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江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう 第0話プロローグ:時をかける清掃員

「あらすじ」
「便利になったはずなのに、どうしてこんなに息苦しいんだろう」
区役所で働く湊みなみは、日々押し寄せる「ごみ」と「効率」の波に溺れそうになっていました。
そんな彼女が、ある日突然、江戸時代の武士と入れ替わってしまったら—。
私たちはいつの間にか、指先一つで欲しいものが届く世界を「当たり前」だと思って生きています。けれど、その便利さと引き換えに、私たちは何か大切なものを、どこかに置き忘れてきてはいないでしょうか。
この物語は、江戸と現代、二つの時代を入れ替わりで生きることになった二人を通して、「本当の住みよさとは何か」を問う旅の記録です。
江戸が現代より劣っているなんて、一体、誰が決めたのでしょう。
慎ましやかでありながら、人にも地球にも優しかったあの時代の知恵を、取り戻せないか。そんな「足掻き」を全十一話の物語にしました。


 窓の外では、東京の空が低く垂れ込めている。 新宿区役所の窓口。午後三時の空気は、消毒液の匂いとコピー機の熱、そして人々の微かな苛立ちが混じり合い、粘り気のある乳白色に澱んでいた。

 「だからさ、分別が細かすぎるんだよ。プラスチックだの資源ごみだの、こっちは忙しいんだ。適当にまとめて持っていってくれればいいじゃないか」

 窓口に立つ中年男性の怒声が、アクリル板を越えて響く。
 環境清掃部で働く湊みなみ(みなと みなみ)は、訓練された無表情を崩さずに深く頭を下げた。

 「おっしゃる通り、お手間をおかけして申し訳ありません。ですが、持続可能な社会のために……」

 その言葉を口にした瞬間、みなみの心の中に冷めた隙間が広がる。
 持続可能(サステナブル)。職場の壁には「SDGs」のポスターが誇らしげに貼られ、十七のカラフルなバッジが上司の胸元で光っている。だが、その足元でみなみが行っているのは、膨大な書類の山と、解決の糸口も見えない「ごみ問題」の処理だ。
 便利を求めて、捨てられるために作られた製品が溢れ返り、それを捨てるためにさらにエネルギーを使い、管理するために膨大な規則を作る。

 (便利って、こんなに疲れることだったっけ)

 ふと、モニターに映る「ごみ排出量グラフ」を見つめながら思う。現代の「便利」とは、自分の生活の裏側を誰かに丸投げすることの別名ではないか。見えなくなった汚れの代償を、自分たちは今、書類とストレスで支払っている。

 その日の夕刻。みなみは地下の資料室にいた。
 古い区画整理の資料を整理している最中、書棚の奥に、埃を被った一冊の古い和綴じ本を見つける。それは江戸時代、この周辺がまだ武家屋敷と町屋が混在していた頃の、ある下級武士の「暮らしの記録」だった。
 頁をめくると、墨の跡も鮮やかに、日々の買い物の記録や、着物の繕い、肥溜めの取引に至るまで、細かく記されている。

 「……捨てないんだ」

 みなみは呟いた。
 紙屑の一片、灰の一つ、挙句には人間の排泄物までが価値を持ち、誰かの手に渡り、土に還っていく。そこには「ごみ」という言葉そのものが存在しないかのような、完璧な円環があった。
 その時、地下室の蛍光灯が激しく明滅した。窓のない地下室に、なぜか湿った土の匂いが立ち込める。雨の匂いだ。アスファルトに弾ける雨音ではない。茅葺の屋根を叩き、剥き出しの地面を深く濡らす、重く力強い雨の音。

 「え……?」

 みなみの足元がぐにゃりと歪んだ。視界が白濁し、コピー機の稼働音が、遠い雷鳴へと変わっていく。持っていたスマートフォンの冷たい金属の感触
が消え、代わりに、硬く節立った「柄(つか)」の感触が右手に宿った。

 ――。

 目が覚めた時、そこは乳白色のオフィスではなかった。
 薄暗い部屋。鼻を突くのは、深い煤すすの匂いと、青臭い畳の香り。
 みなみ――否、今のその体は、板の間に座っていた。肌を撫でるのは、ポリエステル製の制服ではなく、ざらりとした麻の感触。腰には二本の刀が重く横たわっている。

 「……作之助様。作之助様、お目覚めですか」

 障子の向こうから、野太いが穏やかな声がした。
 みなみはおそるおそる自分の手を見る。そこには、デスクワークで白くふやけた指先ではなく、竹を割ったような筋張った、左官職人のような日焼けした男の手があった。

 松村作之助(まつむら さくのすけ)

 それが、今の自分の名前らしい。
 彼は地方の藩から江戸へ勤めに出てきている、いわゆる「江戸詰め」の下級武士だった。みなみは混乱しながらも、開け放たれた縁側から外を見た。
 そこには、電柱も、コンクリートのビルも、ネオンサインもない。あるのは、雨に濡れて黒光りする木々の緑と、どこまでも深く、しかし明るい闇。

 静かだ。

 機械の音が一切しない世界。耳を澄ませば、遠くで誰かが薪を割る音と、雨樋を伝う水の音だけが聞こえる。
 みなみの胸に、不思議な感覚が去来した。恐怖よりも先に、肺の奥まで入り込む空気が、あまりに「おいしい」ことに驚いたのだ。
 ここには、SDGsのバッジはない。だが、みなみが書類の中で必死に追い求めていた「生き方」の正体が、この静まり返った闇の中に、確かな質量を持って存在しているような気がした。

 一方で、現代の新宿区役所。
 みなみのデスクに座った男――中身が「作之助」となった彼女は、光るモニターと、鳴り止まない電話の音、そして目の前の「透明な壁(アクリル板)」を前に、腰の刀がないことに戦慄し、腰を抜かしていた。
 「ここが、地獄か、あるいは天国か……。いずれにせよ、凄まじい業の深さよ」

 江戸と現代。
 二つの時代の「普通」が入れ替わることで、本当の「サスティナブルな生き方」を探す旅が、今、雨の音とともに始まった。

連載予定(目次)

  • 第一話:【ごみ】消えた「不要」の境界線

  • 第二話:【食事】舌の上で解ける「命」の重み

  • ...(中略)...

  • 第十話:【巡る】江戸の風が現代をなでるとき

次回、第一話は「5月8日」に公開しました。


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