「諏方勝頼」が「武田勝頼」になり武田家後継者として甲府に入ったのはいつ?
結論を先に言えば、元亀二年(1571)の十一月~十二月の間です。
※「諏訪」は中世では「諏方」と書くのが一般的でしたので、本記事ではその表記に倣います。
武田勝頼の基礎情報
「別妻の子」勝頼、「高遠諏方家」を継ぐ
武田勝頼は甲斐の戦国大名・武田信玄の四男として、天文十五年(1546)に生まれました。仮名は四郎を称しました。しばしば誤解されますが、四郎は元服後につける仮名であって、幼名ではありません。勝頼の幼名は不明です。
勝頼の母は乾福寺殿(信濃諏方郡の国衆・諏方頼重の娘、諏方御寮人)です。乾福寺殿はかつては信玄の「側室」とされ、信玄の嫡男義信らを生んだ「正室」円光院殿(転法輪三条公頼の娘、三条殿)よりも格下であると見られてきました。
しかし、近年では、江戸時代より前の夫婦の在り方について、一夫一妻ではなく一夫多妻(多妾)であったことが明らかにされています。戦国大名の妻についても、「正室」「側室」という呼称を用いるのは妥当ではないことから、「正妻」「別妻」「妾」という分類が用いられるようになっています。「正妻」「別妻」はどちらも同列の「妻」であり、家政を管轄する妻(家妻)と、その後継を予定されたものが「正妻」、そうでない妻が「別妻」と呼称されています。一方で、大名家の家長や家妻の家臣の立場にあたる女房衆の女性が、当主との間に子をなすこともありました。このような女性は「妾」と呼称され、正妻の管轄下にありました。従来「側室」とされてきた立場はこの「妾」に相当します。有名どころでは、羽柴秀吉の妻・茶々(淀殿)は「側室」ではなく「別妻」であり、「正妻」寧々と同等の立場であったことが分かっています。
乾福寺殿の実家諏方家は、戦国大名ほど強大ではないとはいえ、独立した領域権力たる国衆でした。つまり彼女は、信玄や円光院殿の家臣である「妾」の立場ではなく、「別妻」だったと考えられています。
勝頼は諏方頼重(諏方本宗家)の後継者と紹介されることが多く、実際に『甲陽軍鑑』では「信州諏訪頼茂跡目成故に……」など、頼重の跡を継いだという記述があります。しかし、丸島和洋氏は『武田勝頼』において高野山成慶院の供養帳『武田日牌帳 三番』を分析し、勝頼は実際には高遠諏方頼継の跡を継いでいたことを明らかにしました。高遠諏方家は信濃伊那郡の高遠を本拠とした国衆であり、諏方家の有力な分家です。勝頼の前の高遠諏方家当主・頼継は、信玄と結んで頼重を攻めた人物です。後に信玄と戦って敗北し、高遠諏方家もまた武田氏に従属することになります。
また、丸島氏は、信玄実子かつ頼重の孫である勝頼が高遠諏方家に入ったことで、諏方氏の惣領職は同家に移った可能性が高いということも指摘しています。
一方、本来の諏方氏の惣領であった諏方郡の諏方家は、頼重の叔父・満隣の嫡男・頼豊によって継承されます。また、頼豊の弟・頼忠は諏方大社上社の大祝(現人神)となりました。江戸時代に諏方を領した高島藩は、頼忠の子・頼水を祖とします。
これまで述べてきたことをまとめると、勝頼は信玄の別妻・乾福寺殿の子であり、高遠諏方家の当主「高遠諏方勝頼」であるものの、新たな諏方氏全体のトップとして、単に「諏方勝頼」と呼んでも差し支えない人物、ということになります。
高遠城主・諏方勝頼
諏方勝頼は『甲陽軍鑑』の記述から、永禄五年(1562)に高遠城に入ったとみられています。彼は安倍宗貞ら甲府から同行してきた付家臣と、保科正直ら高遠諏方家の家臣団に支えられ、自身の領国を統治しました。勝頼の支配領域は「高遠領」と呼称され、高遠諏方頼継の旧領である「高遠領」と、伊那郡箕輪の国衆・藤沢頼親の旧領である「箕輪領」を合わせたものになっています。同時代史料の上では、永禄五年九月二十三日付で埋橋弥次郎に宛てた判物(『戦国遺文 武田氏編』798号。以下、『戦武』○○と略記)が、勝頼の高遠領支配を示す最初の文書となっています。
勝頼の立場は、同時代史料において「郡主」と表現されています(『戦武』916)。丸島氏は、武田家が諏方郡に「郡司」を置いたのが同時代史料から確認できることと、『甲陽軍鑑』に「(勝頼を指して)信州伊那の郡代」などといった「郡代」の存在が散見されることを踏まえて、武田領国各地に「郡司」が置かれたと想定し、勝頼を「上伊那郡司」と表現しています。
もっとも、各「郡司」がそれぞれ全く同じ権力を持っていたわけではなさそうです。勝頼は永禄十一年(1568)、高遠領に関係する朱印状を発給しています(『戦武』1324)。この頃に武田家中で朱印状を出しているのは、穴山氏や小山田氏といった家格の高い面々に限られることを踏まえると、勝頼は武田氏の「御一門衆(※)」かつ国衆家当主という立場もあって、高次の権限を有していたと想定されます。
また、永禄七年(1564)六月、信玄は信濃国衆・木曾義昌の家老に書状を贈りました(『戦武』898)。前年に義昌が甲府に挨拶に来たことを受け、その答礼を考えていたようです。信玄は、自分または嫡男義信、最低でも勝頼が挨拶に行くべきだと考えていたが、出陣が続いたため果たせなかった旨を述べています。ここからは、勝頼が義信に次ぐ家格を有していることが分かります。信玄次男・龍芳は疱瘡によって失明しており、三男・信之は早世していたため、勝頼は信玄の「事実上の次男」として活動していたのです。

勝頼は武田家の有力一門・諏方勝頼として生涯を終えるはずでした。しかし、そうはならなかったのは皆様ご存じの通りです。
永禄八年(1565)十月頃、信玄嫡男・義信が謀叛を企てていたのが発覚したことで、彼は廃嫡され、甲斐東光寺に幽閉されることになりました(いわゆる「義信事件」)。義信は二年後の十月十九日に死去します。
結果として、信玄の次に当主となったのは勝頼でした。問題は、勝頼が信玄の後継者として位置付けられたのはいつだったのか、勝頼が「諏方」から「武田」に戻ったのはいつだったのか、という話になります。
※勝頼や穴山信君、武田信廉といった武田一門を「御親類衆」と呼んでいる媒体もありますが、これは『甲陽軍鑑』の誤謬を受け継いだもので、正確ではありません。この記述を断りなく使っている文章は、ちゃんと調べているか疑ってかかった方がいいかもしれません……。
跡部勝資書状の記述
まず参考になるのは、信玄の側近・跡部勝資が、北条高広(越後上杉家臣・上野国厩橋城城主)に宛てた元亀二年(1571)十二月十七日付の書状(『戦武』1762)です。この書状は「武田信玄に信頼された側近・跡部勝資~書状から見る外交手腕~」で紹介しましたので、内容についてはそちらを読んでいただけるとありがたいです。
この書状において、勝頼は信玄と並立して記され、父と共に外交交渉を行う立場として扱われています。この段階では、明らかに勝頼が後継者として認識されていたとみてよいでしょう。つまり、勝頼が甲府入り・武田復姓を果たしたのは、元亀二年十二月以前と考えられます。
丸島和洋氏の問題提起
勝頼が武田家の後継者として甲府に入り、武田苗字に戻った時期は、通説では元亀二年(1571)六月とされていました。しかしそれは確たる史料の裏付けがなかったため(『甲陽軍鑑』準拠)、丸島和洋氏は先述の『武田勝頼』において、再検討を加えています。丸島氏は、信玄が一色藤長(将軍足利義昭の側近)に送った条目(『戦武』1535)に注目しました。
条目
一、於于駿州山西、京着万疋之御料所、令進献候事、
付、当年者、可為如累年、従来年、京着万疋之意趣、可有彼口上之事、
一、貴辺へ五千疋之所、於駿州進之候事、
付、条々有口上、
一、愚息四郎官途、并御一字之事、
付、条々有口上、
ー、自当出頭之人、対隣国之諸士、書状之認様、上意御下知之由候、就之存分雇彼口上候事、
一、従相・越両国、種々於于 御前被申妨之由、向後御分別之事、
以上
卯月十月 信玄
一色式部少輔殿
この条目は、「駿河国山西地域(志太郡・益頭郡)の1万疋の領地を幕府の御料所として献上する」「藤長にも5000疋分の領地を贈る」など、五つの内容を含んでいます。本文書は四月十日付ですが、年次の記載はありません。ただし、山西地域の領地を献上していることから、武田氏が今川氏に与同する勢力を倒して同地を確保した永禄十三年/元亀元年(1570、以下は便宜上元亀元年に統一)二月より後のことであると考えられます。『戦武』は元亀元年四月に比定し、丸島氏もこれに基づいて考察しています。
重要なのは三条目の「愚息四郎官途、并御一字之事」です。信玄は義昭に対して、勝頼に偏諱を授与することと、官職(大膳大夫と思われる)をもらえるよう朝廷に働きかけることを求めているのです。丸島氏はこれを踏まえ、「将軍に官途吹挙と偏諱を求める以上、勝頼の立場は家督候補とみるべきであろう」と指摘したのです。
もっとも、この要請が実現しなかったことは、勝頼がこの後も「勝頼」を名乗っており、無位無官キャラとしておなじみ(?)なことからも明らかなように、周知の事実です。
この理由について、丸島氏は「一般に、織田信長の妨害によるものとされるが、この時点の信長が、信玄に悪意を抱いた形跡はない」とし、「むしろ、問題は信玄にあった」可能性を述べています。
信玄の問題とはなにか。それは四条目にある「自当出頭之人、対隣国之諸士、書状之認様、上意御下知之由候、就之存分雇彼口上候事」でした。信玄は、「出頭の人」が隣国の諸士に対して認める書状が、義昭の命令を伝えていることについて、思うところを述べたようです。
「出頭の人」は「重用されている家臣」、「寵臣」といった意味になります。「出頭人」という表現が一般的で、『甲陽軍鑑』はこの「出頭人」をディスり気味に多用していることで有名です。
ここでの「出頭の人」は、当時幕府を支えていた織田信長を指していると考えられています。信長は義昭が諸国の大名らに御内書を出す際、副状を付す立場にありました。この体制は信長の意思のみで決まったものではなく、義昭と信長の協議の末に決まったものでした。
丸島氏は、信玄は信長が自身の書状で義昭の意志を奉じている状況に苦言を呈したのであり、これが義昭の機嫌を損ねた(=交渉失敗の要因である)のではないかと論じています。
信長は確かに義昭政権成立の功労者であるものの、武田家もまた義昭政権の有力与党であり、勢力規模は織田家に匹敵します。信玄としては、信長だけが義昭に厚遇されていると感じていたのかもしれません。いずれにせよ、丸島氏が提示した「元亀元年四月以前説」は説得力がありました(過去形)。
山角康定書状の記述
この新説の問題点としては、山角康定(小田原北条家臣・御馬廻衆寄親)が北条高広に宛てた元亀元年(1570)八月十二日付の書状の内容を挙げることができます(『戦国遺文 後北条氏編』1435号)。この直前の九日、武田軍は北条家方の伊豆韮山城に攻め寄せたものの、撃退されました。本書状はその際の様子を伝えたもので、「山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所に……」などとあります。武田軍の物主(指揮官)として、山県昌景・小山田信茂・「伊奈四郎」の名前が挙げられているのです。
「伊奈」は信濃の「伊那」のことであり、「伊奈四郎」は高遠諏方家を継ぎ伊那に居住していた勝頼のことを指します。つまり、小田原北条家の認識としては、当時の勝頼はまだ「諏方勝頼」だったのです。
このことは先述の丸島氏の「元亀元年四月以前説」と矛盾しそうです。しかし、北条家は当時戦争状態にあった武田家について、内部での変化(勝頼の甲府入りと武田復姓)を知り得なかったと考えれば説明がつきます。
また、ここでの指揮官三人は並立する形で記されており、勝頼の立場が一段高かったような様子はうかがえません。当時の勝頼の立場は、あくまで御一門衆の有力者に留まっていたこともうかがえます。
黒田基樹氏の提言
勝頼の甲府入り・武田復姓について、別角度から重要な指摘をしたのが黒田基樹氏でした。黒田氏は、『信玄の妻、三条殿』において、高野山成慶院の過去帳を活用することで、勝頼の居住地を割り出すことができることに注目しました。以下に『信州日牌帳』の記述を引用します。
信州高遠諏方四郎殿御前様ノ御為ニ元亀二年九月十六日御死去
龍勝寺殿花萼春栄禅定尼灵
元亀二年<辛未>十一月廿六日 <稲村清右衛門尉富沢平三>登山之時御立候
勝頼の妻・龍勝寺殿(織田信長養女、苗木遠山氏出身)が元亀二年(1571)九月十六日に死去し、同年十一月二十六日に稲村清右衛門尉・富沢平三が高野山に赴いて供養を行ったとあります。そして、龍勝寺殿は「信州高遠諏方四郎殿」の「御前様」だと述べられているのです。つまり、勝頼は元亀二年十一月の時点でも、未だに「諏方勝頼」だったのです。これにより、「元亀元年四月以前説」は間違っていたことが分かりました。
もっとも、丸島氏の考察のうち、「勝頼は条目が出された時点で家督候補だった」という指摘自体は妥当です。しかし、それはあくまで信玄がそのような構想を持っていたことを示すに過ぎず、実際に甲府入りしたタイミング&武田苗字に戻ったタイミングとは一致しないということのようです。
さらに、先述の山角康定の書状に出た「伊奈四郎」についての解釈も変わります。北条家の持っていた認識は、古い情報だったわけではなく、元亀元年八月の勝頼は実際に「伊那の諏方勝頼」だったのです。
丸島和洋氏の自説訂正とさらなる再検討
丸島和洋氏の説に対し、新たな見方を提示したのは丸島和洋氏でした(己との戦い)。丸島氏は、『戦国大名の外交』の中の「補論一 武田・徳川同盟の成立と決裂」で、武田家と徳川家の関係について再検討を加えました。その際、先述の一色藤長宛条目(『戦武』1535)の年次比定を、元亀元年から元亀二年に改めているのです。
丸島氏が注目したのは五条目で、信玄は「越(越後山内上杉謙信)・相(北条氏康)」が義昭御前で妨害をしているとして、分別を求めています。この書きぶりは、甲越和与(武田家と上杉家の和睦。永禄十二年七月から翌年七月まで継続していた)が有効だった時期(元亀元年四月)のものとは考え難いです。
もちろん、丸島氏の考察のうち、「義昭との交渉失敗要因」についてはそのまま使えますので、出来事の順序だけが入れ替わります。
丸島氏の「武田勝頼の家督相続と宿老たち」では先述の黒田氏の指摘も踏まえ、集大成的な説明がなされています。現状の到達点としては、
信玄は元亀二年四月の段階で、勝頼を新たな後継者に据える構想を持っていた。そのため、将軍・足利義昭に偏諱授与と官途吹挙を要請した。しかし、義昭との交渉に失敗した結果、勝頼は「将軍お墨付きの後継者」という立場を得ることができなかった。そのため、勝頼の甲府入り・武田復姓は十二月まで遅れた
という感じになります。研究が進んだ結果、悲しい話が明らかになってしまいました。
三行で分かるまとめ
諏方勝頼は武田信玄と別妻・乾福寺殿の子であり、高遠領を支配する高遠諏方家の当主であり、武田家の御一門衆(信玄の「次男」)だった。
「義信事件」の後、信玄が勝頼を自身の後継者として位置づけたことが確実に確認されるのは、元亀二年(1571)四月のこと。
勝頼が実際に甲府入り・武田復姓を果たしたのは、元亀二年十一月~十二月の間。将軍足利義昭との交渉に失敗したことが背景にあったか。
主要参考文献
【資料集】
酒井憲二編『甲陽軍鑑大成』本文篇上下(汲古書院、1994)
柴辻俊六他編『戦国遺文 武田氏編』1~6(東京堂出版、2002~2006)
下山治久他編『戦国遺文 後北条氏編』1~6(東京堂出版、1989~1995)
丸島和洋「高野山成慶院『信濃国供養帳』(一)—『信州日牌帳』—」(『信濃』第61巻第12号、2009)
【書籍・論文】
久野雅司「織田信長と足利義昭の政治・軍事的関係—永禄十三年正月二十三日付け『五ヶ条の条書』の検討を中心として—」(『東洋大学人間科学総合研究所紀要』第22号、2020)
黒田基樹『戦国「おんな家長」の群像』(笠間書院、2021)
同『信玄の妻、三条殿』(東京堂出版、2022)
福田千鶴『淀殿』(ミネルヴァ書房、2007)
丸島和洋『武田勝頼』(平凡社、2017)
同『戦国大名の外交』(講談社学術文庫、2025)
同「武田勝頼の家督相続と宿老たち」 (『特別展武田勝頼』山梨県立博物館展示図録、2025)
見出し画像は甲府市観光情報公式ホームページの電子観光パンフレットから引用(https://www.city.kofu.yamanashi.jp/kanko/release/digitalbook.html)
閲覧日2026年6月10日
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