大和王権の屯倉を地図に落としてみた2
今回も古代の屯倉の話を進めていきます。まず、前回の記事のリンクを貼っておきます。
ここでは、記紀に記載のある屯倉がどのくらいの数でどの辺にあったのかを地図にまとめてみました。その結果、北九州から関東にかけて広く分布しているということが分かりました。それこそ、学校の地理で習った太平洋ベルトのように東西直線的な分布です。

まあ、太平洋ベルトと直接関係があるわけはないんですが、港湾拠点に屯倉が置かれた事例が相当数あったため、同じく港湾拠点に工業集積した太平洋ベルトと分布が似たということだろうと分析しました。港湾拠点は波が穏やかでかつ船が座礁しないような水深のある海岸であることが必要です。港湾に求められるこのような地形的特徴は今も昔もそう変わるものではないので、分布に相通ずるものがあるのでしょう。
今回の記事では、年代で分けて屯倉がどのように拡大していったのか深掘りしていこうと思います。
継体天皇以前
継体天皇以前という括りはかなり大雑把で乱暴なのですが、継体・安閑天皇あたりが、屯倉制度が大きく動き始める時期と考えているので、あえてこのように仕分けます。
といっても垂仁天皇とか、前の方はもはや神話の時代の大王なのでその信憑性如何は距離感をおいて慎重に見るべきでしょう。一覧表にまとめてみたのが以下です。

屯倉を「定める」とか「設置」とかいった書き方のものは、そのタイミングで新設されたものと考えられますが、「賜与」というものは既に確保していた屯倉を皇族の誰かに与えるということなので、その屯倉が新設された時期はもっと以前だろう(どのくらい以前かは謎)ということになると思います。
通説に従い垂仁天皇を3〜4世紀の人物とみなすと、継体天皇以前というのは大体200年くらいの期間ということになります。ということで継体天皇以前の屯倉については200年前後の期間の中で13件設置されたということになります。
ただ、垂仁天皇のような初期の屯倉と、比較的時代が下る清寧天皇の時代の屯倉で、両者とも同列に「大和王権の直轄地」と捉えてよいものかといわれると、何とも言えません。その他、「御宅」と「屯倉」が同じかとか、気になるところですがその辺もここでは区別していません。もう一つ言うと、垂仁天皇とかの最初期の屯倉が、清寧天皇とかの時代まで維持できているかどうかも定かではありません。
なので、実質的に直轄領としての屯倉といえるものはもっと少ないかもしれません。
ということで信憑性については慎重であるべきですが、先の分布図からこれらのみ(赤い点のみ)を地図上に残すと下のようになります。

概ね大和・難波・播磨+淡路島という限定的な範囲になっていて、恐らくこれが初期大和王権の勢力範囲と一致するのではと思わせる結果でした。
継体天皇時代の屯倉
次に継体天皇の治世で追加された屯倉をピックアップしてみます。


継体8年の屯倉については「賜与」したものです。元々あった屯倉の所有者名義を変えたものなので新設ではありません。大和王権所有の屯倉を大和王権内の春日皇女という身内名義にしたというのは、結局大和王権所有ということなので、実質的に何も変えていない(新設ではない)といえると思います。なので、地図上には残しませんでした。
そうすると継体天皇治世で追加された屯倉は、糟屋屯倉の一件のみということになります。その一件も、磐井の乱(←この話はあとで詳しく論じたいですがここでは軽く流します)鎮圧後に、乱を起こした磐井氏から懲罰的に召し上げた屯倉なので、乱がなければ新設することもなかったものと整理できます。つまり、継体天皇治世で計画的に設置した屯倉は一つもなかったということになります。
安閑天皇時代の屯倉
継体天皇の後を継いで即位したのが安閑天皇です。継体天皇が相当に長寿(史実を信じるなら)だったため、安閑天皇になる皇太子(勾大兄皇子:まがりのおおえのみこ)は、即位時に既にかなりの老齢になっていました。安閑天皇は即位後わずか2年で崩御することになる大王です。
そうなると、大和王権の大王としてはあまり重要な人物とは言えないように思えますが、屯倉の展開史上は安閑天皇治世が極めて重要な節目です。安閑天皇治世の屯倉を地図上に残すと以下のようになります。黄色が元年、茶色が2年目です。


一目でその異様さが分かるかと思います。とにかく件数が圧倒的に多いです。内訳としては37件挙げていますが、安閑元年10月の4件は、「賜与」なので、以前からあった屯倉の名義変更の話として、地図上の点には含めていません。これらを除くと33件の屯倉新設ということになります。
約200年の間に設置されたとされる屯倉を全て(維持できていると仮定して)数え上げても14件なのに対して、安閑天皇のわずか2年の間に33件です。設置件数の異常な多さを感じますよね。
安閑元年の屯倉
その内容をもう少し詳しく見てみると、安閑元年の屯倉は全て懲罰的な召し上げという形の屯倉設置です。不手際や紛争が発生し、それらの事後処理の中で屯倉という形で領地の一部を大和王権が在地豪族から切り取ったといえます。懲罰的な屯倉設置は、大和王権の直轄領にする経緯が明確といえます。
特に元年の動きとしては、武蔵野国の紛争+夷隅豪族の失態という関東の5件がかなり目立ちます。大和王権の関東への影響力がこの時点でかなりあったということになるのは要注目です。
安閑二年の屯倉
37件の安閑朝の屯倉のうち、元年の11件を除いた残りの26件について。ここが最も異様な屯倉新設といえます。いずれも新設でありながら、紛争による懲罰的な屯倉設置ではなく、しかも26件という異様な数の多さです。
これがなぜできたのか?
なぜ、当地の豪族は大和王権による屯倉設置を許したのか?後々の公地公民で全国の領土国有化を豪族たちがなぜ認めたのか、を知る上で重要なヒントになるのではないかと思います。
その問題の核心は、次回以降の記事で深掘りしていこうと思いますが、安閑2年の屯倉の特徴としては、以下のことが言えそうです。
範囲が広域である(関東・中部・瀬戸内・九州)
緑野屯倉(上毛野)・春日部屯倉(火国)を除いて、全て港湾拠点
大和への新設は皆無
瀬戸内の屯倉設置の背景を考える
この材料から、いくつか考えられることがあるかと思います。
大和王権による瀬戸内物流の掌握(多分これを最重視)
関東支配の足場固め
これらは当時の大和王権の地方統治で最重要な政策テーマだったのだろうと思えます。後続の記事で深掘りしたいと思ってますが、瀬戸内物流は物資を北九州に集結させるために必要なネットワークです。これが、屯倉設置成立条件で私が仮定していた理由の一つである、外交対策に通じる論点と繋がります。
外交問題に関しては磐井の乱が関わってきます。朝鮮半島南岸の親交のあった加羅(伽耶)が、百済・新羅の圧力で衰退する中、大和王権は援軍を送ろうとしましたが、磐井の乱のためにできなかったという経緯があります。
つまり、朝鮮半島への援軍が成立せず、大和王権の望まない環境になりつつあったということで、北九州の防衛体制を強化する必要がありました。瀬戸内~北九州の屯倉設置は、この問題と関わっていると考えられます。
関東支配はどうとらえるべきか
屯倉の事を調べる前、当時の大和王権がこれほどまでに関東に影響力を持っていたことを私は知りませんでした。これは本当に驚きだったのですが、背景をいろいろ調べて、かなり面白い事実関係に気付き始めています。
少なくともこの話は、外交問題を背景とする瀬戸内の屯倉設置とは別の戦略軸にあると捉えるべきものです。これらの屯倉設置は関東の支配自体が目的といえます。そのため、懲罰的な設置が目立つのですが上毛野の緑野屯倉は別物であるところは注目しておくべきと思います。
関東支配に関しては、かなりドラマチックな仮説を構想していて、私はかなり面白いと思っているので、のちの記事でこのテーマだけ特出しで書こうと思います!
中部の屯倉の件
地図上では1点のみの尾張の屯倉に関してですが、私はこれは特別視すべきものと思っています。
以前に壬申の乱の記事を書きました。
これを書いていた当時の私は、古代史について把握できていないことが多すぎて、大和王権の東国支配は全然できていなかったという仮定でいろいろ論じてしまいました。
今回、屯倉を調べたことで、東国支配はできていなかったという仮定の中で、関東支配については認識を改めないといけないことを痛感しているところです。
ただね、尾張は別物だと今も思っています。関東が支配できても、だからといって尾張も同じように支配できていたということにはならないだろう、と私は思っています。
これも今後、独立のテーマで記事にまとめたいと思っていますが、大和王権の尾張に対しての気の遣い方は半端ではありません。そして、恐らく支配の維持も、というか支配という形を取れるようになる過程も、平坦ではなかった(=相当工夫した)と考えられます。
関東・尾張の問題は、雄略天皇・継体天皇が非常に複雑にかかわる話ではないかと思っています。どちらも古代日本史上、超級の英雄です。ここの話はめちゃくちゃ面白いと思うので、早く記事にしたいですね!
安閑天皇は凄かったのか?
屯倉を急拡大したのは安閑天皇治世です。ということは安閑天皇の手腕が非凡だったということなのでしょうか。
実は私はそうではないと思っています。私は、才気にあふれた英雄の場合と普通の人の場合で大王の事績には大きな差ができると思っています。そうすると安閑天皇の屯倉拡大は目覚ましい実績に思えますが、ちょっと踏みとどまって考えてみましょう。
老齢になるまで皇太子のまま過ごしたのが安閑天皇です。才気あふれる人物だった場合、若い時期に何の事績もなく、在位2年の間だけ目覚ましい実績があるというのは不自然ではないでしょうか。
なので私は、安閑天皇2年間の実績の下地部分は継体天皇によって地ならしされたものだったのではないかと推測しています。というわけで、私は継体天皇の足跡をより重視しています。
その他、屯倉関係の論点
もう一点、私の中で整理できていない問題が残っています。これも地図上では1点のみの話ですが、関東圏の屯倉の一つ、稚贄(わかにえ)屯倉(静岡県東部)というものです。
これは武蔵野国などの他の関東圏屯倉とひとくくりとすべきものではありません。稚贄屯倉と他の関東の屯倉は、富士山と箱根という天然の要害で隔てられています。別の勢力圏と思った方がいい。
正直、なぜここを屯倉にできたのかというところに関しては、今時点で私は理由を見いだせていません。かなり違和感を感じる屯倉です。
他の面白い論点がいっぱいあるので、そちらの記事を優先して書いていきますが、それらが一巡したらこの件も深掘りしていきたいと思っています。
