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江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう 第十話:【最終話】江戸の風が現代をなでるとき

 江戸の空が、夜明け前の深い群青色に染まっている。

 みなみ(中身は現代の公務員)は、作之助の身体で縁側に立ち、清廉な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
 昨夜から心臓を早鐘が打つたび、江戸も最後になるかもしれないという気配を感じていた。

 この数ヶ月、彼女は「不便」という名の豊かさの中にいた。
 ごみが価値を持ち、食事が命の対話であり、歩くことが世界を知る手段だった場所。

 江戸が現代より劣っているなんて、一体誰が決めたのだろうか。
 効率や速度、数値化できる便利さだけを物差しにするから、私たちはこの時代の「住みよさ」を見落としてきた。

 江戸の人々は、地球を救おうなどという大義名分を掲げずとも、その慎ましい暮らしそのものが、完璧な円環を描いていた。それは「賢い生き方」の完成形だった。

 「作之助様……?」

 お類が、傍に来て不安そうに声をかけた。

「ああ。……お類、来年の春は、一緒に桜を見ようぞ、上野や川堤でも愛でよう……」

 みなみは、作之助の低い声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
 その瞬間、視界が激しく歪んだ。

 江戸の土の匂いが、消毒液とコピー機の熱気に上書きされていく。
 カチカチという火打石の音は、耳を刺すようなスマートフォンのアラーム音へと変わった。



 新宿のワンルームマンション。
 湊みなみは、跳ね起きるように目覚めた。頬には涙の跡があり、心臓が早鐘を打っている。

「夢……だったの?」

 見慣れた天井。枕元には充電ケーブルが這い、窓の外からは深夜の歌舞伎町の残響が聞こえる。
 あまりに鮮明だった江戸の記憶。作之助の逞しい身体の感覚。お類の指先の温もり。

 それらすべてが、脳が見せた壮大な幻影だったのではないかという不安が、彼女を襲った。


 一方、江戸の組屋敷。
 松村作之助は、板の間に転がったまま目を覚ました。

「……ここは……何が起こっておるのか……」

 彼は自分の手を見た。節くれ立った、日焼けした男の手。
 昨日まで触れていた、あの「光る板(スマホ)」も、一度使えば捨てられる「透明な器(ペットボトル)」も、すべては異界で見た白昼夢だったのか。

 作之助は、みなみの身体で感じた「無関心という名の孤独」と、それを補うための「過剰な光」を思い出し、深く溜息をついた。

 二人はそれぞれの場所で、失われた「片割れ」を求めて、自分の持ち物を確認した。

 すると、二人とも異変に気づいた。
 現代のみなみの掌には、あるはずのない「重み」があった。
 それは、江戸で毎日使っていた、鉄製の「火打金(ひうちがね)」だった。
 使い込まれ、角が丸くなった鋼の塊。彼女が江戸から持ち帰った、唯一の道具だ。
 それを指でなぞると、煤の匂いが微かに鼻を掠めた。

「夢じゃ……なかった」

 みなみは火打金を抱きしめた。
 便利を極めたこの新宿で、彼女はこの不自由な道具を使い続けるだろう。 
 火を育てる時間を、命を慈しむ時間を取り戻すために。

 江戸が劣っているのではない。現代の私たちが、あまりに多くの「豊かさ」を捨て去ってしまっただけなのだ。


 そして江戸の作之助。
 彼は、自らの懐に、妙に硬い感触があることに気づいた。
 取り出したのは、現代の新宿区役所でみなみが使っていた「ステンレス製の多機能ペン」だった。
 曇り一つない鋼の輝き。ノックすれば、瞬時に色が切り替わる。
 江戸のどの匠にも作れぬであろう、その精緻な「道具」を見つめ、作之助は苦笑した。

「……あの場所は、地獄などではなかった。ただ、民が『知恵』を使いすぎた果ての世界であったな」

 作之助は、そのペンを家宝として大切に仕舞うことにした。
 このペンのような「隙のない便利さ」に溺れず、しかしその技術を生み出した人々の想いだけは忘れないように。彼は再び、火を起こし、一歩ずつ大地を踏みしめて江戸を生きる決意をした。



 一週間後。
 新宿区役所の窓口に立つみなみの顔には、かつての澱んだ乳白色の陰りはなかった。

「ご不便をおかけしますが、これは未来への『始末』なんです」

 彼女は、怒鳴る市民に対しても、穏やかに、しかし凛として答えた。
 彼女のデスクの引き出しには、あの火打金が眠っている。

 江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう。
 少なくともみなみは知っている。

 江戸の空は、今の新宿よりもずっと高く、人々の心は、今のネットの海よりもずっと深く繋がっていたことを。

 みなみは、窓の外に広がる高層ビル群を見上げ、心の中で作之助に、そして江戸の町に感謝を捧げた。

 彼女はもう、便利さという名の不自由には屈しない。
 江戸の風をその胸に抱きながら、現代という「荒野」の中に、新しく、逞しい「住みよさ」を築いていく。

 ふっと、新宿の雑踏の中、江戸の風がみなみをなでるように、吹き抜けていった気がした。
  (完)




PART.1完結にあたって
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
皆様からスキやコメントを残していただいたり、マガジンに収録していただけたことがとても励みになりました。
改めて感謝を申し上げます。


                   2026.07 こんにゃくの木登り


次回PART.2について
 夢幻の江戸の生活から現代に戻ってきた湊みなみが本当の住みよさを取り戻すために、優しく熱い足掻きの物語が動きだします。

江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう 2 ( 足掻き編 )
第一話【始動】火打金の使い方 2026.07.10に公開しました。



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