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稲荷山鉄剣に見る大和王権の関東進出2

前回の記事で稲荷山古墳から出土した鉄剣の話をご紹介しました。

実はこの記事を書く前段で、次の話をどう組み立てるかかなり悩みました。というか、今も今後の記事をどう書くか絶賛悩み中です。

何が難しいって、雄略天皇の内容が濃すぎる件です。

上に紹介した記事では、稲荷山古墳から雄略天皇ゆかりの鉄剣が出土したからといって、その時代に大和王権が関東を支配していたということにはならない。という話を書きました。

その後、いろいろ調べまして、私の中では大和王権が関東を支配下に置くプロセスが(仮説として)かなり具体的にイメージできる所には来ました。

が・・・、

それを読んで分かるようにまとめるのが、すごく難しい。雄略天皇がいろいろやりすぎていて深掘りの方向がすぐ脱線しちゃうし、史実を紹介してなぜそうなったかを説明しようとすると、背景説明が芋づる式に膨大になってしまったりと・・・、気付くと「鉄剣」も「関東進出」も関係ない話になってしまい・・・みたいになってしまって、どこまで書くかのさじ加減が難しいんです。

いろいろ悩みましたが、3回4回と続くんじゃないかと思っていた本記事のタイトルは今回で一旦完結させます。話としては今後もつながるんですが、今のタイトルにある「鉄剣」から離れてしまうので。

屯倉のシリーズとしてはまだかなり長々と続く予定をしています。いずれ屯倉シリーズで、関連記事を順序だててリンクを貼った総集編をまとめたいです。

というわけで今回の記事は、稲荷山古墳から出土した鉄剣は何のために下賜されたのか、というところを情報を絞ってお届けする回にしようと思います。

今回の話は、確認される事実から考えられることを推測した話が中心です。筆者の仮説であり、事実であることが証明されたものではないことについてはご注意ください。

東国古墳群の盛衰

関東と駿河の古墳の傾向比較

稲荷山古墳の鉄剣下賜がなぜなされたのかをいろいろな角度から調べていて、注目すべきと感じたのが関東の古墳群です。これまで古墳時代のテーマでいくつも記事を書いている割に、私の記事では古墳そのものに触れることがあまりありませんでした。

私自身が別に考古学者でも何でもないので、専門知識を持ち合わせていないのが主な理由ですが、特に古墳に関しては・・・情報量が多すぎで、マジで取り扱い注意だなと思っています。

古墳研究は各地郷土史研究で分散的にされていて、俯瞰的な目で見るのが非常に難しいです。そんな中で奈良女子大学の古代学・聖地学研究センターが運営する全国古墳データベースというのは、画期的な取り組みだと思います。

古墳データをGISに落とし込み地図上で各地の古墳情報を見ることができる。ただ、まだまだ発展途上と思え、研究者の利用性を向上するためにもデータの網羅性と機能性をさらに充実させてほしいなとも思います。

データの網羅性という点では、見た感じ全国的にデータが作られているのは見て取れるものの、どうも全データで6799件のようです。いや多いですよ。すごい多い。しかし、全国の古墳は10万を超えるらしいので、そう考えるとこれでもまだ一桁%という状況といえます。どういう古墳データが充実していて、どういう古墳データは手薄なのか、データベースの現状を知りたいところです。

機能性という点では、今後CSV形式で登録データをダウンロードとかできるようになるとなおいいなと思うところです。

とはいえ、古代史の古墳研究のデータベースとしては画期的な取り組みだと思うので、今後の発展に期待です。国としてこういう取り組みにも研究費の予算をしっかり充ててほしいものです。(サイトの最終更新が2025年の3月末なのが気になってます。)

話を本題に戻します。古墳データベースから関東地域の古墳分布図を作成しました。ここでは関東平野の古墳群(赤円)と駿河湾沿いの古墳群(紫円)の大まかな傾向を比較します。

関東地域の古墳分布
(出典:古墳データベース をもとに加筆)

まず、古墳の多さで関東平野の豪族がいかに隆盛を誇っていたかが読み取れるかと思います。鉄剣が出土した稲荷山古墳もそういう古墳群の一つです。

大まかな傾向として、赤円の関東地方では5~6世紀にかけて連続的に前方後円墳が築かれました。大規模なものも多数あり、勢力の力強さが見て取れます。

一方、紫円の駿河地方は5世紀に前方後円墳が作られていましたが、6世紀前半のいくつかの事例(猿合1号古墳、徳願寺1号古墳など)を最後に前方後円墳は見られなくなり、以降は円墳中心になります。

5世紀後半というのは雄略天皇治世の時代(即位時期:456頃~479頃)です。関連があるかどうかは置いておいて、雄略天皇の時期にこの地域の古墳で確認できることとして、少なくとも以下の3点が言えます。

  • 5世紀後半に関東・駿河で前方後円墳が作られていた

  • 6世紀前半になると駿河は円墳にシフトしたのに対し、関東は依然として前方後円墳の建設が継続した

  • 古墳の規模、古墳数において関東の方が駿河よりも多い

因みに稲荷山古墳の鉄剣は辛亥年(471)に作成されたことが銘文に刻まれています。副葬された年代については、471年に作られてからこれが、関東地方に持ち込まれて関東の豪族に下賜された後にその豪族が死去した時と考えられるので、471年ではなく五世紀末期くらいだろうと推測されます。

前方後円墳であることの意味について

前方後円墳という古墳を作ることの意味については、考古学でもいろいろ考察がなされていますが、文書で残るものでもないので、当時の豪族が何を考えていたか、決定的な手掛かりがあるわけではありません。

ただ、畿内に非常に多数の前方後円墳があることや大王の陵墓とされる古墳が前方後円墳であることに鑑みて、概ね大和王権のネットワークに呼応する(大和王権が支配するとは言わない、そこまではいえない)地域が前方後円墳を建造したのではないかと解釈されています。

「呼応する」というのは私が勝手に用いた表現ですが、祭祀の考え方や様式を共通させたとか、何らかの政治的文化的な部分で大和王権と合意あるいは方向性を同じくする意思表示が示されていたのではないかという意味合いです。

前方後円墳をそういうものであると解釈すると、駿河地方の豪族は5世紀前半あたりから、大和王権との心理的距離感が遠のいた可能性が考えられます。

そして、勢力の発展という点では関東平野勢が駿河に比べて目に見えて凌駕したと考えられます。あくまで古墳の規模と数でみる限りの話です。

鉄剣下賜と古墳傾向からの考察(推論です)

私は、関東平野と駿河のコントラストと稲荷山古墳の鉄剣の時期のタイミングが概ね合っていることを重視しています。

雄略天皇の大和王権が関東豪族(最有力者は上毛野氏)と結びつき、結びついたことで関東豪族は発展した、ということがあったとは言えないでしょうか。

ここからもう一歩踏み込んだ考察をします。関東と駿河は箱根・富士山で隔てられているとはいえ、隣接した地域です。伝統的には両地域での交易などのやり取りはあったと考えられます。

雄略天皇は関東の豪族に対し、大和王権とのつながりを強くするように働きかけたのではないでしょうか。結果、地続きの関東・駿河のつながりは相対的に関東・大和王権のつながりよりも弱まり、駿河勢は割を食う図式になった。その結果が、駿河勢の前方後円墳⇒円墳という形で残された、という因果関係があったのではないでしょうか。

雄略天皇の富国強兵政策

関東豪族との取引の中身は?

じゃあ、つながりとは何かというところですが、私は軍馬がカギではないかと考えています。

関東の養蚕について

一般的に知られていることとして、群馬県は伝統的に養蚕・絹織物の盛んな地域です。特に江戸時代の桐生の絹織物が有名ですが、その起源ははるかに古いものです。

記録に残っているもっとも古いものとして、奈良時代(8世紀)において庸調の租税として群馬地域の絹が納められていることが確認されています。しかし、これはこの時期に養蚕・絹織物生産が始まったということではありません。既に生産体制ができていたことを示すものです。

絹織物は、稲作と比べてはるかに難易度の高い技術集約型の産業です。

桑畑→蚕種→飼育→繭→製糸→機織

という工程を経て、初めて製品ができます。そもそも桑畑というところからして普通ではありません。農地として食料を生産できる敷地を使って食料にならないものを時間と労力をかけて作るのです。

頑張って作物を育ててもそれで食べられるわけではない(厳密には桑の実は可食で栄養価も高いですが・・・主食にはならない)ものを作る判断というのは、簡単にできるものではありません。出口(それをやった結果得られるメリット)が見えなければできない判断です。

技術的にも産業として習熟するにはかなりの時間を要するもので、群馬地域の養蚕の始まりは古墳時代にさかのぼるのではないかというのが通説となっています。

関東の馬匹生産について

県名からして「群馬」県です。馬が群れを成す県です。実際この地域は古代より馬の飼育がなされてきたことが知られています。

高崎教育委員会で進められた郷土史の整理から、剣崎長瀞西遺跡等から出土した馬歯や馬具から5世紀中頃には群馬で馬が飼育されたこと、榛名山麓の多数の蹄跡から5世紀後半には本格的な馬匹生産が行われたこと、が有力視されています。

雄略天皇の事績との対応

非常に面白いと思うのが、絹・馬という関東の山麓地域の地場産業が、いずれも5~6世紀という雄略天皇の時代と重なる時期から始まっているという点です。そして、最初に見た関東・駿河の古墳の傾向と、明確に雄略天皇と関連付けられる稲荷山古墳の鉄剣も、時期的に整合します。

絹は財物の代表的な品(世界史的にもシルクロードで遠路を運ぶほどの価値を持つもの)であり、馬は軍事力の具体的資源の一つです。関東はその両方を地場産業に持ち、しかもそこに雄略天皇の手が伸びているということが見て取れます。

ここで、雄略天皇の事績の一部を整理しておきます。

養蚕・絹織物に関する雄略天皇の事績
騎兵・馬に関する有楽天皇の事績

タイミングがバチバチに合っているところが面白くないですか?

特に絹に関しては、472年(辛亥年のちょっと後!)あたりで、渡来技術者を取りまとめてどこかで養蚕を始めさせたことが記録されています。それに向けてしっかり準備期間があったことも記されており、国策として養蚕・絹織物業を殖産しようとしていた姿勢が見て取れます。

実は、どこで養蚕をさせたかの記録はありません。一つは西陣織で有名な京都西陣に相当する地域だったかもしれません。ですが、時期的に群馬地方も対象であった可能性が高いのではないかと私は考えています。様々な状況証拠がその推測を支持しているからです。

(年表には高句麗出兵とか猪名部真根事件とか気になるワードがありますが、そこに触れると論点が脱線するので今回は触れないことにします。)

雄略天皇がやろうとしていたこと

こうした一連の事象を総括してみて言えるのは、雄略天皇がかなり明確に富国強兵を志向し、具体的な行動に出ていた可能性が高いという点です。

ただし、強兵の部分については、軍事で騎兵を用兵できる体制を作ったとは考えられるものの、関東に向けて具体的な施策があったかはよく分かりません。雄略が奨励したのではなく、本当に地場で盛んになったものかもしれません。ただ富国策、絹については群馬をターゲットにして雄略が仕込んだ可能性がかなり高いと思います。

そして、養蚕関連で群馬という地域の情報を知ったなら、この地の馬匹生産に注目しないはずはなかっただろうとも思うわけです。

いずれにしても、関東地域は雄略天皇が企図した富国強兵政策を実現するうえで、極めて重要なポテンシャルを秘めた地域だったということができ、雄略自身がそれを認識してアクションした可能性が高いといえます。

稲荷山古墳に残る鉄剣の下賜とはそういう文脈で見るべきではないでしょうか。

当時、関東地方は大和王権とは別の自立勢力です。その豪族に対し、雄略が大和王権に協力することを求めた。

私と組めば養蚕の技術を教えてやろう。絹織物を造ればお前たちの地域が豊かになることを約束してやる。我らはそれができる力がある。これを見よ、刻印は中国大陸の最先端文化である漢字だ。我の配下に文を作らせ、つるぎに刻印させたものだ。大和は最先端の技術と文化を持っている。我と組んでともに豊かになろうではないか。

完全に私の想像ですが、あの鉄剣の背景にはこのような提案があったのではないでしょうか。稲荷山の古墳の一本でこの地域が動いたと思うのは行き過ぎですが、鉄は錆びるので、現存しないだけでこの地の主要豪族に鉄剣の下賜がなされた可能性は考えられます。であればこの地域の姿勢を変えうるものになります。

そして、関東の豪族は地続きで昔ながらの付き合い(駿河豪族)よりも大和王権と優先的に交流することを選び、そして期待通りに繁栄し、一方で駿河は、関東との交易で大和王権に劣後する形になったのではないでしょうか。

彼らの「やられた」という思いが、駿河地域の前方後円墳スタイルの放棄に現れているのではないかとも思えます。

雄略天皇ができなかったこと

もう一つ。多分、雄略天皇がやりたかったができなかったことがあると思っています。群馬地域からの軍馬の調達です。

前回の記事で書いた通り、関東へのアクセスルートは北陸周りではなかったかと私は考えています。その場合、馬は調達できなかっただろうと思います。三国峠があるからです。軍を編成できるようなまとまった頭数の馬を、三国峠を通過させるというのは、残念ながら現実的ではないと思えます。(もしかしたらできたかもしれません。)

じゃあ、やっぱり東海地方ルートを通ったのではないか。そういう考えもありえますが・・・。実際、多数の馬を関東から大和に連れてくるならそれしかありません。しかし、私はそれをやりたくてもできなかったのではないかと思っています。

尾張の通過が問題になると思えます。

多分ですが、当時の情勢では尾張を通過できなかったろうと思うのです。この話は後々の記事でじっくり論じたいところですが、大和王権にとって、尾張はそう簡単な相手ではなかったと考えられます。

遠くの関東よりも近くの尾張の方が思い通りにならない相手だった可能性があります。大和王権が日本列島を版図とする過程において、尾張の攻略はもう少し後のタイミングに見られます。それは非常に大々的なプロジェクトとして、慎重かつ戦略的に進められます。

その辺は、別タイトルの記事で数回にわたって書こうと思っていますが、少なくとも雄略天皇の時代には、まだ尾張は攻略できる段階にはなかったと考えられます。雄略天皇は群馬の馬に強い興味を持ったと考えられるものの、恐らくそれを自分のものにするには至らなかっただろうと思います。

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