第14回「金ヶ崎でどうする!」(復習)
【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月 徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日 「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日 「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月 「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月 松平家康、三河国を平定。
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月 織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日 掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月 徳川家康、上洛。
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の合戦」
元亀元年(1570年)9月 徳川家康、居城を岡崎城から浜松城へ移す。
元亀元年(1570年)9月16日~12月17日 「志賀の陣」

1.「金ヶ崎の退き口」
織田信長は、京都から出陣し、琵琶湖の西岸を北上し、敦賀へ。
さらに一乗谷へ侵攻し、朝倉義景を討とう(拉致軟禁されていた武田元明を救出しよう)とすると、「飛んで火にいる夏の虫」の如く、朝倉義景が出陣したので、好都合(一乗谷まで行く必要がなくなった)と喜んでいると、同盟者である妹婿・浅井長政も出陣した。共に朝倉義景を討とうとするが、浅井長政は裏切り、朝倉義景に与して織田信長を討とうとしていることが分かり、幕府軍(実質的には織田軍)は撤退した。この撤退戦を「金ヶ崎の退き口」といい、最も危険な殿(しんがり。最後尾)を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が務めたとされる。(実際に殿を務めたのは、摂津守護・池田勝正(軍勢3000)、明智光秀(鉄砲隊?)、木下藤吉郎(軍勢1200)であり、大将を務めたのは、当時の身分や兵数から考えて、池田勝正だと思われる。)
※浅井長政の裏切り:浅井長政に嫁いだ織田信長の妹・お市の方が、織田信長に、袋の両端を縛った「小豆袋」を陣中見舞いに送り、挟み撃ちの危機を伝えたという(『朝倉家記』)。実際、当時の政略結婚において、女性は、両家の仲を取り持つ外交官であり、間諜(スパイ)でもあったが、時代考証・小和田哲男氏は俗説として否定したので、『どうする家康』では、密書を入れ、両側を縫ったお手玉のような「小豆袋」は登場したが、使者・お市の侍女・阿月になった。(『走れメロス』を思い出させる激走でしたが、「10里=約40km」と表示されることにより、「マラソンと同じ距離!」と、「マラトンの戦い」も思い出しました。「マラトンの戦い」で、エウクレスだかフィリッピデスがマラトンの戦場からアテナイまで走り、「我ら勝てり」と告げて絶命したという話に合わせたのでしょう。)
このドラマの凄いところは、お市が「おひき候へ」と逃がしたかったのは、兄・織田信長ではなく、子供の頃に命を助けてくれた徳川家康だという点です。まぁ、徳川家康が主役だからでしょう。(子供時代の徳川家康とお市で、お手玉に関する伏線があるともっとよかった。)織田信長が主人公なら、織田信長が「でかした」と言って阿月の口に金平糖を入れるが、零れ落ちて絶命するって演出になるのかな?
あと、『麒麟がくる』では、織田信長に苦言を言えるのは明智光秀だけでしたが、このドラマでは徳川家康だけのようです。昨日、放送された実写版『東京リベンジャーズ』でも、織田信長のようなマイキー君(『青天を衝け』の主人公役・吉沢亮さん)の暴走を止められるのは、側近のドラケン君(本多忠勝役の山田裕貴さん)だけでしたね。
実際は、草(忍者)たちから次々と「浅井長政謀反」の情報が届くも織田信長は信じず、最終的に浅井長政の使者・小野木土佐守政秀が来て、信じざるを得なくなったという。
2.「金ヶ崎の退き口」の謎
徳川家康は、織田信長の上洛戦に際し、自身は三河国を離れられなかったが、同盟者であるので、松下信一に1000人つけて従軍させた。その後、上洛要請が来たので、3月に500名を引き連れて上洛した。
4月20日に京都から出陣した若狭国平定戦(武藤友益征伐)については、江戸幕府公式史書『徳川実紀』によれば、徳川家康は、1万余騎の兵を率いて参戦したとある。(後の「三方ヶ原の戦い」の時の徳川軍は8000人であるから、この時に1万人の徴兵は不可能であったろう。)
この織田軍(幕府軍)の総勢は3万人であった(『言継卿記』)。3万という数字は、朝倉&浅井連合軍2.5万よりも多く、逃げる必要は無かったと思われるが、3万のうち、織田軍(尾張&美濃&北伊勢衆)は1万で、他の2万は各国からの寄せ集めであった。この幕府軍を2つに分けて、朝倉軍と浅井軍に向かわせたら不利とみての退却であろう。
■「あほたわけ」という言い方(時代考証・平山優氏)
このことについては、以前にもコメントしたことがあったと思うし、俗説だということはかなり広まりつつあると思っていましたが。「たわけ」は、「戯ける」という動詞の連用形の名詞化した言葉で、「ばか、あほう、愚か者」など相手を罵る時に使用される言葉。室町中期の『節用集』(文明本)を始め、『日葡辞書』にも「タワケタモノ。または、tauaqe (タワケ)〈訳〉大変おろかなもの、馬鹿者」、『信長公記』首巻にも「去ては此比たわけを態御作り候よと、肝を消し、各々次第次第に斟酌仕候なり」とあり、戦国期の人間が使用していても、何ら問題がない。
問題なのは、「たわけ」を「田わけ」、すなわち財産たる田畑を分割相続し、零細化して没落することになることを愚かなことという意味で、これが「たわけ」の語源だとする主張が根強いことだ。しかも江戸幕府の分地制限令と関わっていると主張されてもいる。これは俗説でで、「戯け」と分割の田わけによる没落化を混同したもの。ただ、田畑の分割を「田わけ」と呼んでいる事例は確かに存在する。その言葉と、「戯け」とが同じ発音で、愚かなことという意味と合致していることから混同されたとみるべきだろう。かつて、史学科に入学したばかりの時、先輩がドラマや映画で、織田信長が「たわけ」という言葉を連呼しているが、あれは間違いだ。戦国にたわけという言葉は使われていないとアタクシに主張しておられた。へぇ、そうなんだと思ってたし、高校日本史でも教師がそういうエピソードを教えてた。でも史料をみるようになって、「え?違くね?」って思うようになった。最近はやっと俗説という認識が広まりつつあって喜ばしい。でも、今も学校の日本史では、これを教えている教員がいるようだ(何人か知ってる)。すぐにお止めになったほうがいい。生徒たちには「何かわからないことがあったら、すぐに辞書を引こうね。そうでないと、間違った知識のまま人生を送ることになるよ。わからないことは、恥ではないよ。調べて知識を更新することの方が大事だよ」とずっと言い聞かせていた。アタクシも、何か書く時は、必ず情報源の確認を怠らない。当たり前ですよ、プロはなおさらですから。皆さんも、よく調べてから批判してくださいね。
あとね、ドラマで「あほたわけ」(発音はあほたぁけ)と言っていることにも、かなり批判があるようですね。実は岡崎を始め、三河の皆さんは、こっちではあまり使わないなぁ、尾張の言い方だよねって言われています。もちろん承知してます。では岡崎などではどういうかといえば「くそたわけ」だって。さすがにこれはまずいでしょ?なので「あほたわけ」なのです。いろいろ事情があるのよ。
■越前がに
■朝倉義景
キャストが発表されていませんよね?
登場しないのか、あっと驚く特別ゲストが1カットのみの登場か?
★今後の『どうする家康』
・第15回「姉川でどうする!」(4/23) ※15分繰り下げ後8:15開始
・第16回「信玄を怒らせるな」(4/30)
・第17回「三方ヶ原合戦」(5/7)
・第18回「真・三方ヶ原合戦」(5/14)
・第19回「お手付きしてどうする!」(5/21)
・第20回「岡崎クーデター」(5/28)
・第21回「長篠を救え!」(6/4)
・第22回「設楽原の戦い」(6/11)
・第23回「瀬名、覚醒」(6/18)
・第24回「築山へ集え!」(6/25)
※ノベライズ3巻は6月、4巻は9月発行予定です。
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