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大和王権の屯倉を地図に落としてみた1

今回屯倉制度というものを改めて深掘りしようと思い、継体天皇とのかかわりから話をしていこうと思います。この記事では継体天皇がかなりのウェートで登場する予定ですが、主題はあくまで屯倉制度、もう一つ広い概念として、古代の地方統治というところを論じたいと思っています。

継体天皇を主題にした記事は以前に4回に分けて以下で論じました。

ここでは、継体天皇の出自の問題を論じました。継体天皇といえば、こちらの論点が熱いですよね。継体天皇については、皇統の怪しさから、王朝交代があったのでは、という挑戦的な学説がありますが、私の記事では、まあ保守的に王朝交代はなかったであろうという見解を示しました。

一方で、継体天皇が即位後、大和に宮を設けるまでに約20年の歳月を要した理由について、地理的観点と物流ネットワークの観点で分析を行いました。この点は、通説とは異なる角度からの分析で、独自解釈になります。

ここでは、そういった継体天皇の事績や出自の問題からは、少し距離をおいて、6世紀後半に起こった屯倉制度の急拡大について、どのような経緯で実現したのか分析していこうと思います。

・・・うーん。これは伸びない気がする!

マニアックすぎる感が凄いんですけど。多分この記事は伸びないだろうなとは思うんですが・・・。しかも1,2回のシリーズで終わりそうにない長丁場になるんですが・・・。

どうしても書きたい!ので、かなり自己満足ですが邁進します。自覚してますが、今回のシリーズは輪をかけてゴリゴリのオタク記事になると思います。

屯倉とは?/なぜ屯倉制度を論じるのか?

屯倉(みやけ)とは、一言でいうと大和王権の直轄領の事です。氏姓制度の当時において、大和王権は豪族の連合体のような構造だったので、実は大和王権自体の領地というのはあまりありませんでした。少なくとも6世紀前半まではそういう状態でした。

はっきり言って知名度の低いテーマです。一般読者の興味をそそらなそうなマニアックなテーマをなぜここで記事にするかについては、前回の記事で思いを書いているので気になる方は以下のリンクを見てください。

要は、全国の豪族の土地を取り上げて大和王権のものにするとしたところで、土地と民を差し出す豪族側にとってはたまったものじゃない話で、そんな暴挙が通用するはずなくない?なぜできた?という疑問です。この疑問の答えを追いながら、最終的には公地公民はなぜ実現できたのか、というところに答えのイメージを作りたいと思ってます。

この無理が通りそうな状況とはどういう状況なのかをあれこれ考えた結果、いきなり豪族の土地を召し上げたわけではないのではないか。段階を踏んでいたのではないか。というところに思い至りました。そして注目するのが、公地公民制のはるか以前に始まっていた屯倉(大和王権の直轄地)制度で、6世紀後半にそれを急拡大させた出来事です。

ここでも、各地の豪族たちは自らの領土と民の一部を大和王権に差し出すことを認めていたのです。これがどうして可能だったのか、豪族はどう納得して大和王権に従ったのか、ここに公地公民成立のカギがあるのではないかというのが、屯倉制度深掘りのモチベーションです。

どこに屯倉があったか

屯倉のテーマの第1回ということで、今回はどこに屯倉があったのかというところを古事記・日本書紀を典拠としてまとめていくことにします。まずは、ざっくり地図に落とすとこんな感じになりました。

大和王権の屯倉分布

もっともらしく書いてますが、結構いい加減です。所在地の詳細が不明のものもたくさんあり、例えば「大阪市周辺」というレベルでしか比定されていないという解像度のものが多数です。同じような場所に複数が集中していて、図としては一点で表現せざるを得ないという事例も多数あります。

が、何となく雰囲気はこんな感じというのが伝われば十分かなというところです。

何か、中学の地理で習った太平洋ベルトかといいたくなるような直線的分布ですね!

実はあながちその見立ては間違っていないということは言えます。

おいおい、古代と現代が共通するわけないだろと思うでしょ?でも、工業地帯、工業地域というのは基本的に港湾拠点に集中しています。製品を輸出するのに物流面で有利だからです。

同じことは古代でも言えます!屯倉も港湾拠点を重視して設置しているものが多い。徴収した米は、必要に応じて輸送する必要があるからです。重量物の輸送は古代でも船を使います。そして、船舶技術の進歩で多少の変化はあるとはいえ、港湾に適した地形というのは、古代も現代も共通しています。

わたしも地図に落としてみてそう気づいたんですが、なかなか面白いですよね。

ただ、以上はあくまで粗い見立てで、細かく見てみるとすべてが港湾拠点にあるわけでもないというところは要注意だと思います。

あと、以外にも継体天皇在位時の屯倉設置というのは2ヶ所しかないという結果でした。しかし、その次の安閑天皇時代、在位は2年しかないのですが、その2年の間に実に30ヶ所という屯倉の新設がなされたとされています。

この異様なレベルの屯倉の拡大が、しかも九州から関東までの広範囲の拡大が、なぜできたのか。次回以降の記事で掘り下げていきたいと思います。

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