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【歴史探訪】横山城跡 〜豊臣秀吉が初めて城番を務めた城〜

背後にそびえる山に、かつて横山城があった
(滋賀県長浜市石田町から撮影)

 姉川の戦いの後、織田信長は浅井長政の居城・小谷城への追撃を試みました。しかし、要害の山に築かれた堅固な城であったため攻略は困難と判断し、浅井氏の支城・「横山城」を降伏させ、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を城番として入城させました。 
 秀吉が初めて「一国一城」の主となった城としては「長浜城」が有名ですが、守備を任された城としては、この「横山城」が初であったともいわれます。また、信長も本願寺攻めや小谷城攻めの際にたびたび横山城に布陣しており、戦略上重要な役割を担った城でした。 

【参考】横山城 現地解説板

 本記事では、横山城跡の登山ルートと遺構についてご紹介します。

【登山ルート・遺構】

石田会館(石田三成出生地)

 「いきなり石田三成!?」と思われるかもしれませんが、実は横山城跡の西麓には石田三成屋敷跡があります。
 三成の父・正継は浅井長政の配下であったといわれ、横山城も元々は浅井方の城でした。そうした背景からか、横山城跡周辺には石田三成ゆかりのスポットも点在しています。以下の記事で詳しく紹介しておりますので、よろしければご覧ください。

【参考】石田会館 案内図より

 今回は、三成の出生地である石田会館から日吉神社へ向かい、その脇にある登山口から登山を開始しました。横山ハイキングコースを登り、横山城跡へと至ります。 
 なお、横山城跡は案内図上のようにL字型の構造となっており、折れ曲がる角の部分が北城跡、その南側に南城跡があります。 
 また、南城跡の東麓には、石田三成が「三献茶」によって秀吉に見出された逸話で知られる観音寺があります。そこへ通じるルートもありましたが、下山道としては傾斜が急だったため断念し、もと来た道を引き返しました。

日吉神社

 天正2年(1574年)豊臣秀吉が社領十石を寄進し、石田三成も米三石三斗(約495kg ※1石=約150kg、1斗=約15kg換算)を寄進したといわれます。

御祭神 
 大山咋神
御由緒
 徃古より、延暦寺領で、山王権現社として祭られ、また十禅寺宮とも称された。天正二年豊臣秀吉、社領十石を寄進し、石田三成は、此の石田村の出身であることをもって、二段の得分、三石三斗を寄進し、神恩に拝したといわれる。明治十四年、地名に因んで、石田神社と改称、ついで明治四十三年更に日吉神社と復称された。

滋賀県神社庁公式サイトより引用
本殿

横山ハイキング道

 鳥居付近に横山城跡まで続く、横山ハイキング道の入口があります。
 なお、イノシシや猿といった野生動物出没の注意喚起板がありました。
 
 ※ご参考に、山城散策時の注意点を紹介する際、いつも重宝している長野県大町市サイトのリンクを掲載します。全然関係のない自治体ですが、山城特有の一般的な注意点がよくまとめられています。

「2 登城にあたっての注意」大町市公式サイト

 一旦、登り切ると平地に着きます。

 茂みの奥に、横山ハイキング道の道標がありますので、その方向に従い進みます。

 途中で分かれ道となりますが、道標の矢印通り右へ進みます。

城跡まで十町

石標

 道中に、城跡までの距離が示された石標が設置されています。
 「町」は尺貫法で約109メートルです。十町で約1090m、つまり約1.1kmの道のりということになります。
 秀吉や三成とも、ゆかり深い場所のため、「太閤検地」にならった表記としているのかもしれません。

 途中には琵琶湖が見渡せる展望所があります。

城跡まであと五町

 城跡まで半分の距離にあたる箇所の写真。実際は1町毎に石標があります。目印にするとよいでしょう。

城跡まであと二町

 そして、城跡まで二町の地点を登っていくと…。

虎口跡

 最初の城の遺構に到達しました。ハイキング道の入り口から約30分の登山でした。 
 虎口について、現地に解説板がありましたので、引用します。

虎口
 城の出入口。城郭の配置では最も重要な場所で、城の攻防戦の焦点になりやすい。

解説板

 分かりづらいですが、輪郭をみると真ん中が凹んでいて、その左右は土塁(敵の侵入を防ぐために築かれた盛土の防壁)となっています。これにより、敵が一気に押し寄せないようになっています。
 とはいえ、土塁が低いため、かつては柵が設けられていたのかもしれません。

曲輪(郭)跡

 虎口の先は曲輪となっています。

曲輪(郭)
 城内での日常生活や戦闘のために平たくつくられた区画。堀や土塁で囲まれることが多い。

解説板

土塁跡

 また、土塁があります。

土塁
 周囲から遮へいしたり、その上に乗って戦うためにつくられた土手。土を盛ったり削ったりしてつくられる。

解説板

二重堀切

 さらに進むと、尾根沿いに2重の「堀切」が掘られています。(分かりづらいですが右斜面の奥側と手前が凹んでいます。) 

二重堀切
 敵の進入を妨げるため、尾根や台地を切断するよう二重に掘られた空堀のこと。県内では例が少ない。

解説板

 二重堀切を越えて、さらに登ると平坦地となっています。恐らくここも曲輪の1つでしょう。

城跡まであと一町

石標

 既に城の縄張りの中ではありますが、最後の石標がありました。主郭の1つである北城跡までの距離を示しているようです。

曲輪跡(北城跡南西)

 藪化してしまっていますが、北城跡手前にも曲輪があります。

 その先の階段を上がると…。

北城跡

 2つある主郭のうち、北に位置する曲輪・北城に到着しました。
 写真の通り、伊吹山を望むことができます。『古事記』や『日本書紀』にも登場する山で、日本武尊がこの地で神の化身である白猪(『日本書紀』では大蛇)の怒りに触れ、大氷雨に遭って衰弱したという神話の舞台でもあります。
 しかし、伊吹山の西側は大きく削られていることがわかります。1950年代頃から石灰岩の採掘が進み、山容は大きく変化しました。また、近年は温暖化の影響で鹿が冬を越せるようになり、高山植物が食べ尽くされ、土砂崩れの原因ともなっているようです。
 筆者自身もコンクリートの建物の中で、CO₂が排出されながら、快適な暮らしを享受しているので、複雑な気持ちになりますが、これもまた歴史の一部なのでしょうか…。

 北城跡の一段下にも、曲輪があります。

 下段の曲輪からの景色(北西方面)です。

※誤りの可能性もあります。
青:姉川
黄:姉川合戦直前の浅井・朝倉連合軍本陣があったとされる大依山
赤:浅井長政の居城・小谷城があった小谷山
緑:織田軍が姉川合戦直前に本陣とした虎御前山

 一応、地図や航空写真とにらめっこしながら判別しましたが、木々に遮られており少し自信がありません……。あくまでイメージです。
 
 『浅井三代記』などによれば、浅井氏家臣の間では、織田信長軍に包囲されたこの横山城を救援するため、大依山から姉川方面へ進軍すべきか、それともそのまま小谷城へ撤退すべきかをめぐって議論があったとされます。最終的に姉川方面への進軍が決定され、浅井・朝倉軍は南進して、姉川の戦いが始まりました。

 北城の主郭へ戻り、南へ下っていきます。

腰曲輪跡

 下った先は北城を取り巻くように築かれた腰曲輪となっています。

腰曲輪
曲輪の外側のより低い場所に階段状につくられた曲輪のことである。

解説板

曲輪or切岸?(鉄塔下)

 しばらく進むと、送電線の鉄塔が見えてきます。鉄塔をくぐっていきます。

 振り返って撮影した写真です。奥側の鉄塔の脚部が、地形の高さに合わせて短く調整されていることから、かつての曲輪もしくは切岸跡(斜面の土を削り取って急斜面にしたもの)ではないかと思われます(あくまで筆者の推測です)。

曲輪跡(送電線の南)

 南城までの尾根沿いにも、曲輪があります。
※写真右奥に先ほどの鉄塔、左下に曲輪の解説板があります。

 そして、さらに進むと大きな斜面が現れます。それを登ると……。

南城跡

 2つある主郭のうち、南の曲輪に到達します。北城跡よりも広い敷地となっていました。

 南城の区域内には、井戸跡があります。

平和の鐘

 また同じく南城の区画内に、姉川の戦いで戦没した武士や、他国との戦争で命を落とした軍人を慰霊するための鐘があります。
 麓にある観音寺に、この鐘と横山城跡の整備に関する詳細な解説がありましたので引用します。

【参考】横山城城跡梵鐘堂改修工事(観音寺)

 昭和初期に昭道和尚が玉泉院で僧となり、修行托鉢に毎日出掛け信者の方に懇願し、荒れた城跡の整備に力を入れ、昔を偲んで梵鐘を寄進し、三尊佛及び、登山道~城跡~下山道に33体の観音様を祭られました。
 この梵鐘は、昭和12年に、朝日区民の大人から子供までが総出でソリに乗せ城跡まで運んだそうです。
 戦時中に、寺の鐘はすべて軍の命令により国家に強制的に供出させられ、色々な兵器に使用されましたが、歴史ある古い観音寺の梵鐘は供出から免れました。心配された城跡の梵鐘は、昭道和尚が「戦没した武士の霊と、他国との戦争で戦死した軍人の霊を、誰もが鐘をついて冥福を祈り追弔するための梵鐘」 と強く主張され同じく供出から免れ今日に至っています。
 梵鐘堂は、三十数年前に朝日区民により一度修復されたそうですが、倒壊寸前と傷みが激しくなったため改修(建替え)工事を行いました。

 南城跡を降りていきます。

堀切(南城より南)

 南側にも堀切があります(写真は堀切を進んで振り返ったもの)。南方面から尾根伝いに、敵から進入されることを防ぐために設けられたと考えられます。

観音坂峠・観音寺下山道 分かれ道

 堀切の先を進むと途中で、観音坂峠と観音寺下山道への分かれ道があります。

 観音坂峠より少し進んだところは、休憩できる場所があります。

 ここからは、琵琶湖を一望できます。画像右奥には竹生島が見えます。

 一方、観音寺下山道は、石田三成ゆかりの観音寺がありますが、急斜面のため断念しました。もと来た道を引き返し、帰途につきました。
 横山城跡の麓にある観音寺については、以下の記事でご紹介しています。よろしければご覧ください。


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