継体天皇・大和入り20年の背景を考える
古代史の継体天皇がらみでここまで3本記事を書いてきました。
このシリーズでは、継体天皇の出自の怪しさに注目し、実は王朝交代ではなかったか、次期天皇を迎えるのになぜ越前の人物が選ばれたのか、というところを考察しました。ここでの分析では、王朝交代ではないだろうという保守的な見解をした一方で、日本海と中央の物資輸送を握る物流王・継体という人物像の仮説を、傍証を交えて論じました。
物流のキーパーソンという人物像は継体天皇の通説とはかなり異なる見方です。もちろんこの推論を証明する決定的な証拠があるわけではないですが、そのように考えるといろいろな事象がうまく説明できそうだ、というのが私の考えです。
継体天皇は即位後も謎の多い行動をしています。すぐにヤマト王権の本拠地である大和に宮を構えず、周辺地での遷都を繰り返し、大和に入るのに約20年の歳月を費やしました。この記事では、継体政権での遷都の謎について、掘り下げていきます。
大和の豪族が継体天皇の大和入りを拒んだ?
大和の地、つまり奈良盆地は大和王権の伝統的な根拠地です。この時代の王権の根拠地はかなり頻繁に移転するため、常に大和地域に王宮があったわけではありませんが、それでも大和は有数の古墳集中地域であり、古墳時代の大和王権における代表的な根拠地であったというのは間違いないようです。
継体天皇の謎に関わる「いろいろな事象」の一つに、その大和入りに約20年をかけたという史実があります。出自の怪しい継体天皇が在地の豪族の反発を受けて大和に入れなかったという解釈が通説です。
日本書紀の記録に基づくと、正確には大和入りに19年かけたということになりますが、実際のところどうなのでしょうか。19年間天皇の大和入りを反対する勢力がいた?ということなのでしょうか。私は、何者かの抵抗を受け、19年もの歳月がかかるというのはさすがに不自然ではないかと考えています。そこまでの対立構造があるならば、例えば南北朝時代のようにその対立構造が明確に記録に現れてもおかしくないと思えるからです。
実際、3回行われた遷都というのがどのようなものだったのか具体的に見ていきましょう。
3回の遷都の軌跡
継体天皇の遷都は以下のような形で行われました。
507年:樟葉宮(くずはのみや:大阪府枚方市) ここで継体天皇即位
511年:筒城宮(つつきのみや:京都府京田辺市)遷都
518年:弟国宮(おとくにのみや:京都府長岡京市)遷都
526年:磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:奈良県桜井市)遷都
字だけではイメージがつきにくいので、地図上でも追ってみましょう。

地図上に落としてみてもいろいろとなぜ?がついて回る遷都に思えます。継体天皇の元々の拠点は近江三尾でした。そこからだんだん移動して大和に入ったのであれば順当な流れに思えますが、樟葉宮はその後の遷都に比べて本拠地から最も遠い地にあります。
なぜわざわざ遠くに遷都したのでしょうか?やはり豪族の抵抗にあい近づけなかったのでしょうか?
しかし、物流王のキャリアを持つ人物の行動という目線に立つならば、この立地に関して理由が見えてきます。
樟葉宮は淀川沿いの立地です。しかも畿内を流れる3つの川、桂川・宇治川・木津川の合流点で、そのまま下れば大阪湾から瀬戸内に出られる、水運の要所にあたります。
次の筒城宮は木津川沿い、弟国宮は桂川沿い、淀川に流れる三河川のうちの二つの流域沿いに位置しています。
遷都の立地から見ると、いずれの宮も水運を意識した立地にあるという点で共通しています。しかも、最初に下流の三河川の合流点を押さえることから始めている。恐らくは海の向こうの広域を意識した遷都が樟葉宮、筒城宮と弟国宮は支流域のローカルを意識した遷都と捉えることができるのではないでしょうか。
だったら、なぜ宇治川流域はないのか?
三河川のうちの二河川流域に宮を設けたというなら、残る一河川は?という発想に至る方もいるかと思います。でもよく見てください。宇治川は琵琶湖につながる川です。
近江三尾を拠点とする継体天皇が大阪湾まで通過する水運網を既に確立していたとしたら?宇治川水系は既に彼のホームグラウンドでわざわざ宮を設ける必要がなかったという見方もできます。
継体政権後の大和朝廷の統治体制の変化
継体天皇以前の大和王権と各地豪族の関係は、一応は大和王権を上に立てつつも、どちらかといえば同盟的な関係であったと考えられています。それが、継体政権以後、大和王権と各豪族との上下関係がはっきりとし、全体で「倭国」というまとまりが明確化されていったとみられます。
倭の五王:讃・珍・済・興・武の「武」である雄略天皇の時代、豪族と大和王権間の争いがいくつかあり、畿内の葛城氏や瀬戸内の吉備氏など当時の最有力豪族の粛清を行いました。当然これは大和王権の支配力を強めたとみることができますが、従わせるために武力が必要であった、つまり上下関係が明確化されていなかった証左であるともいえます。
雄略天皇は世代的に継体天皇の2代前(祖父の代)にあたります。継体天皇即位時はまだそういう統治状態を引き継いでいたと考えられます。まして、出自の怪しい継体天皇です。統治基盤を固めるのは政権運営上きわめて重要な課題です。
継体天皇以後、倭国の統治状態は大和王権を長とした主従関係が定着していきます。私は、それが19年をかけた継体天皇の政権運営の実績だったのではないかと考えています。
淀川沿いの支流合流点に最初の宮を置いたという点が、非常に鋭い選定眼だったと思えます。海の向こう(中国・四国・九州)と畿内の各支流域の豪族両方に目配りをして統治を行い、大和に入るにあたって、近隣地域に対してはさらに細やかに支流単位で統治を行い、全てを整えてから大和に入った。そうは考えられないでしょうか?
継体天皇が大和入りに19年の歳月がかかったのは豪族が反発したからではなく、統治基盤を固めるのに必要と継体天皇自らが判断し19年かけることを厭わなかった、私はそのように分析しています。その結果が大和王権を長とした統治秩序(以前もあったが漠然としていた)を作ったのではないかと考えています。
19年かけて何をしていたか?
しかし、19年という歳月はやはり長く感じます。いったい何をするとこういう時間がかかるのでしょうか。
恐らく統治基盤を固めるにあたっては、各豪族に対して大和王権に従うことを確認するというほかに、豪族間の序列の調整というものが非常に重要だったと考えられます。豪族は自分の領地の民を従えていますので、領地経営上、自身のメンツが立つかどうかは極めて重要です。
特に畿内では、大和王権の動きが伝わりやすいので、各豪族がより序列の機微を気にしたでしょう。樟葉宮での遠方豪族を含めた調整よりも、筒城宮や弟国宮での調整の方が時間がかかっているというのはそういうことではないかと思います。
そして、その序列や利権の調整をどういう形でやるかといえば、当時の政治は文字通りまつりごと(祭りごと・政)であったので、大和王権が執り行う祭祀を通じて一つ一つ確定させていったのではないかと推測します。それはどういうことかというと、例えば大嘗祭や新嘗祭のようなシーズンを伴う祭祀イベントに関し、参列する豪族の位置の順位付けだったり、奉納する米をどこのものにするかとか、その順番はどうするかとか、そういう極めて細かい実務作業の積み上げだったであろうと想像します。
そして、それらはいつも順調にまとまるとは限らず、まとまらなければ再度調整し次の祭祀イベントで、序列や権利関係の確定を行う(つまりは翌年持越し)、数ある豪族に対して、そういう気の遠くなるような調整ごとをやっていく。メールも郵便もない時代だから、交渉は常に面着が前提ですし、カレンダーもない時代だからタイミングを合わせて調整の会合を行うといっても、その場に人が揃うまでに現代人の想像以上に時間を要したことでしょう。
そういうことを考えると19年、という時間がかかってもおかしくなかったかなと思います。そのような忍耐を伴う着実な実務遂行とネゴシエーションの連続というものは、天皇という地位に即位したからといって誰にでもできるものとは思えません。継体天皇が物流王としての経験と実績を持つような人物だったから可能であった、といえないでしょうか。
継体天皇の事績は日本書紀に書かれたものです。通説では5世孫・越前出身・大和入りに19年という手がかりから、有力豪族から反発を受けた政権基盤の弱い天皇と読まれがちですが、王統の正当性を示すことが目的に編纂された日本書紀がそのような不利な要素をわざわざ書くのでしょうか。
継体天皇が本論で書いたような人物像であったとしたら、歴史的経緯が人々の記憶からまだ風化していない当時において、執筆者はむしろリスペクトを込めて継体天皇の事績を書き記したのではないかと想像します。
