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王朝交代?古代の継体天皇とは2

前の記事では、出自の怪しい継体天皇というテーマで記事を起こしました。実は皇族ではなかったのではないかというような物議をかもす話題です。

本記事では、その話の深掘りをしていきます。


王朝交代説の真偽

分かっている史実の整理

この時代の資料は基本的に日本書紀になります。継体天皇に関して、日本書紀で書かれていることの要点を整理すると以下のようになります。

  • 武烈天皇に後継者がいなかった

  • 大伴金村が男大迹王(をほどのおおきみ)を後継者として越前から迎えた

  • 男大迹王の拠点は越前三国と近江三尾

  • 即位してから大和に入るまでに約20年かかった

  • 20年の間に3回遷都した(樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮)

  • 大和に入って約1年度に磐井の乱という大規模な反乱があった

で、王朝交代はあったのか?

王朝交代説を主張する学派の根拠は、継体天皇が応神天皇の5世孫という、先代の武烈天皇に対してかなり遠縁な皇族であることと、大和に入るまでに20年近い歳月(正確には19年)を要しており、大和近辺の豪族の強い抵抗(≒戦争?)があった、というところにあります。

つまりは、長く激しい戦いの末、継体天皇率いる新氏族軍が、旧来の大和朝廷を滅ぼした、という主張です。ただ、直接的な先代王朝の滅亡が記録されているわけでも、そのような王朝交代が起こる戦争が記録されているわけでもありません

一方、王朝交代説を否定する学派の主張は概ね以下のような内容です。

20年近くがかかっているのは大和地方の豪族の抵抗があったと考えられるが、戦争ではない。同時代の豪族は継体天皇を皇族の一員として扱っている。継体政権の前後で、政治・文化面で大きな断絶がない。(古墳の建築様式、王権祭祀の様式などに目立った変化が見られない。)王朝交代が本当にあったなら、不連続的な変化があってしかるべきである。

こちらも状況証拠の積み上げであって、平和裏に皇位継承が行われたことを決定づける何かが確認できたわけではないです。

文献が限られる古代史で、確たる文献史料が揃わないことなど日常茶飯で、あとは発掘などの考古学的研究と状況証拠から傍証するしかないのが実情です。決定的な判定は難しいのが現状といえるでしょう。

そこから先は、どちらが確からしいかという観点で各自考察するしかないといえます。

で、そういう目線で分析するなら、私はやはり王朝交代はなかったと思います。大和に入るのに20年かかるとか不可解な要素は確かにあるんですが、だとしても、だから20年抗争していたというのは考えにくいです。天下を分けた明確な戦争である壬申の乱が1年で終わってます。20年も争っていたら戦場は別世界になっていると思います。それこそ、政治・文化の断絶は間違いなくあったでしょう。

ないなら、やはり戦争は起きていなかったと考えるべきところです。

でも、継体天皇の後続の末裔というのはでっち上げでは?という論は残るかもしれません。ただ、継体天皇が皇族であったか、なかったかは、王朝交代の是非を語る上では重要ではないです。なぜかというと、継体天皇は武烈天皇の妹を皇后に娶っているからです。継体天皇が皇族であってもなくても、血筋という意味では確実につながっています。

継体天皇の系図(出典:Wikipedia)

・・・がっかりされた方もいらっしゃるでしょうか。王朝交代、万世一系といわれた天皇の血筋が実は途中で途絶えていたという論はセンセーショナルです。保守的な結論につまらないと感じる方もいるかもしれません。

でも、そんなスキャンダル的な話がなくても、継体天皇は面白いですよ。根拠地がなぜ越前か、なぜ20年かけて大和に入ったのか。あたりを掘り下げると、継体天皇の知られざる人物像が見えてきます。結果的に、私はこちらの話の方がスキャンダルネタよりよほど面白かったです。

思った以上に記事が長くなってしまいましたので、今回はここまでにします。次回の記事で継体天皇の人物像に迫っていきたいと思います。

次回は、大体以下のような章立てを考えています。

  • 越前がなぜここで登場する?

  • 古代の越前とはどういう場所だったのか?

  • 男大迹王(継体天皇)活動拠点

  • 実業家の人物像

続編アップしましたのでリンク張ります。


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