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【Reco's 史観】結局「第一次越前朝倉攻め」とは何だったのか?

 織田軍1万は、永禄13年(1570年)4月20日、将軍・足利義昭の命で、幕府軍2万と共に、若狭国の内紛解決のために3万人を率いて、出陣したが、若狭国へ行ってみると、若狭国の内紛の根本的な解決には、一乗谷に軟禁されている若狭国守護・武田元明を解放することが必要であることが分かり、「第一次越前朝倉攻め」を行うことにした。
 織田&幕府軍3万は敦賀に陣取る。この時、朝倉軍1.5万と浅井軍1万が敦賀に向かっていることが分かった。織田&幕府軍3万は、この情報が伝わるや否や、撤退した。これを「藤吉郎金ヶ崎の退き口」(藤吉郎=殿(しんがり)の指揮を務めた豊臣秀吉。金ヶ崎=鐘を沈めた敦賀の岬。退き口=撤退戦)という。


■大河ドラマ『どうする家康』での織田信長と徳川家康との会話

徳川家康「金ヶ崎から退きましょう」
織田信長「我が義弟は義の男じゃ。二度と辱めるな」
徳川家康「義の男であるが故に、裏切るということもあろうかと」
織田信長「俺のやってる事には義が無いとでも言いたいのか?」
徳川家康「そのように考える者もおるのではと」
織田信長「俺は朝廷と将軍の為に戦っているんだぞ!」
徳川家康「お主を信じられん者もいる」
織田信長「お前も俺を信じぬのか?」
徳川家康「分からん。お前の心の内など分かるものか」

 戦国大名の仕事は、領地を守ることであり、隣国が攻めてきたら戦うが、隣国に攻め込むという「義の無い戦い」はしない。織田信長の「第一次越前朝倉攻め」について、織田信長は、「将軍・足利義昭の命令という大義名分があっての戦い」だというが、徳川家家臣・石川数正は「織田信長は将軍・足利義昭を操って天下を取ろうとしているのではないか?」と言い、織田信長の義弟・浅井長政は「織田信長は彼に反抗する気に入らない人間を討つ。私もいつ討たれるか分からない」と言っている。徳川家康は、「第一次越前朝倉攻め」について、織田信長は「将軍・足利義昭の命令という大義名分があっての戦い」をしているのか、「将軍・足利義昭の名を使っての天下統一のための義の無い戦い」(信長の野望)をしているのか、「人の心を読むことは出来ないので、織田信長の本心がどちらなのかは分からない」としている。


Q1:なぜ織田信長率いる幕府軍は、若狭国へ向かったのか?
Reco's A:将軍・足利義昭の命による。足利義昭は、「元亀」に改元したかったが、織田信長は反対した。そこで、織田信長を京都から遠く離し、改元を強行した。

Q2:なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか?
Reco's A:浅井長政は戦国大名ではなく、国衆なので、誰につこうか自由で、「裏切り」とは言えない(が、織田信長は「義弟(妹婿)の裏切り」と感じたであろう)。

Q3:なぜ浅井長政は朝倉義景についたのか?
Reco's A:学者は、朝倉義景の本拠地・一乗谷に浅井屋敷があることに注目し、「国衆・浅井長政が戦国大名・朝倉義景に従属していたから」とする。
 浅井長政の子というと、浅井三姉妹が注目されるが、伝承は4男3女、史実は2男3女であり、
・嫡男:万福丸(捕縛され、串刺しの刑で死去。享年10)
・次男:万寿丸(京極作庵。享年90)
もいた。万福丸は幼い頃に一乗谷の朝倉義景のもとに人質として過ごしたという(『当代記』)。一乗谷の浅井屋敷は、万福丸の人質屋敷であろう。

Q4:織田&幕府軍3万 vs 朝倉&浅井軍2.5万なら勝てたのではないか?
Reco's A:敦賀は北方以外の3方が山である。
・東:木ノ芽峠(←朝倉軍1.5万)
・西:旧・愛発関(→京都への退き口)
・南:湖東の北国街道(←浅井軍1万)、琵琶湖
・北:日本海(敦賀湾)
鎌倉と同じ地勢であり、負けないと思うが・・・軍勢を2つに分け、朝倉軍を天筒山城&金ヶ崎城、浅井軍を疋田城で迎え撃てばいいかと。
 織田&幕府軍3万のうち、織田軍は1万で、残り2万は寄せ集めの軍隊であって、烏合の衆である。織田軍にしても尾張衆、美濃衆、北伊勢衆の集合体で、尾張衆以外の新参者がどこまで信用できるか分からない。戦いながら長旅の烏合の衆3万と、近くから来た地形をよく知るフレッシュな2.5万。どちらが強い?(織田&幕府軍は、天筒山城に城番・池田勝正3000、金ヶ崎城に城番・木下秀吉700を入れ置くなど、分散配置されており、織田本隊は3万もいなかったであろう。)
──どこかで聞いたことがある話だぞ!?
そう、「桶狭間の戦い」である。織田信長は、自分が「桶狭間の戦い」における今川義元になるのではないかと不安に思って退却したのであろう。


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