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江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう 第九話:【恋】指先の距離、心の機微という贅沢

 江戸の空を、宵の明星が静かに見守っている。

 みなみ(中身は現代の公務員)は、長屋の共有スペースである小さな縁側に座り、隣に座る一人の女性――同じ長屋に住む、仕立て屋の娘・お類(おるい)の横顔を盗み見ていた。

 現代の新宿での「恋」は、あまりに効率化されすぎていた。
 みなみも、マッチングアプリの画面をフリックし、年齢、年収、趣味という「条件」で人を値踏みしたことがある。顔写真の右か左かで運命が仕分けられ、初めて会う日には、相手の背景のほとんどをデータとして知っている。メッセージのやり取りは即座に届き、返信が数時間遅れるだけで「脈がない」と焦燥感に駆られる。

 便利になったはずの恋は、いつの間にか「失敗したくないプロジェクト」のように、余裕のないものになっていた。

 (私たちは、相手を『知る』前に、答えを求めすぎていたんだ……)

 江戸の恋は、驚くほど「不自由」で、だからこそ「豊か」だった。
 お類との間に流れる空気には、沈黙を埋めるための無駄な言葉が必要ない。

 行灯の淡い光の下で、彼女が針を動かす小さな音だけが響く。
 江戸では、想いを伝える手段は限られている。手紙(文)を出し、返事を待ち、偶然の再会を願い、相手の歩き方や背中の表情から、その日の心根を察する。

 「作之助様。……何をそんなに、じっと見ていらっしゃるのですか?」

 お類が、針を止めて微かに微笑んだ。

 「あ、いや。……針運びが、見事だなと思って」

 みなみは作之助の低い声で答えた。現代なら「可愛いね」の一言で済ませる場面だ。しかし、この世界では「仕事の所作を愛でる」ことが、最上級の敬意であり、慕情の表現になる。

 「江戸の恋は、じれったいけれど、その分、心の中に相手が棲みつく時間が長いんだ……」



 一方、現代の新宿。
 作之助(中身はみなみ)は、金曜の夜の歌舞伎町、眩いネオンの下を歩いていた。
 街には「愛」を商品として売る看板が溢れ、行き交うカップルたちは、片手で相手の手を握りながら、もう片方の手で自分たちの写真をネットの海へ放流している。

 「……これほどまでに光に溢れておきながら、なぜ皆、これほど寂しげな眼をしておるのだ」

 作之助は、みなみの記憶にある「過去の恋」を探ってみた。
 何人かの恋人がいた。けれど、その思い出は「どこへ行った」「何を食べた」というイベントの記録ばかりで、相手の心の襞(ひだ)に触れた感覚が薄い。
 いつでも繋がれるという安心感が、皮肉にも、相手を深く想うための「切なさ」を削ぎ落としてしまっていた。

 作之助にとっての恋とは、もっと「静謐な覚悟」に近いものだった。
 江戸では、身分や家柄、あるいは遠く離れた任地という物理的な距離が、恋を阻む壁となる。だからこそ、相手の姿を一目見ただけで、あるいは一通の文を受け取っただけで、命が震えるほどの歓喜があった。

 「便利というものは、情緒を殺す毒にもなる。想いを瞬時に届ける術はあっても、その想いを育てる『待つ時間』を、この街の民は忘れてしまったのではないか」

 作之助は、みなみの指でスマホを閉じた。
 現代人が理想とする「スマートで傷つかない恋」。それは、江戸の人間から見れば、味のしない、魂の通わぬ「ままごと」のように見えた。



 江戸の夜、お類がふと、みなみの手に自分の手を重ねた。
 ほんの一瞬、指先が触れただけだ。現代なら、出会って数時間でそれ以上の接触があるかもしれない。

 けれど、この作之助の厚く硬い掌に、お類の柔らかく冷たい指先が触れた瞬間、みなみは全身の血が逆流するような衝撃を感じた。

 (たったこれだけのことで、こんなに世界が鮮やかになるなんて……)

 情報も、速度も、計算もない。
 ただ、この闇の中で、同じ呼吸をしているという事実。
 お類が口を開いた。

 「作之助様、私は……来年の春、またこの場所で、あなたと咲き始めた桜を愛でられたら、それだけで幸せに存じます」

 未来を誓うのではない。ただ、巡る季節の中に、当たり前に相手がいることを願う。

 それが、江戸の恋の極致だった。
 江戸の知恵とは、「伝わらない時間」を愛でること。
 言葉にできない想いを、季節の移ろいや、日々の所作に託すこと。

 それは、地球の資源を一切消費せず、ただ二人の心という密室で、無限に増幅していく至高の「娯楽」であり、生きる力そのものだった。

 「住みよさ」の定義。
 それは、誰かと瞬時に繋がれるネットワークの有無ではなく、たった一人の存在を、どれほど深い「静寂」の中で想えるか。
 みなみは、お類の指先の温もりを、一生の記憶として刻みつけるように、そっと握り返した。

 江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう。

 ここには、便利さという名の麻酔では決して味わえない、剥き出しの「愛おしさ」が満ちていた。

 江戸の闇は深く、しかし二人の距離を誰よりもやさしく縮めていた。
 みなみは、作之助の身体で、初めて本当の「恋」を知ったような気がした。

連載予定(目次)
第0話:プロローグ:時をかける清掃員
第一話:【ごみ】消えた「不要」の境界線
第二話:【食事】舌の上で解ける「命」の重み
第三話:【歩く】大地を噛む足跡、空を切る速度
第四話:【明かりと闇】深く、優しい「夜」の守り
第五話:【人との繋がり】お節介の体温と、孤独という名の自由
第六話:【冠婚葬祭】弔いと祝い、巡る命の「始末」
第七話:【娯楽】心の洗濯、受動と能動の境界
第八話:【夢】「成し遂げる」背中と、「積み上げる」足元
第九話:【恋】指先の距離、心の機微という贅沢
第十話:(最終話)【巡る】江戸の風が現代をなでるとき

次回、第十話(最終話)は「7月2日」に公開しました。

始まりの第0話はこちらです

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