磐井の乱から拾う古代日本史の手がかり
タイトルは刷新していますが、今回の記事も前回からの屯倉のテーマを引き継いでいます。が、メインテーマは古代の最大級の戦争の一つである磐井の乱です。
前回の屯倉の記事 ↓
磐井の乱については、以前に4回のシリーズで書いた継体天皇の記事の中で取り上げようと思いつつ、結果的にスルーしてしまったテーマでした。この時は、磐井の乱に触れずとも、継体天皇で書きたいことを書ききった!と思ってしまい、記事にするに至りませんでした。
今回、改めて記事にしようと思ったモチベーションは、大和王権が6世紀ごろに既にかなり関東圏に勢力を持っていたということを知ったところにあります。
・・・・・・?
いや、磐井の乱て筑紫の話だよね。関東関係ないよね。・・・て、思いますよね?私もそう思ってたんですが、ここが面白いところで、思わぬ形で地味に非常に面白い手がかりがあったりするんです!
というわけで、まずは普通に通説として知られている磐井の乱の一部始終を概観しつつ、いろいろな観点で考察していこうと思います。
磐井の乱の経緯
日本書紀によると、大和王権が加羅(伽耶)に出兵しようとした際、筑紫の磐井が新羅から賄賂を貰い、その意向に従って大和王権に抗い、軍を通さなかったので、時の大王(継体天皇)は大連の物部麁鹿火に討伐させた、というものです。
大まかな出来事を捉えるには上記くらいで十分なんですが、これだと結構大事なところを省略してしまっているので、補足をします。
加羅出兵の理由:新羅からの圧迫を受け、加羅は存亡の危機にまで追い詰められていた。倭国(大和王権というか日本列島の勢力という意味で「倭国」ということにします。)は、加羅と長年親交を持っていたので、援軍を送ろうとした。
磐井の抵抗の経緯:大和王権は加羅支援の援軍として、近江毛野氏を派遣し、筑紫を経由して軍を送ろうとしたが、磐井がこれを拒否した。そのため、大王は物部麁鹿火を送り込んで磐井を討伐した。
因みに古事記における磐井の乱は、日本書紀よりもかなり簡単な記述になっていますが、派兵したのは物部麁鹿火と大伴金村としています。二頭体制の大連を両方とも派兵しているということで、記述は完結ではありますが、戦火の過激度は実は古事記の方が上とも言えます。
本当に「乱」だったのか
磐井の「乱」というと反乱がおきたというふうに捉えられがちです。この乱のタイミングが、継体天皇が20年かけて大和に入った後すぐに起きたこともあり、これを理由に継体天皇の権力基盤の不安定さを論じるような説もあったりします。
が、私はその説に対しては距離をおいています。
他方、別の学説では、そもそも反乱なのかというところに疑義を唱える見解もあります。どういうことかというと、磐井が大和王権に臣従しているのであれば、大和王権の意向に逆らうのは反乱ですが、当時の磐井は大和王権に並ぶ勢力であって、必ずしも王権に臣従する関係ではなかったのではないか、という見解です。
磐井を独立した勢力としてみた場合、大和王権の加羅への派兵はどう映るでしょうか。
新羅の版図拡大攻勢は非常に優勢で、加羅の存続が危うい戦局は既に見えていました。
負けそうな加羅に援軍を送ったとして、新羅に勝てる公算があったとは限りません。(多分磐井は旗色の悪さを感じていたと思われ。)援軍を送って負けた場合、新羅にとって倭国は加羅の味方をした敵ということになります。
その場合、朝鮮半島情勢は非常に緊迫した状況になることが考えられます。で、そのリスクはだれが負うのでしょうか。いの一番に負うのは地理的に朝鮮半島に再近接している筑紫の磐井です。
大和王権の意向で発生する対外リスクを自分が丸被りすることになるとかとんでもない、という磐井の判断はとてもよく分かります。
日本書紀の言う「賄賂」に近いやり取りはあったかも
別の見方もあります。
賄賂問題は、日本書紀において大和王権に敵対した磐井を悪者に仕立て上げるために創作したストーリー、という見方が学説のスタンダードではありますが、フラットな目線で見た場合でも、磐井が新羅に便宜を図ったという図式は、実は成立しえます。
ただし、磐井が自身の勢力と朝鮮半島諸国との関係を、自分の判断で差配していたと仮定する場合です。
新羅からすると、ほぼ勝ち確になりかけている対加羅戦に関して、倭国に援軍を出されると厄介なのは間違いありません。しかし、倭国が一体ではなく、大和王権と筑紫の磐井は別の国で、大和王権が加羅の味方をしようとしているという状態であれば、新羅が磐井に対して「大和のいうことを聞かないでくれ、その代わり便宜は図るから」、という交渉をするのは自然な流れです。
磐井もこれを断って大和の見方をすると、将来加羅が滅んで新羅と隣国になった場合にリスクを負うのは自分なので、無碍にはできないということになります。
この両者のやり取りは、大和王権から見れば、「磐井が新羅から賄賂を受け取った」ということになります。
いずれも説も、磐井が独立した勢力なら十分ありえ、裏切りとか反乱では捉えられない話といえます。
というわけで筑紫の独立勢力(だった可能性もある)磐井氏は、この戦乱によって大和王権に敗北し、以後、筑紫の勢力は大和に服する関係になっていきます。その象徴的な施策が、糟屋屯倉の設置で、磐井の子である葛子が領地の一部を大和王権に献上して成立することになります。
全く異なる観点のヒント
ここまでの話とは別に、磐井の乱を調べていて私が大注目した点があります。実はここからの話の方が面白い。
近江毛野氏です。
誰だっけ?
・・・と、思う方がいても無理ありませんね。振り返りましょう。加羅に援軍を送ろうとして、磐井に通してもらえなかった人がいましたよね。それが近江毛野氏です。
登場のしかたが地味ですよね。ぶっちゃけ三下じゃないですか。大将の大連、物部麁鹿火が活躍する前に「助けてくれー」て感じのへっぽこな役回り(←言い過ぎ)で登場するだけなんで、何も知らないと気にも留めずに通過してしまいます。
多分ですが、近江毛野氏は大和王権というよりは継体天皇に仕えていた(つまり天皇即位前から仕えていた)氏族ではないかと思われます。
というのは、大連を動かす前に継体天皇が取った打ち手だったからです。継体天皇の拠点の一つが近江三尾という点もこの着想の支援材料になっています。恐らく近江毛野氏は、有力氏族との協議プロセスを経ずとも継体天皇が動かせる手ごまだったのではないかと想像しています。
で、この氏族を記載するのに近江毛野氏と、「近江」という地名を敢えてつけているのがミソです。実は、毛野氏というのは他にもいるんです。上野(こうずけ)・下野(しもつけ)に上毛野氏・下毛野氏というのがいました。それぞれ群馬・栃木辺りを拠点とする関東圏の豪族です。
近江毛野氏という呼び方は、その関東圏の毛野氏と区別するためにわざわざ地名をつけているということです。
関東とのつながりの有無
史学の通説的には、両者の毛野氏の血筋的なつながりという点について、確たる証拠がないという理由で慎重な姿勢を取っています。しかし、両毛野氏の古墳の構造に共通点があること、近江の神社に上毛野氏を祭神とする神社が複数存在することなどが確認されており、学説としても全くの無関係と断じることもできないものといえます。
私は、名前の一致と古墳・神社の共通点があることから、両氏族の祖先には何らかのつながりがあったと捉えるべきかなと考えています。
一度はスルーした磐井の乱を、ここで記事にするに踏み切った最大の理由は、実はこの毛野氏の事に触れたかったからです。
次回も含め、ここからは通説ではない私の推論の積み上げになりますが・・・!
ここから紡ぎ出される古代日本の有様は、継体天皇の大本の地盤である越前の重要性、そして、雄略天皇の関東への版図拡大につながる、マジで面白い話です。安閑天皇元年に屯倉が関東にできた話ともつながります。
次回の記事は全て独自解釈になりますが、極力立てた推論の理由を明確に挙げながら、大和王権の関東支配とそのカギを握る毛野氏の存在、という話を論じていこうと思います。
