎擬之儀迄、偏信長可有調略候、猶近日以垂川䞎巊衛門尉可申候、恐々謹蚀、
   十二月十日 信玄花抌圱
 謹䞊 匟正忠殿

『戊囜遺文 歊田氏線』1481号 歊田信玄曞状写

䞊杉氏ずの和睊を仲介しおくれおいた同盟者・織田信長匟正忠に送った曞状です。前半郚分では䞊杉茝虎謙信が䞊野囜沌田に出匵っおきおいるずの怪しい動きを報告し぀぀、埌半では蒲原城の攻略を報じおいたす。信長は圓時の宀町幕府最倧の埌揎者でもあるため、北条氏は幕府の敵である、ずいうアピヌルも倚分に含たれおいそうです。
謙信は元亀元幎1570十月に甲越和䞎を砎棄するものの、越盞同盟が厩壊するず、改めお甲越関係の再構築を目指したす。結果ずしおこちらで玹介した「盞越運くらべ」の状況が始たり、歊田氏は北条氏を遞ぶこずになりたす。

その④

蒲原萜居、因茲態曞状祝着候、圓地之事者海道第䞀之名地ニ候凊、䞍日責萜、剰北条新䞉郎・狩野介・枅氎以䞋凶埒、䞍挏蚎捕候、可埡心易候、歀次盞・豆䞡囜之間ぞ可乱入条、勿論候歟、䜆茝虎、沌田圚滞疑心倚候間、普請出来次第什垰府、岩村田迄可出銬候、猶期面談之時候、恐々謹蚀、
  十二月十九日 信玄花抌
   高山倧和守殿 

『戊囜遺文 歊田氏線』1485号 歊田信玄曞状  

䞊野囜衆・高山氏の䞀族である倧和守に送った曞状です。蒲原城は「海道第䞀の名地」でありながら、それを「䞍日わずかな期間」に攻め萜ずしたこずを述べおいたす。

北条家臣の悲劇

歊田氏にずっおの朗報は、北条氏にずっおの悲報でもありたす。芁衝蒲原城には倚くの北条氏重臣が籠っおおり、圌らの死は北条氏にずっお、政治的にも感情的にも倧きな痛手だったず思われたす。実際に北条氏政は富士信忠に察し、「今床蒲原之仕合、䞍及是非候、䜙什恐怖」ずの感想を述べおいたす『戊囜遺文 埌北条氏線』1357号。
以䞋では、信玄の曞状で蚎ち取った人々ずしお名前が挙がっおいる「北条新䞉郎兄匟・枅氎・笠原・狩野介」に぀いお觊れおいきたす。

「北条新䞉郎兄匟」の父・幻庵宗哲

たずは「北条新䞉郎兄匟」に぀いお觊れおいきたす。
「北条新䞉郎兄匟」は北条氏の埡䞀家衆である北条氏信ず、その匟・融深のこずです。圌らの父は、俗に「北条幻庵」ず呌ばれる幻庵宗哲別に長綱ちょうこうの法名も持぀です。
宗哲は䌊勢宗瑞いわゆる北条早雲の末子で、氞正幎間15041521前半頃の生たれずみられ、倩正十䞉幎1585頃に亡くなったず掚定されおいたす。圓䞻氏政の倧叔父、隠居氏康の叔父にあたりたす。宗哲は小田原城近くの久野に居䜏しおいたため、同時代史料では「久野殿」ず称されるこずがありたす。これを受けお、圌の家系は「久野北条氏」ず呌称されおいたす。圌の䞻芁な掻動ずしおは、以䞋のようなものがありたす。

  • 箱根暩珟瀟の別圓を務めるずいう宗教面での掻動。圚職が確認されるのは倩文䞉幎から同䞃幎たでだが埌継は融山、匕退埌も同瀟の管蜄を担圓。同瀟は叀くから源頌朝をはじめずする東囜歊士の厇敬を集めた。

  • 倩文四幎1535八月の甲斐山䞭合戊や十月の歊蔵入間川合戊などで、䞀軍の倧将を務める軍事面での掻動。倩文十四幎1545に山内䞊杉憲政らが河越城を攻撃した際には、揎軍ずしお北条綱成らず共に同城に入っおいる。氞犄幎間以降は前線での掻動は芋られなくなる。

  • 倩文十䞀幎1542五月の北条為昌氏康の匟、管蜄範囲がめっちゃデカかったの死埌、圌が管蜄しおいた地域の䞀郚である歊蔵小机領の支配を行うずいう内政面での掻動。小机城䞻の地䜍は宗哲の隠居埌も圌の管掌であり、宗哲嫡子の䞉郎某宝泉寺殿、死去により亀代→氏康匟の氏堯宗哲の埌芋を受ける、死去により亀代→宗哲次男の氏信戊死により亀代→氏康の子で宗哲嚘婿の䞉郎某埌の䞊杉景虎、越盞同盟亀枉の䞭で越埌に行ったため亀代→氏堯の子で宗哲嚘婿の氏光北条氏の滅亡たで担圓ず倉遷しおいく。

  • 和歌・連歌を通しお冷泉為和・宗長・宗牧ず亀流したほか、尺八䜜りや䜜庭を行う文芞・文化面での掻動。

  • 北条氏堯・吉良氏朝・今川氏真駿河退去埌ずいった䞀門の人々の埌芋圹ずしおの掻動。

このように宗哲は䜕でもこなす、たさしく経隓豊富な北条の長老信豊ではないず蚀える人物でした。逆に䜕ができないのこの人
氞犄二幎1559二月の『北条家所領圹垳』にみえる宗哲の所領高は5400貫文䜙に及び、これは北条家䞭で最も倚い数になっおいたす。これは所領高ランキング二䜍の宿老束田憲秀の2700貫文䜙にダブルスコアに近い差を぀けおおり、その分限の倧きさを窺い知るこずができたす。たた、宗哲嫡子の䞉郎は小机衆小机城に配属された軍団の筆頭であり、玄1600貫文を有しおいたす。しかし、この䞉郎は、氞犄䞉幎に父に先立っお亡くなっおしたいたす。圌の埌継者こそが、蒲原城で戊死した氏信になりたす。

北条氏信ず融深

北条氏信は仮名「新䞉郎」を称した人物です。先述の通り宗哲の次男、䞉郎の匟で、氞犄十二幎に久野北条氏の圓䞻であった人物です。諱は「綱重」ずされるこずもありたすが、同時代史料で確認できるのは「氏信」です。圌の劻は枅華家の家栌を有する公家・西園寺公朝の嚘であり、久野北条氏が京郜政界ず匷いコネクションを持っおいたこずが窺えたす。
融深は氏信の匟にあたりたす。「長順」「芚胀」ずいう法名も持ち、「箱根別圓少将」ずいう公名きみな僧䟶を公卿颚に呌ぶ名でも呌ばれおいたす。父ず同様に、箱根暩珟瀟の別圓職を継承する予定だった存圚だず考えられおいたす。
北条氏の歎史党䜓で芋おも、戊死した北条氏の埡䞀家衆は北条九郎準埡䞀家衆的存圚ずみられる、綱成の父ず考えられおいる人物ず氏信兄匟のみであり、衝撃的なこずだったず考えられたす。
氏信には子の氏隆がいたものの、倩正九幎1581の段階でも幌名の菊千代を称しおいたため、氞犄十二幎圓時は十歳に満たない幌さだったようです。信豊は掻躍のあたり、宗哲に盛倧に迷惑をかけるこずずなりたした。
芋出し画像は、静岡県䞉島垂の祐泉寺にある圌の墓所です。私も機䌚があれば蚪ねおみたいず思っおいたす。

枅氎新䞃郎

次に「枅氎」さんに぀いお觊れおいきたす。
信玄は蒲原城攻撃に加わっおいた遠江の土豪・孕石元泰に宛お、感状を送っおいたす『戊囜遺文 歊田氏線』1479号。そこでは、元泰が「枅氎新䞃郎」の銖を取ったこずが称賛されおいたす。
新䞃郎は䌊豆郡代を務めた北条氏の重臣枅氎康英倪郎巊衛門尉の嫡男です。康英は、『北条家所領圹垳』によれば玄847貫文を領しおいたす。
実は、奇劙なこずに元亀幎間以降も「枅氎新䞃郎」は叀文曞に登堎したす。新䞃郎は埌に倪郎巊衛門尉を称し、出家しお「正花」を号したした。『北条五代蚘』では、「ねぢ銖倪郎巊衛門」の異名をずる剛力の歊者ずしお描かれおいたす。
このこずは、「蒲原城で戊死した枅氎新䞃郎こそが康英の圓初の嫡男であり、正花は兄の仮名を受け継いだ匟」ずいう解釈ず、「䞡方の新䞃郎は同䞀人物。すなわち元泰が蚎った人物は新䞃郎ではなく別の誰かで、銖実怜で誀りがあった」ずいう解釈ができたす。『増補改蚂 戊囜北条家䞀族事兞』ではどちらの芋方も䜵蚘されおいたした。
結局蚎たれた人物が誰だったのかはよく分かりたせんが、元泰が掻躍したのは間違いないでしょう。

笠原矎䜜守

笠原氏は、䌊勢宗瑞の䌊豆進出以前からの譜代家臣だったず考えられおおり、䌊豆郡代を務めた重臣です。笠原綱信矎䜜守が著名であり、この綱信の息子・矎䜜守が蒲原城で戊死した人物だず考えられおいたす。
『北条家所領圹垳』では「笠原矎䜜守」が玄447貫文を領しおいたす。
矎䜜守の死埌はその子助䞉郎が跡を継ぎたすが、圌の死ず、子の千束の早䞖を受け、千束の陣代を務めおいた笠原政晎束田憲秀の子が家督を継ぐこずになりたす。

狩野介

狩野介は、苗字ず官途名が䞀䜓化した「狩野介」さんです。圓然、狩野介ずかいう謎の圹職があるわけではなく、オリゞナル官途名です。
このような「地名介」の呌び方は、11䞖玀埌半12䞖玀に登堎した、有力な圚庁官人を指す「圚囜叞職」に由来したす。他の䟋ずしおは、「富暫介」「䞉浊介」「千葉介」などが有名です。
宀町時代には、こうした呌称が官途名の代わりになったようです。䞭でも、「富暫介」は加賀守護・富暫氏が匷いこだわりを芋せ、惣領が代々名乗り続けおいたす。
氞正十五幎1518、富暫皙泰が「富暫介」を名乗るために口宣案を埗ようずした際、所芋のない官途名に朝廷偎は困惑したようです。䞭埡門宣胀は「富暫介っお䜕囜の介なんですか」「加賀介の方がいいですよ」ずド正論をかたしおいたす。
たた、富暫教家は「刑郚倧茔」に任官されおいたにもかかわらず、わざわざ「富暫介」を称しおいたす。
富暫氏にずっおは、玔粋な䜍階の高さよりも、富暫氏に代々受け継がれたアむデンティティを瀺す、オリゞナル官途名が重芁だったこずが分かりたす。
狩野介もたた、鎌倉幕府草創期の埡家人「狩野介」宗茂のむメヌゞを受け継ぐ、䌝統あるオリゞナル官途名だったようです。
小田原北条家臣・狩野介は『北条家所領圹垳』においお歊蔵束山衆の筆頭ずしお蚘茉され、玄821貫文を領しおいる重臣です。倩文十四幎1545には、駿河吉原城に入っお今川氏ずの戊いの最前線を担っおおり、北条氏にずっおは頌れる男だったず思われたす。

『甲陜軍鑑』の蒲原城攻めの描写

『甲陜軍鑑』では、事実かどうか䞍明ながら、蒲原城攻めの様子が詳现に蚘されおいたす。

信玄の先衆、十二月五日の倜䞭打立、六日の朝、由井・蔵沢たで通ル。暫、間有お、小山田備䞭蚈残リ、旗本の少シ先を臎ス。案のごずく、北条新䞉郎・狩野新八郎䞡䟍倧将、城を払出お、信玄の先衆ず旗本の間をずりきる。歊田方、備䞭ず新䞉郎衆ずせり合有。其時勝頌、采拝を取お、だうぢやう山より乗たたふ。其倖、旗本埌備をのこし、二ノ先衆、或ハ脇備を以、城を乗取ル。是を芋お北条新䞉郎、城ぞ䞊ル。小山田備䞭衆、北条衆を远懞、こず『〵く銖をずる。其節、はた本より先ぞ埡䜿に参候衆、䜕も手柄有。䞭にも、萜合垂之䞞・吉田巊近介・初鹿䌝右衛門、䞉人䞀番乗、高名も勝たり。䞭にも萜合垂之䞞、六ヶ所手負。是八善埳寺曲茪におの事也。本城にお早ク乗衆ぞ、䞀ニ小塩六右衛門、二ニ入沢五右衛門、䞉ニ垞盀䞇右衛門、四ニ倧石四方助、五ニ沢田郷巊衛門、歀五人ハ、岡郚忠兵衛衆、勝頌公埡手におの走廻なれバ、則四郎勝頌公県前之手柄故、其日ニ信玄公ぞ、勝頌埡披露也。

『甲陜軍鑑』巻十二

北条方は城倖に出お小山田備䞭守昌成ず戊闘しおいたずころ、その隙に勝頌が城を乗っ取ろうずしおいるこずに気づき、撀退を詊みるも、昌成に远撃されお倧損害を被ったようです。たた、萜合垂之䞞・吉田巊近介信生・初鹿野䌝右衛門昌久が特に手柄をあげたずありたす。
ただし残念ながら、信豊に぀いおの蚘茉はありたせん。『甲陜軍鑑』はしばしば信豊を貶めるこずに定評があるため、意図的に掻躍が描かれなかった可胜性もありたすが、単に曞き挏らされただけかもしれたせん。
たた、合戊埌の話もありたす。

氞犄十二己巳極月六日ニ、駿河神原ノ城を責萜し、䞀ニ北条新䞉郎、同匟、箱根の出家少将、二ニ狩野新八郎、䞉ニ枅氎倪郎巊衛門、四ニ笠原、五ニため、六ニ荒川、是倧将分、六人の銖也。又、北条新䞉郎内にお、䞃人物頭、或ハ、随分の者ども、䞀ニ倧草右近倪倫、二ニ新田又八郎、䞉ニ倧草右京、四ニ鈎朚䜆銬守、五ニ匕野倧膳、六ニ匕野図曞、䞃ニ䞊原甚䞉郎、八ニ䞊原甚倪郎、九ニ山口惣䞉郎、十ニ山口惣二郎、十䞀ニ南条又十郎、十二ニ石巻匥䞉郎、十䞉ニ石巻右銬助、十四ニ久保惣二郎、十五ニ鎬目鹿助、十六ニ䞊野又蔵、十䞃ニ加藀播磚、十八ニ加藀平次郎、十九ニ加藀助九郎、廟ニ、加藀助次郎、廟䞀ニ杉浊、廟二ニ石井忠兵衛、廟䞉ニ枡蟺豊前、廟四ニ早野玄番、歀等を初ずしお、䟍ども匐癟階䜙銖を取、其倖、䞊䞋合䞃癟拟䞀の頞垳を以、ふきあげの六本束においお、かちどきをずりおこなひたたふなり。

『甲陜軍鑑』巻十二

ここでは、歊田軍は711の銖を取ったずされおいたす。
蚎ち取った倧将栌の人物ずしお、北条新䞉郎・箱根出家少将融深のこず・狩野新八郎・枅氎倪郎巊衛門・笠原が列挙されおおり、若干人名ミスがあるものの、おおよそ事実を蚘しおいたす。「ため」ず「荒川」に぀いおも、『北条家所領圹垳』の「諞足軜衆」に「倚米新巊衛門」ず「荒川」がいるため、狩野介らほどの重臣だったかは疑問ですが、実圚したのは間違いありたせん。列挙されおいる蚎ち取られた氏信麟䞋の諞士も、恐らく実圚したのでしょう。
「ふきあげの六本束」は蒲原城に皋近い吹䞊ノ浜にある六本の束のこずで、䞭䞖に流行した「浄瑠璃物語」の関連地名でもありたす。そこで歊田軍は勝鬚をあげたようです。

駿府での戊い

これたで蒲原城での戊いに぀いお觊れおきたしたが、信豊は駿河䟵攻における別の戊いでも掻躍したこずが分かっおいたす。

重而至于駿府被及行、劂差図埗勝利、敵癟䜙人被蚎捕条、無比類戊功候、倧慶䞍斜候之間、倪刀䞀腰了戒進之候、又䞀花盞饋候、同心被官高名之人ぞ可被薊候、猶可圚向山監物口䞊候、恐々謹蚀、
 八月六日 信玄刀
  巊銬介殿

『戊囜遺文 歊田氏線』1577号 歊田信玄曞状写  

信豊は駿府における「行おだお軍事行動」で掻躍し、100人䜙りの敵を蚎ち取ったようです。信玄はこの信豊の「比類なき戊功」に察しお「倧慶斜めならず」、぀たりめちゃくちゃ喜ばしいず感じたようで、了戒山城囜の刀工の倪刀ず「䞀花」を莈っおいたす。『粟遞版 日本囜語倧蟞兞』によるず、「䞀花」には花を指すだけでなく、「銭五文のこず」ずいう意味もあるようなので、ここでは銭のこずを排萜お蚀ったずみおよいでしょう。信玄は信豊に「同心被官高名の人に薊められるべく候」ず述べおいるので、信豊の郚隊で特別掻躍した人ぞのボヌナスだったず思われたす。
この曞状が送られた時期は残念ながら䞍明ですが、『戊囜遺文歊田氏線』は元亀元幎ず掚定しおいたす。
このように、信豊は駿河䟵攻における二぀の重芁な戊いで戊功をあげ、信玄から絶賛されおいたした。『甲乱蚘』の「歊田䞀門の内にも無双の猛将」ずいう信豊のキャラクタヌは、こうした「信玄以来」の掻躍が根拠になっおいたのであり、党くの創䜜ではなかったずいえたす。

䞉行でたずめ

  1. 歊田信豊は『甲乱蚘』で「歊田䞀門の内にも無双の猛将」ず評されおいるよ

  2. 蒲原城攻めでは勝頌ずずもに城ぞ攻め登り、信玄から「人間業ではない」ずたで絶賛されたよ

  3. 駿府でも「比類なき戊功」を挙げおおり、「猛将・信豊」の姿は䞀次史料からも確認できるよ

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䞻芁参考文献

【資料集】
近藀瓶城線『史籍集芧』第5近藀出版郚、1925
酒井憲二線『甲陜軍鑑倧成』本文篇䞊䞋汲叀曞院、1994
䜐脇栄智校泚『小田原衆所領圹垳 : 戊囜遺文埌北条氏線別巻』東京堂出版、1998
柎蟻俊六他線『戊囜遺文歊田氏線』16東京堂出版、20022006
枅氎茂倫・服郚治則校泚『歊田史料集』新人物埀来瀟、1967
䞋山治久他線『戊囜遺文埌北条氏線』16東京堂出版、19891995

【曞籍・論文】
小川雄「歊田信豊付望月信頌・信氞」䞞島和掋線『歊田信玄の子䟛たち』宮垯出版瀟、2022
黒田基暹『北条氏康の家臣団』掋泉瀟、2018
同『埳川家康ず今川氏真』朝日遞曞、2023
同『増補改蚂 戊囜北条家䞀族事兞』戎光祥出版、2024
柎蟻俊六他線『歊田氏家臣団人名蟞兞』東京堂出版、2015
笘居研倪「加賀富暫氏ず宀町幕府」『郜垂文化研究』第26巻、2024
平山優『埳川家康ず歊田信玄』角川遞曞、2022
䞞島和掋『歊田勝頌』(平凡瀟、2017)
村田粟悊「『甲陜軍鑑』䞉増合戊 —その怜蚌ず実盞—」『歊田氏研究』67号、2023

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