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ハンナ・アーレントという孤高のロックスター:西洋思想の呪縛から自力で脱出したひと

割引あり
ハンナ・アーレント(1906-1975)

ハンナ・アーレントほど魅力的で、しかしその思想をカテゴライズしづらく、誤解を受けやすい人は珍しいのではないでしょうか。
あこがれの人である彼女について、私は、「信じられないほど公正かつ破壊的なロックスター」という印象を抱いています。

今回はアーレントの魅力と、その扱いづらさについて思索してまいります。彼女や哲学ジャンルについて詳しくない方にも楽しんで頂けるようにしているつもりです。詳しい方はご笑覧ください。





ハンナ・アーレントは哲学者ではない


西洋哲学史は大体、その時々のトレンドによって、メインストリームが一本の線のようにつながっています。
いわゆる、「古代ギリシャに端を発し、デカルトを経てカントが出てきて、実存主義から構造主義、相対主義、ポストモダン…」みたいな、なんとなく用語としては聞いたことがあるような、その流れのことです。

これらの中身は非常に緻密で、論理と理性を重んじていて、学問的にこのコンテクストを守るのはものすごく大変だとは思うのです。
しかし、現代の日本に生きる私からすれば、あえて悪しざまに言うならば、「頭でっかちの論理ごっこで自縄自縛してばかりの、西洋的愚かさの系譜そのもの」みたいに言うこともできます。

どうも、プラトンとか、ユダヤ・キリスト教とか、そういった「普遍的真理が存在する」ことを前提とするカルトっぽい考え方が蔓延しているようで、一歩一歩、おっかなびっくり進んでいくその敬虔さは、とても私には理解不可能です。

しかもこの明らかに間違った前提を、疑うことすら許されない空気があったらしく、実質的な近世哲学の祖であるデカルトからして、「我思う、ゆえに我あり」を言った後は、神学論争に配慮してトーンダウンせざるをえなかったようです。(個人的にデカルトほどの人が、神とか普遍性に疑問を持てなかったとは思えないので、勝手な推測ですが)
間違った前提の上に、論理という「一貫性と厳密性」を持ち込んで、しかも互いに批判を繰り返すものですから、その不毛さたるや、想像を絶します。

これを打破したのは、「神は死んだ」でおなじみ、厨二病でガンギまっていた狂人ニーチェだということで、彼のファンは多いのです。かくいう私も好きですが、しかし私から見れば、彼は間違った前提を壊したのではなく、むしろそれに殉じた最後の犠牲者だと思うのですね。
「神は死んだけれども、それでも普遍性が必要だ」と求めた結果、人間にはおよそ無理なライフスタイルにたどり着いて、自分を壊してしまった人だという見方です。間違った前提の歪みを、マジメに捉えようとしたからこそ、長生きできなかった。むしろ犠牲者じゃないのかと。

このような西洋の呪縛が解かれるためには、西洋哲学の枠外からの圧力が必要でした。レヴィ=ストロースなどが人類学の分野から、「西洋文明が他より進歩しているのではなく、他の文明もまた違った形で進化しているのだ」という、いわば「客観的な傍証」を提示しなければならなかったのです。それで西洋哲学界も、ようやく重い腰を上げて、相対主義とか脱構築とかに取り組み始めたのです。

前置きが長くなりましたが、アーレントが凄いのは、そのような流れとはまったく別の文脈で、西洋の呪縛から脱却しているっぽいところです。
しかも、彼女自身が、信仰心(と、その裏返しの排他性)で有名なユダヤ人なのに、です。
彼女が「哲学者」と呼ばれるのを嫌ったのは、ここまでの西洋哲学の文脈上にないアプローチをとっていたからです。すなわち、彼女が立脚していたのは、あらゆるラベリングとかデマゴーグを拒否する、彼女自身の驚くべき「公正さ」を貫く意思だったのです。



当事者でありながら、直視する「公正さ」


ここでいう「公正」は私が彼女の姿勢をあらわす為にもっとも適当だと思った単語としてチョイスしたものであり、哲学の文脈でいうフェアネスとはちょっと違うかもしれません。

しかしとにかく、アーレントの意思の強さは半端ではありません。そこがすばらしく孤高で、私が彼女にシビれてしまうポイントです。

ふつう、人間というものは、自分や身内に関わる問題があれば、当事者性を発揮するものです。つまり、受けた被害を強調したり、逆に加害の事実を隠蔽したりと、当事者ゆえに思考や行動にバイアスがかかるのが常だと言えましょう。あたりまえながら、当事者はものごとを俯瞰で捉えることが難しくなってしまいます。

しかしアーレントは、当事者性に惑わされずに、俯瞰で構造を直視する勇気を持った人でした。彼女がどれほどロックか、事例をご紹介しましょう。

彼女はドイツ出身のユダヤ人で、自分もフランスで収容所に入れられた当事者でありながら、ホロコースト加害者の一人であるアドルフ・アイヒマン安易に断罪するのではなく、彼が桁外れの邪悪の片棒を担げてしまった構造を「凡庸な悪」として分析し、全体主義以降の人類全体の問題としてとらえた。

彼女はユダヤ人コミュニティに属しながら、一部のユダヤ人指導者達が結果的にナチスに加担してしまったことや、戦前のユダヤ人達のコミュニティのふるまいが、ドイツ国内でのヘイトを買っていた自業自得の側面もあったことなどの暗部も隠さずに告発した。

彼女自身、シオニズム運動に参加した時期があったり、その指導者と深い交流があったにも関わらず、戦後のイスラエル建国のあり方が、あらたな排他性を生む危険性があると指摘した。そして結果は皆様ご存じの通り。

彼女は著名な女性思想家として初期の代表的人物でありながら、後のフェミニズ厶運動について否定的態度をとった。

このように、アーレントは驚くほどに、思索者としての活動と、当事者性とを、冷静に区別しています。

言うまでもなく、ホロコーストは人類史上でも特筆すべき悲劇ではありました。だから戦後のユダヤ人コミュニティとしては、この最大の被害をどれだけ強調しても足りないくらいであり、ホロコーストを行った人間たちを悪魔だと糾弾するべきだし、それを材料にイスラエルを建国する悲願に向かうのが、心情的にも政治的にも、どう考えても正解だと思われたことでしょう。

しかし、アーレントはなびかない。
ナチスのような、同胞にとって「理解不能な邪悪」にしておいたほうが明らかに都合がいい相手に対してさえ、思考停止を許さない。
彼らの行いもまた人間の営みの一環だととらえて、「なぜ、人間社会であれほどの悲劇が起こり得てしまったのか」を問いただそうとするのです。

その結果、彼女は身内からは冷酷だと非難され、ユダヤ人コミュニティの外からも、その当時のコレクトネス的に正しくない考えだと糾弾されました。それでも彼女は、持論を撤回することなく、さらに深く切り込んでいったのです。
これが私の申し上げたい、アーレントの全方位への「公正」さです。



アーレントが打破した西洋哲学の呪縛


アーレントという人が、なぜこれほどに、媚びずなびかず、思考を追求できたのか。それには諸説ありますが、まず外せない要素は、彼女の師匠であり、一時期は恋人でもあったハイデガーの存在です。

ハイデガーは功罪ありつつも、20世紀の実存主義を代表する哲学者として知られています。
実存主義というのは、また面倒な言葉ですが、19世紀~20世紀中盤の西洋哲学の一大ムーブメントでした。産業革命により、近代合理主義がめばえて、キリスト教などの宗教が力を失う中で、「今ここに生きる個人」の自由と選択によって生きる意味を見出そうというような考え方です。(大雑把)
つまり、「合理的システムの奴隷になることを拒み、自分で自分の生き方を決めよう」というような流行だったと思って頂ければよいでしょう。

アーレントと出会った当時、ハイデガーはすでにその実存主義の大家の一人であり、彼らは大学での師弟関係から出発して、不倫関係にもなりました。
しかしハイデガーは後にナチスに入党し、その体制に積極的に加担することになります。彼としては良かれと思ってのことだったとされていますが、このことはアーレントに痛烈な影響を与えました。

ハイデガーは確かに頭の中で考えることについて天才的だったようなのですが、私の知る限り、人間としてはかなりアンバランスな人物でした。初心な理論屋であり、他者への共感性がとぼしく、自己中心的でもありました。
彼の理屈は精緻だったのでしょうが、全体主義がもつ強い一貫性、同調圧力、排他性の中では、ただ片棒をかつぐことにしかならなかったのが実情でしょう。

アーレントはハイデガーへの信頼を、ハイデガー自身の選択によって裏切られた形となりました。しかしこのことは、アーレントにとっては逆説的に、「ハイデガーほどの理論家であっても、全体主義の力学の中では無力である」という示唆を与えました。このことが、後のアーレントの驚くほどの公正さに与えた影響は大きいのではないでしょうか。

むしろ、理論家は「普遍的な一貫性」を重要視しますので、イデオロギーが求める「一貫性」の罠に、驚くほど簡単に取り込まれ、盲目にさせられてしまう。
全体主義という、「一貫性の暴走」みたいな状況に陥った時、「理論はそれを軌道修正できる力を持たない」ということを、たぶん、アーレントは痛感したのです。

このことが意味するのは、西洋哲学が歴史的に目指してきた「普遍的な真理」が、説得力をまったく失ってしまった、ということでした。

そのことの具体例として、先にも触れたホロコースト実行者の一人であるアイヒマンは、「私はカントの倫理学に忠実に生きてきた」と自認さえしていました。そしてナチスへの入党後は、ヒトラーの意思を定言命法的な命令としてとらえてきたのだと言います。
カントというのは、近世以降の西洋哲学において、最大級の権威と言ってよい人物です。倫理とはかけ離れたことをやった罪人がカントの名を出すことは、西洋社会においてかなりのショッキングだったことでしょう。

むろん、アイヒマンはカントの倫理学を都合のいいように解釈していたのですが、少なくとも「考え方の手続き的には」実際に彼なりにカント倫理学をなぞっていることを完全には否定できないのでした。
つまり、アイヒマンほどの罪人でも、カントの理論をハックして、行為を部分的に正当化することができてしまったのです。

ここに至り、アーレントは西洋哲学の呪縛そのものに対して、孤独な戦いを強いられることになったのです。



アーレントは「安易な正解」を許さない


アーレントは、全体主義以降の社会において、人間が巨悪を繰り返さないようにするためには、政治は、倫理は、どうあるべきかを、深く深く掘り下げて考えました。

その仔細な経過については、この記事ではとても説明しきれません。私の読んだ中で最も説得力のある説明をつけてくれた、下記の本を読んでください。
(そもそもこの記事は、こちらの本に刺激されて書いたものです。)

論文調でやや難解なこの本を、解説と読み下しを兼ねた文章として、いつも拝読している仰山門 放下著さんの読書録シリーズ「『正義とは誤謬』を読む」をおすすめします。

ともかく、アーレントの導き出した結論は、私なりにまとめると、大まかに下記のようなものです。

・全体主義以降、危険なのは「一貫性」である。これは、特定のイデオロギー(理論およびそれにもとづく一貫性)と非常に接近する。

・民主主義、三権分立、文民統制などの政治体制によるシステムは、それだけでは一貫性の暴走を食い止められない。

・暴走を避けるには、あらゆる特定の理論や一貫性が、全体主義に信奉されることを防ぐしかない。

・その判断基準もまた、各人の倫理観だけで判断することは危険である。ゆえに、かならず「複数性」がなければならない。頼りにできる判断基準は、カントの「美」の感覚と、他者とともにある「複数性」である。(なぜ「美」なのかは説明が長くなるので省略)

・複数性のある議論が、特定の「合意」に到達してしまってはならない。なぜなら、それは新しい「一貫性」になってしまうからだ。ゆえに、決して合意を目指すのではなく、「議論は継続的に複数性に訴え続け、もみ続ける必要がある」。この「手すりなき思考」を続けること。

これは、超ロックな考え方です。

つまり、アーレントは「こうしておけば大丈夫」のような、特定の正解を提示していないということなのです。

なぜなら、誰かにとっての何がらかの正解を提示するようなことは安易であり、そういう安易さこそが、アイヒマンのような思考停止を生み、凡庸な悪を許容してしまうからだというわけです。

こんなに反骨精神に満ち、しかも真摯な姿勢を崩さない格好いい思想家には、なかなかお目にかかれるものではありません。
20世紀の西洋の思想家が、独力で18世紀のカントにまで戻って問い直し、しかも自らの成果をバズらせようとしていないのです。

西洋哲学の文法にのっとれば、新しい概念を何かしら提唱し、「〇〇主義」のようなことを主張するべきです。つまりバズってなんぼというところがあります。そして、その理論を社会的に実践しようとする「一貫性」を求めるのですが、それすらもアーレントは危険なものとして批判するのです。

アーレント的な「活動」と、サルトル的な「アンガージュマン」は、似たようなことを言っているようで、この意味でまったく異なります。
その意味ではサルトルは、「バズってなんぼ」の西洋的インフルエンサーの典型だったと申せましょう。彼は自らの理論を社会に適用しようとし、結果としてソ連のスターリニズム(全体主義の一種)を肯定するという、ハイデガーと同じ轍を踏んでしまいました。
特定の正解を掲げて、社会をそちらへ導こうとする行為は、結局は新たな一貫性を押しつけようとしているに過ぎないのです。

アーレントの徹底した「ハックの拒絶」は、答えを提示せず、合意すら許さず、しかしただ、複数性の中で揉み続け、思考し続ける原則だけを提示する。
当然、その孤高さゆえに、あまりバズりませんでした。



誤解されるアーレント


ハックを許さないということは、「〇〇のために役に立つ思想です!」「この考え方なら〇〇に勝てます!」と言う風に、売り込むことができないということです。
そのため、実社会ではあまりにも扱いづらく、誤解されることになります。

世間的には、アーレントのイメージと言えば、
「凡庸な悪=ひどい悪行は凡人がするものだ」
「複数性=公共性が大事だ」
「始原性=何か新しいことを始めることが大事だ」

みたいな、概念同士の関係性がよくわからない、うすーい理解になってしまいます。

これは、後世の学者たちによって、別の「お役立ち理論」を売り込むための根拠として、アーレントの理論が都合よく曲解されてきたことにも起因します。

その代表格が、彼女の思想を現代の政治システムに無理やり「役立てよう」としたハーバーマスのアプローチです。

先ほど紹介した橋本さんの本でも指摘されている通り、ハーバーマスはアーレントの言う「活動」を、都合よく自らの「討議民主主義」の道具としてハックしようとしました。
これは、単に選挙で多数決を行うだけでなく、市民が互いの意見に耳を傾け、十分な情報に基づいて対話し、合意形成を図るべきだというものです。
しかし先にも述べたように、アーレントは合意を求めることを、新しい一貫性を作ってしまうとして否定していました。
「討議民主主義なら、皆が納得する合意を見いだせる」という普遍的な価値観を植え付けようとする、これも一種の一貫性の罠なのです。

あえて、よりアーレント的に言うならば、
「公共的活動による議論の末、その時々でベストな妥協点を見出すことはありえても、合意などはありえない。その後もたえず、いちど見出された妥協点を含めて、継続的に問い直され続けるべきだ」という方が妥当でありましょう。

このように、アーレントの理論を哲学や社会学、あるいは政治運動といった特定の部門だけにあてはめて理解しようとすることは難しいのです。
なぜなら、彼女はそういった縛りを打破するために、カントにまで遡って、そこから自分の頭で考えた人だからです。
彼女はシステムを作る人ではなく、システムに依存して思考放棄しがちな人間に、自分の頭で考え続けることを求めた人なのです。



憧れのロックスター、アーレント


ロックの歴史に例えると、ニーチェなどの実存主義の哲人たちをパンク現代思想をポスト・パンクやオルタナティブだとするならば、アーレントはさしづめゴリラズ的な、特定ジャンルに縛られず、フロントマンの顔すら出さず、世界中のアーティストとコラボを続けていく、実体のないバーチャルバンドのありかたに近いかも知れません。

私は、自分の考えを発信するにあたり、根拠固めのために有名人を持ち出してくるのは、権威的で思考停止っぽいので、好きではありません。ですからアーレントを信奉しているわけではありません。
著述家の常として、ときに文章を読んでもらうためのフックとして、そういう拝借的な使い方もしてしまうことはあるのは認めます。
しかしそれにしたって、大前提として自分の頭でその借りてきた言説に同意できている必要があります。

しかし、アーレントに関しては、「好きな思想家」として遠慮なく挙げることができるのです。
彼女の行った、徹底的な公正さと、それにもとづく真摯な理論に、尊敬と憧れを禁じえないからです。思索家を名乗る以上は、自分の頭で考え続けて、知恵を絞ってやっと導いた言説を発信することが、私なりの矜持です。


<本論了>



本論はここまで。
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おまけ:フェミニズムやLGBTQ+、SNS時代の正しさはアーレント的にアリなのか?

アーレントは著名な女性思想家でありながら、「フェミニズムに否定的だった」と書きました。以下ではおまけとして、フェミニズムに対するアーレントの考え方や、現代のSNSで叫ばれる「正しさ」についての私の思索を書いていこうと思います。

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