大和王権の尾張攻略1
ようやく尾張の話で記事を書きます。前からずっと書きたかった話です!
以前の記事でも何度か触れていますが、尾張攻略は大和王権の倭国統一の中でも極めて重要なプロジェクトでありながら、記紀においてそれを匂わせない地味な書き方でスルーしようとしています。しかし、書かれている事実をつなぎ合わせていくと、尾張がいかに侮りがたい相手であったかというところが見て取れます。
今回は尾張タイトルの初回ということで、大和王権にとって尾張がどういう存在だったかについて、私の見立てをまとめます。なぜそう思うのか、というところは次回の記事でより詳しくまとめられればと思います。
尾張の存在感
尾張の断夫山古墳
尾張にも多数の古墳が残されています。下の図で見るように、大和の数に比べると数量としては譲るものの、大規模な古墳が複数建造されていて、注目に値します。

その中で有名なのが断夫山古墳です。


墳丘長150メートルのこの前方後円墳は、古墳時代後期の古墳の中でも屈指の規模とされています。その他にも、100メートル越えの古墳が複数存在し、この地域が相当の力を持っていたことが見て取れます。
この規模が他地域と比べていかほどか比較すると、300メートル超級の大王陵墓を擁する大和には流石に劣ります。その他、雄略天皇に潰される前の全盛期の吉備ですが、ここも300メートル超級で大和と同規模を誇ります。
しかしそれ以外、筑紫や毛野氏の上野など、次点の強国クラスに対しては、尾張の巨大古墳は十分に互角の規模といえます。そして、そういう規模の力を持つ豪族が鈴鹿山脈の天然の要害に守られて位置していることが重要です。
吉備や筑紫のような強国が、古墳時代において大和王権に屈服させられる中、尾張は無傷を維持し続けるのです。地形的に防衛に有利という要素が、尾張の強さのバックグラウンドにあるのは間違いないでしょう。
雄略天皇は触らない
どっかで見たような見出しですが(笑)。すみません、↓ はネタです!
既にがっつり触ってますね・・・
雄略天皇の生涯を概観すると、その事績は実に多岐にわたります。
瀬戸内で吉備氏を制圧し、劉宋(南北朝時代の南朝)に朝貢して安東大将軍・倭国王の称号を授かり、朝鮮半島では新羅と戦い、関東支配の楔を打ち込み(稲荷山古墳出土の鉄剣)・・・と、縦横無尽の活躍です。
しかし、このようにあちこちに事績を残す雄略天皇が、尾張に対しては何かを働きかけたという記録が残っていません。
もちろんですが、尾張についての記録がない、ということだけをもって、雄略天皇が尾張に手を出せなかったという話にすることはできません。
ただ、雄略天皇には尾張を触りたいというモチベーションはあったであろうと、私は考えています。
以前の記事で、雄略天皇が関東に接触を試みた動機は、養蚕の殖産と軍馬の調達だったのではないか、ということを論じました。
群馬県周辺地域は5世紀ごろより馬匹生産が本格化したとされています。騎馬兵を重視する雄略がこれに注目しただろうと考えられますが、実際にこの地から軍馬を大和に移送できたかという点については、・・・尾張を難なく通過できるなら可能だっただろうと考えています。
しかし、その尾張が問題で、本当に通過できたのか?というところに私は疑問を持っていまして、その点を上の記事で指摘しました。
動物の群れを扱う軍馬の組織的な移送は、間違いなく穀物輸送より大変です。成し遂げたなら記録に残されるべき史書の見せ場の一つになります。他方穀物の移送に関しては、宣化天皇治世時に行われた屯倉からの籾の組織的な移送(蘇我稲目が重要な役割を果たした)が、日本書紀にしっかり書かれています。
軍馬輸送も本当に行われていたなら記紀に書かれるか、稲荷山古墳の鉄剣のように、在地で考古学的発見のようなものが、確認されていてもおかしくありません。しかし、そういうのが発見されたという情報を私は知りません。(不勉強なだけかもですが)
そのため、かなり踏み込んだ推測ではありますが、雄略天皇は、必要を感じながらも、やらなかった(やれなかった)のではないか、ということを想像するのです。理由はとりもなおさず、勝算を見いだせなかったからだろうと考えるところです。
もっとも、この推論に関しては、今後の尾張地方の古墳の発掘調査などで、反証となるような遺品の出土があれば、簡単に覆るものではあります。(「ない」ことを論拠に何かを推測するのは非常に難しいです。)
三種の神器に見る尾張の特別扱い
三種の神器の起源は諸説ありますが、古墳時代から祭祀用の儀式宝物として【かがみ】【つるぎ】【まがたま】というセットは既にあったようです。その神話的背景を明確に整え、皇位継承の証としたのは7世紀の天武朝あたりからと考えられています。
三種の神器の鏡を伊勢神宮に、剣を熱田神宮に安置しています。位置関係を地図に落とすと以下のような感じです。

剣は、まさに尾張の地である熱田神宮。鏡の伊勢神宮は大和側から見た伊勢湾への玄関口で、海路で尾張に向かう際の出航拠点です。
大和朝廷の最重要神器が明らかに大和~尾張を意識した配置になっています。他の地域と異なり、従えるのではなく、三種の神器という枠組みでもって同列の位置付けで一体化しようとしています。
もっとも、時代は7世紀の天武天皇治世であり、これまで論じてきた5~6世紀の古墳時代とは異なる時代です。この時の尾張の位置づけは、壬申の乱で尾張の豪族が天武天皇に味方した功績も影響していることでしょう。
ただ、重要なのはすでに版図を拡大した後であるはずの7世紀においても、尾張に対してのこの気の遣いようであるという点です。そして、壬申の乱という天下を分けた古代史上最大級の内乱において、尾張を味方につけた天武軍が朝廷軍を撃破しているという事実です。
これが侮れない尾張の実力を物語っているといえるのではないでしょうか。
5~6世紀という大和王権が版図を拡大している最中の時代において、尾張の存在感は7世紀の時以上に脅威だっただろうと思われます。
次回に向けて
攻略の楔を打った継体天皇
この攻略しがたい尾張に手を付けたのが継体天皇でした。継体天皇は尾張攻略の先鞭として政略結婚という手段に出ています。
本記事は、大和王権の屯倉拡大を理解するというシリーズの一つとして執筆しています。大和王権の屯倉拡大は、継体天皇の次の安閑天皇の時代に急拡大しました。安閑2年に、懲罰的背景を伴わないで26という数の屯倉の新規設置がなされたことを以前に書きました。
そして、安閑天皇の次の宣化天皇の時代に、大々的な国防プロジェクトが実行されます。各地屯倉に納められた籾を筑紫の那津宮家(なつのみやけ)に集積するという事業です。
名目は緊迫する朝鮮半島情勢に備え、筑紫の守りを固めるためです。
しかし私は、全国的な国防プロジェクトの形をとりながら、その真の狙いは、尾張を何とかして大和王権の国家プロジェクトに巻き込むことだったのではないかと考えています。
この時の大和王権の政策には焦りのようなものが見て取れます。
異論を恐れずに冒険的に言ってしまえば、朝鮮半島の国防よりも重要なことがあった。国防を名目にしたこの一大事業を、何としても宣化天皇の命が尽きぬうちに完遂する必要があった。
そのあたりを次回の記事で深掘りしていこうと思います。
