日本人にとって「西洋哲学は価値ナシ」かどうか考える
なぜ哲学入門書は虚無なのか?
本屋さんに足を運べば、平積みされた新刊コーナーや文庫の棚などに、たくさんの「西洋哲学入門書」があります。
もともと人間が生きるのは苦しいものですから、いつも何がしかのヒントを求めています。きっと、哲学を学ぶことによって、答えにありつこうとする、その需要に応えているのではないでしょうか。
しかし、いざそれらの本を読んでみたとき、多くの人が直面するのは「なるほど、よくわからん」という感想ではないでしょうか。さらにいうならば、徒労感とか空しさを覚えるのではないでしょうか。
たいていの場合、そういった本に書かれているのは、古代ギリシャに始まり、中世の神学、近代の合理主義、そして現代思想へと至る、長い長い「西洋の哲学史」の要約です。
なんだかよくわからないのに、プラトンがイデアを唱え、デカルトが我を思い、カントが純粋理性を批判し、ヘーゲルが絶対精神を語る。
日本語の本を読んでいるはずなのに、ときどき、コギトエルゴスムとか、アプリオリとか、アウフヘーベンとか、謎の呪文がまぎれ込んできます。
この時の感覚というのは、まるで小学校の歴史の授業に近いと思うのです。テストのために年号や人物名を暗記させられるのと同じく、「点」は教えてくれるけれども「線」でつながることがないのです。
ただただ、「かつて、こういうことを言った偉い人がいた」という事実だけが提示されていく。
「なぜ、その人はそういう考えをする必要があったのか」とか、「どうして私たちはそれを覚えねばならないのか」が判然としないままに、です。これは苦行という他ないでしょう。
日本人が学ぶ時、それは「哲学史」となる
なぜ、哲学の入門書は、ほぼ例外なく歴史の教科書のような作りになってしまうのでしょうか。
私はこの問題を、著者が手を抜いているからとか、読み手の理解力が足りないからではない、と考えます。
根本的な理由は、私たちが日本人であり、かれら西洋の哲学者が立っていた「文脈」を、もともと共有していないからです。
西洋の哲学は、ユダヤ・キリスト教的な世界観や、国境を接する国同士の対立と相互影響の歴史、そして近代文明の先駆けであった土地といった、彼ら特有の事情のうえに成り立っています。
その事情を体感的に知らない私たちにとっては、誰か一人の哲学者の思想だけを切り取って「⚪︎⚪︎の理論によれば、△△と言える」などと借用しても、まったく意味がありません。
彼らの考えの意味をくみ取るためには、どうしても「それが生み出されるに至った歴史的背景」から説明せざるをえないのです。
だからこそ、私たちが西洋哲学を学ぼうとするとき、それは必然的に「哲学史」という名の歴史の教科書にならざるを得ないのも当然でありましょう。
そして当然、世界史を参照しながら、あちこち行ったり来たりしつつ、理解を深めていく過程が必要になります。
丸山眞男さんの「一階と二階」理論
この問題。すなわち「日本人が西洋思想を学ぶと、どうしても知識としての哲学史になってしまう」という構造について指摘したのが、政治学者の丸山眞男さんでした。
丸山さんは、このような日本における西洋哲学のとり巻く状況を「階段のない二階建ての家」にたとえました。
彼は大ざっぱに言って、このように嘆きました。
日本人の精神構造において、一階には古くからの土着の生活実感があり、二階には西洋から輸入された高度な思想や理論がある。
しかし、日本人には両者をつなぐ階段が存在しないため、二階の思想は一階の現実を何ら変えることができず、ただのファッション的な知識の羅列にしかならない
なるほど丸山さんの言う通り、私たちにとっての西洋哲学は、偉人の名前と専門用語を並べて賢くなったような気分になれる、便利なツールにすぎないのかもしれません。
そうだとするならば、それは単に見せびらかすための舶来のブランド品、つまりアクセサリーに他ならないでしょう。
私は、この構造を見抜いた丸山さんの慧眼には感服します。
しかし、彼の意見からは正直なところ、西洋中心主義に染まった知的階級としてのスノッブさも少々感じられます。
西洋的な文法に依拠して、“無知な人々“に文句を言っているように見えるからです。
「現状追認」の強さについて
日本人が理論を実践に移さず、なんとなく自分たちの日常に生き続ける人々だというのは、もしかしたら事実かもしれません。
しかし、だとしても、それは日本人の欠陥とまでは言えないと考えます。
むしろ私たちが、知的ゲームに驕ることなく、地に足をつけて生活している証左ではありませんか。外来のよくわからない前提の上で繰り広げられてきた、空理空論に染められることのない、生活者として健全な態度でしょう。
一方で、丸山さんが問題にしているのは、高度経済成長期で日本人の生活が豊かになっていくにつれ、与えられるものの快適さに甘んじて、二階の理論を「お上から与えられたもの」として思考停止のまま受け入れることでした。
公害とか、団地住まいとか、東京一極集中とか、地域コミュニティの希薄化などもそのうちに入ることでしょう。確かにそれは無批判に受け入れてはマズいものだったかもしれません。
しかしそもそも、人間にとって他者というものは根本的に制御不能ですし、ましてや他者の集まりである社会は、制御不能もいいところです。
私たちは、その現実を前にして、まずは徹底的に「現状追認」をするしかありません。
根本的に、ものごとの意味、文脈、物語など、世界を説明する何かは、すべて「後づけ」です。
人間は最初に理論があって動くのではなく、すでに喉元に迫ってきている、現実的な脅威のために動きます。だから人々が流されること自体は、不可抗力みたいなところがあります。
知的な人々は、そういった流れに理論を持って対抗しようとしますし、理論が無力だと認めたくありません。ですから、後づけで意味を与えて、人を動かそうとします。
その意味を与えることの呼び方は様々で、「教育」、「布教」、「洗脳」、「教導」、「啓蒙」、「オルグ」、「ナラティブ化」など多様です。
このように、呼び方を変えれば印象操作はできますが、本質的にはどれも、理論を現実に適用しようとする暴力性を伴っています。
現状追認を「思考停止」だと安易に批判することは、自分の持っている理論では理解できない現実があることや、操作できない他者がいることを、嘆いているにすぎません。
二階の理論にむりやり一階の現実を適合させようとする知者たちの姿は、このような視点から見れば、なぜこんな滑稽なことを大まじめに言っているのかと、不思議に思えるほどです。
もちろん、西洋哲学は低次元なことをやっているわけではなく、彼らなりの論理性、批判性、厳密性に基づいて、高度なやりとりをしているに違いありません。その土俵に分け入って、アカデミックな研究をされている方々は、さぞや大変かと思います。尊敬します。
しかしそれらは、彼らのゲームであって、私たちのではないのです。
彼らなりの高度さをリスペクトすることと、それはそれとして、「なんか滑稽だな」と思うことは両立します。それは、彼らの文脈、しきたりに、どのくらい恭順するかの違いでしかないのです。
日本人にとって西洋哲学は学ぶ価値がないのか?
では、そんな西洋哲学を、日本人が学ぶ意義はあるのでしょうか?私はもろもろ考えた上で、「ある」と判断しています。ただし条件つきです。
おそらく、その価値は「歴史を学ぶこと」そのものにあるのだと思います。
丸山さんの嘆きとは裏腹に、いっそ「哲学史」として割り切って学ぶことこそが、私たち日本人にとって最もフェアで、理にかなった付きあい方だと思うのです。
逆に、西洋哲学の思想を、私たちがそのまま実践しようとすることは、目指すべきではありません。二階の空理空論を、むりやり一階の現実に押し付けようとすれば、必ずどこかに無理が生じるものだからです。
現実を、特定の理論に当てはめてジャッジしようとする行為の本質は、どれほど印象操作しようとも、その本質は優生思想やポル・ポト主義がハマった愚かさと同根です。
そうではなく、私たちは西洋哲学を外部の民族の歴史としてとらえ、「彼らがなぜそんな思考回路に至ったのか」という、他者を相対化して理解するための教養とする目的でこそ、学ぶ価値があるものだと思います。
私は最近、ハンナ・アーレントさんとカール・ヤスパースさんという哲学者たちの紹介記事を書きました。
私が彼らを好ましいと思うのは、彼らの提唱した理論を実践に役立てたいからではないのです。
彼らの素性、経歴、人となり、そしてその時代の状況において、彼らがまやかしに屈することなく、人間らしく物事を見つめようとした、そのアプローチの真剣さに惹かれるのです。
これは、歴史的人物の生き様に美しさを見出すことに似た意味だと申せましょう。
たとえば、徳川家康が関ヶ原の後に何を背負っていたのか。薩長連合や江戸無血開城の裏側で、人々がどれほど真剣に時代を生きたのか。
そうした歴史上の「人」にフォーカスし、結果主義で裁くのではなく、人間の美しさを観測すること。
もちろん、彼らの考え方のプロセスに同意できる部分があれば、物事を考えるヒントとして借りるのもよいでしょう。「巨人の肩に立つ」ことができるのは、人類の財産です。
しかし、今は21世紀ですし、私たちは彼らのゲームに心底まで乗る必要はないことを忘れずにいましょう。
彼らの考えにいかに感心しようとも、それを借りればいいというものではありません。
自説の権威付けのために「カントがこう言った」「ウィトゲンシュタインによれば」「デリダが、ドゥルーズが」などと名前を出すことは、それこそファッションでしかありません。
それは「一生懸命、自分なりに考え続ける」という格闘を放棄して、右から左へ、便利ツールのように使ってショートカットしようとするに等しい振る舞いです。
「知性がある」と自認する人は、効率を重視するために、しばしばこのようなショートカットを用います。そのほうが早く成果が出せるし、文句も言われにくいからです。
しかしそれが、悲しいほどの空虚さを生み出していること忘れてはならないでしょう。
<本論了>
本論はここまで。
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