甲斐武田家には「御一門衆」と「親類衆」が別にいるぜ!
大名家の一族の呼び方
戦国大名にもいろいろいますが、当主の弟・甥・叔父といった近親、はたまたもっと昔に分かれた庶流家といった大名家の一族を指す用語も、大名家によって違いがあります(史料用語の面でも、学術用語の面でも)。
甲斐武田家の場合、かつてはそのような人々は「御親類衆」として定義されてきました。これは『甲陽軍鑑』巻八に掲載されている「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」(以下、「惣人数」と略記)に、「御親類衆」というグループが存在するためです。
「惣人数」は当時の武田家に属していた人々を、「○○衆」というグループ毎にまとめた名簿のようなものです。小林計一郎氏の検討によって、永禄十年(1567)から元亀三年(1572)頃の武田家の家臣団構成を、一定程度正確に反映したものであることが明らかにされています。小林氏は「用心しながら使えば、ある程度、正しい史料として利用できるのではなかろうか」と総括しています。
「惣人数」で「御親類衆」として挙げられているのは、以下の面々です。
武田信豊(信玄の弟・信繁の子で後継者)
武田信廉(信玄の弟)
諏方勝頼(信玄と別妻・乾福寺殿の子)
一条信龍(信玄の弟。一条氏は甲斐源氏一族)
武田信実(信玄の弟)
武田信堯(信玄の弟・信友の子)
仁科盛信(信玄と妾・香林院殿の子)
望月信永(信玄の弟・信繁の子。信豊の弟)
葛山信貞(信玄と妾・香林院殿の子。盛信の同母弟)
板垣信安(板垣氏は武田信義の子の代に分かれた武田庶流。信安自身は於曾氏の出身。於曾氏は甲斐源氏加賀美氏庶流とされる)
木曾義昌(信玄の娘婿)
穴山信君(信玄の姉の子かつ娘婿。穴山氏は武田信武の子の代に分かれた武田庶流)
一方、同時代史料においてはどうでしょうか。
古文書では「御一門衆」〔『戦国遺文武田氏編』2966号。以下『戦武』○○と略記〕や「一家衆」〔『戦武』360〕といった表現がみられ、当主の弟や嫡男以外の男子などといった近親の人々は、「一門」や「一家」と呼ばれていたと考えられています。「御一門衆」という言葉は、奥野高広氏が『人物叢書 武田信玄』(吉川弘文館、1959)の中で史料用語として着目し、その後に黒田基樹氏が「武田一門衆」(『別冊歴史読本』31巻21号、2006)で改めて定義しました。現在ではこれらを踏まえ、当主近親を指す学術用語として「御一門衆」が使われています。
そうなると、「惣人数」の「御親類衆」も、「一家衆」のように呼び方が違うだけで、「御一門衆」と同様に当主近親の集団を指すのではないか?と思えます。しかし、それは違うようです。
『武田氏研究』第50号で紹介された信玄書状では、武田信繁が指揮下に置く存在として「親類・被官衆」が登場します。「親類(衆)」はただの被官とは区別されているものの、「御一門衆」の武田信繁よりも格下の存在であることが明らかになります。また、永禄年間末頃に成立したとみられる武田家の旗本陣立書〔『戦武』3972〕では、信玄の周囲を固める部隊として「親類衆卅騎計」がみえます。そこで挙げられているのは、今井肥前守・下条民部少輔・栗原伊豆・栗原大学・桜井与三(信忠か)・大井将監といった面々です。桜井信忠以外は、武田信武(室町幕府における甲斐守護武田家としては初代に相当)から武田信縄(信虎の父・信玄の祖父)までの間に分出した、武田家の庶流家の人々です。
これらのことから、武田家の一族は「御一門衆」と「親類衆」に明確に分けられていたことが分かりました。それぞれの特徴を、箇条書きでまとめると以下のような感じになります。
「御一門衆」
信虎世代以降に分かれた武田一族の家と、分かれたのは信虎世代より前だが家格が高い家によって構成される。
「惣人数」の「御親類衆」のうち、武田信豊・武田信廉・諏方勝頼・一条信龍・武田信実・武田信堯・仁科盛信・望月信永・葛山信貞・穴山信君が該当する。
京都から下向してきた奉公衆武田家の武田尚信・信喬(尚信の子)・彦五郎(信喬の孫か)や、若狭武田家の信由・義貞(いずれも武田義統の弟)といった人々も加わる。
養子に入った場合を除き「武田」苗字を称する。
穴山信君やその父信友は、実際には「武田」を称している。当時から尊称として「穴山殿」と呼ばれることもあったが、あくまで異称。
甲斐国勝沼に屋敷を構えた武田信友(信虎の弟)は、「勝沼殿」と呼ばれることもあったが、あくまで異称。
甲斐国川窪に所領を有した武田信実(信玄の弟)は、「河窪」の異称で呼ばれることもあった。実際に「河窪」苗字を称したのは子の信俊。
諏方勝頼・仁科盛信・望月信永・葛山信貞は、信濃や駿河の先方衆(大名家の譜代家臣ではない、新規占領地で従属した国衆や他大名旧臣のこと)の養子となったため、苗字が異なる。
外交では高い家格を活かし「取次」を務める(次節で解説)。
武田本宗家の支配地域の内政には、基本的に関与しない。
「親類衆」
主に信縄世代以前に分かれた武田一族の家によって構成される
有名どころでは油川・岩手・大井・栗原・今井・吉田・下条・下曾禰・武藤・加津野が該当する。
例外として桜井信忠がいる。信忠は信虎の妹の子にあたり〔『武田源氏一流系図』〕、特例で親類衆待遇を受けたと想定される。
武田信武よりも前に分かれた武田氏庶流(板垣、甘利、駒井など)は含まれない。
「武田」苗字は称さない。使用を禁止されたと考えられている。
武田本宗家の支配領域の内政に奉行人として関与し、譜代家臣としての待遇を受ける。
「惣人数」ではまとまった括りでは記されず、「御譜代家老衆」や「公事奉行衆」などの役割ごとに散らばっている。
また、ここまでに名前の挙がっていない「御親類衆」として板垣信安と木曾義昌がいます。
板垣信安は、「親類衆」待遇を受けていた可能性があるようです。しかし、板垣も於曾も信武以降信縄以前に分かれた氏族ではないため、その理由は不明です。
木曾義昌は、信玄の娘婿であり、厚遇されてはいるものの、御一門衆や親類衆としての活動をしている様子はないようです。個人的には「VIP待遇の信濃先方衆」というような位置づけでよいと思います。
取次と小取次
甲斐武田家の外交は御一門衆・宿老と当主側近が組み合わさって外交の取次(外交官)を務める体制が基本的でした。例えば、永禄期の三河徳川家との外交は御一門衆・穴山信君と側近・山県昌景が、天正期の常陸佐竹家との外交は御一門衆・武田信豊と側近・跡部勝資が担当しています。また、領国が近い大名との外交の場合、境目の城の城代が外交を補佐することもありました。こちらの「武田信玄に信頼された側近・跡部勝資~書状から見る外交手腕~」で紹介した、上杉家との外交における箕輪城代内藤昌秀がそれにあたります。
また、丸島氏は取次のうち一門・宿老格のそれを単に「取次」、側近格のそれを「小取次」と呼称しています。これは、取次を務める家臣の立場の違いを明示しており、倣うべき呼称だと思います。先程の例でいえば、穴山信君・武田信豊が「取次」、山県昌景・跡部勝資が「小取次」に相当します。境目の城代が地理的関係から外交のサポートをするのに対し、「取次」「小取次」は地理的繋がりがなくても選ばれるのが特徴です。
「取次」「小取次」の両者では、「小取次」の方が外交の細かい部分を担っていたようです。彼らは当主の考えを把握できる側近ですから、当然と言えば当然です。
それでは、なぜ「取次」が必要になるのか。丸島氏は①当主の意思と家中の意思が合致しているという強力な裏付けができるため、②格の高い家臣を外交に参加させる儀礼的な必要性があるため、③外交交渉の安定性・継続性が確保できるため、ということを指摘しています。
①②については分かりやすいと思いますが、③についてはちょっとわかりにくいので、具体例を紹介します。先述の徳川氏との外交での「小取次」であった山県昌景は、永禄十二年(1569)十二月以降、駿河の城郭で活動するようになり、側近としての活動をすることが難しくなっていました。このような状況下でも、もう一方の外交官である穴山信君がいることで、外交交渉の連続性を担保できていたのです。ちなみに、新たな「小取次」としては土屋昌続が起用されています。
御一門衆・穴山家と準御一門衆・郡内小山田家
最後に、複雑な事情を抱えた家、穴山家と郡内小山田家を紹介します。両家は、甲斐武田家から独立した領域支配を展開する「国衆」でした。穴山家は、甲斐国巨摩・八代両郡の南部地域からなる「河内領」の、小山田家は、甲斐国東部の都留郡からなる「郡内領」を支配する、小規模な戦国大名といえる存在だったのです。
現代風に言うならば、戦国大名がアメリカ合衆国のような超大国であるのに対し、国衆はその軍事的保護を受ける日本や韓国などの国、ということになると思います。もちろんめちゃくちゃ極端な喩えです。
ちなみに、近世における甲斐国の地域区分は「九筋二領」といいます。「九筋」は甲斐国の山梨郡と八代・巨摩両郡の北部地域からなる国中地方の区分です。言わずもがな、戦国時代においては、武田家の支配領域です。「二領」は河内領と郡内領を指します。つまり、武田・穴山・小山田三家のそれぞれの勢力の枠組みは、近世に受け継がれていると言えます。

先述のように、穴山家は武田苗字を称し、武田家御一門衆としての性格も持っていました。穴山信友・信君父子は活動において数々の大名との間の「取次」を務めています。特に信君の活動の幅は広く、室町幕府や大坂本願寺、越前朝倉家や阿波三好家といった諸勢力との「取次」を務めています。
穴山家は武田信武の息子の代に分かれた家なので、本来は親類衆のはずですが、国衆であったことや遠戚関係を持ったことで高い家格を得たものと思われます。穴山信友は武田信虎の娘で武田信玄の姉・南松院殿を妻に迎え、さらに二人の間に生まれた穴山信君も武田信玄の娘・見性院殿を妻に迎えています。これにより、御一門衆として遜色ない血の濃さを手に入れています。
さて、この立場がたいへんややこしいです。現代風に喩えるならば、日本の総理大臣が、アメリカの大統領のもとで国務長官も兼任しているような、複雑な状況にあります。
そして、小山田家も武田家の「御一門衆」的な性質を持っていました。小山田信有(三代)・信茂兄弟は穴山信君や武田信豊と同様に「取次」を担っており、安房里見家や越後上杉家との外交に関与しています。また、信有(初代)は信虎の妹を妻に迎えており、武田本宗家との遠戚関係もありました。小山田家歴代当主は武田苗字を称していませんが、「準御一門衆」といえる存在だったのです。
こうした複雑な立場なので、穴山家と小山田家の当主は「武田家御一門衆としての立場」と「国衆家の当主としての立場」という、二つの顔を同時に持つことになります。これは両家が武田家の本国たる甲斐の国衆であったことが多分に影響していると思われ(例えば信濃や駿河の先方衆なら武田家中枢の仕事は任されない)、このような存在は「本国内国衆」と定義されています。
私見ですが、単純計算で仕事量と責任が二倍になるのだから、有り体に言って貧乏くじというか、クソみたいなポジションではないかと思います。
さらにいえば、穴山信君はより複雑な立場になります。天正三年(1575)五月二十一日の長篠の戦いで駿河江尻城代・山県昌景が戦死した後、後任の江尻城代を務めることになったのが信君でした。江尻城代には、駿河先方衆(三浦氏・朝比奈氏など)や遠江先方衆(天野氏・高天神小笠原氏など)の「指南」として、彼らを軍事的に保護・監督する役割がありました。
しかも、山県昌景が江尻城への赴任によって側近としての仕事(「小取次」など)から離れたのとは違い、穴山信君は御一門衆・国衆という立場に紐づいた仕事から離れることはできません。
結果として、穴山信君は御一門衆・国衆・城代の三つの顔を持つトリプルフェイスとなり、安室透みたいな肩書きになってしまいました。
ちなみに、『戦国武将列伝4 甲信編』で穴山氏三代の項目を担当した深沢修平氏は、興味深いことを述べています。穴山信友・信君には、親子揃って一次史料から確認できる「大酒飲み」のエピソードがあるのですが、深沢氏はこれを、彼らの責任の重さゆえの心労に由来するものではないか、と推測しているのです。何とも辛い話です。
もし戦国武将に転生する機会があったら、穴山家・小山田家の当主だけは絶対にやめておいた方がいいでしょう。
余談:他家における呼び方
冒頭で
大名家の一族を指す用語は大名家によって違いがあるんだぜ( ー`дー´)キリッ
とか言ってた私ですが、実を言うとそこまで詳しいわけではありません。駿河今川家の場合は同時代史料において庶流家(小鹿・瀬名・関口)が「一家衆」〔『為広駿州下向日記』〕とか「一家」〔『言継卿記』〕とか呼ばれていること、小田原北条家の場合は学術用語として「御一家衆」が用いられていること、織田弾正忠家の場合は『信長公記』で一門衆を指して「御連枝の御衆」が用いられていることを知っているくらいです。あと越前朝倉家の論文だと「同名衆」が使われてるのは知ってる(知ってるだけ)。
ここら辺、史料用語なのか学術用語なのかハッキリしていないままで使っている人も多いんじゃね?と思っていますし、その家ごとの事情がよくわかんない場合、「(一般論としての)一門衆」と呼んでお茶を濁しています。
もし「○○家の場合、この史料に基づいた一族の呼称にこんなのがあるよ!」あるいは「○○家の場合、これこれこういう理由で○○衆という学術用語が使われてるよ!」ということを知っている方がいれば教えていただけるとめっちゃ喜びます。
主要参考文献
【史料集・史料紹介】
酒井憲二編『甲陽軍鑑大成』本文篇上下(汲古書院、1994)
柴辻俊六他編『戦国遺文武田氏編』1~6(東京堂出版、2002~2006)
丸島和洋・平山優「新出の武田信繁宛信玄自筆書状について」(『武田氏研究』50号、2014)
【書籍・論文】
小林計一郎「甲陽軍鑑の武田家臣団編成表について—「武田法性院信玄公御代惣人数之事」の検討—」(柴辻俊六編『戦国大名論集 武田氏の研究』吉川弘文館、1984。初出1965)
柴辻俊六他編『武田氏家臣団人名辞典』(東京堂出版、2015)
平山優『穴山武田氏』(戎光祥出版、2011)
深沢修平「穴山信友・信君・勝千代」(平山優・花岡康隆編『戦国武将列伝4 甲信編』戎光祥出版、2024)
丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版、2011)
同『郡内小山田氏』(戎光祥出版、2013)
同『戦国大名武田氏の家臣団』(教育評論社、2016)
同「総論 武田家御一門衆と親類衆」(同編『武田信玄の子供たち』宮帯出版社、2022)
同『戦国大名の外交』(講談社学術文庫、2025)
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