【歴史探訪】長浜市石田町 〜石田三成の生誕地〜
豊臣政権の中枢を担い、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で西軍を率いた石田三成。三成の生誕地は、現在の滋賀県長浜市石田町周辺といわれています。
かつて石田三成は、徳川家康に敵対した人物として悪人のように語られることも少なくありませんでした。しかし近年では、豊臣家を支え続けた忠義の武将として、その人物像が見直されつつあります。
三成の故郷・石田町には、地元の人々によって大切に守り伝えられてきた史跡や、三成への敬意や親しみが感じられる場所が多くあります。
本記事では、そうした石田町内の三成ゆかりの歴史スポットをご紹介します。
石田会館(石田三成屋敷跡)

石田三成が誕生したと伝わる屋敷跡南端に立つ資料館です。館内には三成に関する展示物があります(不定休のためご注意ください)。
治部池(堀跡)

石田会館の敷地内にある池は、かつての堀の遺構の一部と考えられています。屋敷跡の詳細について解説板がありましたので、一部引用します。

石田三成公出生屋敷跡
石田三成公は永禄三年にこの石田町に誕生されました。その当時の石田家の屋敷はこの附近一帯にわたり約一丁四反歩位はあったものと思われます。現在地は屋敷の南端に当りここから北へ現在のバス停附近までが屋敷であったようで、この地域の小字名は「治部」と称し俗称「ごいで」とも言われています。隣接地に「的場」「御畑」「堀端」などの小字名から当時の豪族らしい構えが伺われます、左手の池は「堀端」または「治郎池」と呼ばれ石田屋敷の堀の一部遺構と伝えられております。
(後略)
財団法人石田三成公事蹟顕彰会
石田三成公像

池の側にある石田三成の銅像は、三成の末裔・杉山家に伝わる画や、京都・大徳寺に埋葬されていた三成の頭蓋骨の調査の鑑定書を参考に制作されました。
また、隣には三成の出生地であることを示す石碑が建立されています。
関原読軍記石碑(西郷隆盛の漢詩)

『水戸黄門』で知られる水戸光圀は、石田三成を忠義者と高く評価していたと伝えられます。それを知った西郷隆盛が、これを題材に漢詩を詠んだといわれ、その漢詩が石碑に刻まれています。
時代劇では旅をする印象の強い水戸黄門ですが、実際には『大日本史』の編纂を進め、幕末の尊王思想にも影響を与えた水戸学の礎を築いた人物でもありました。そのような歴史観を持つ光圀が、水戸徳川家の立場を超えて石田三成を客観的に評価し、幕末の西郷隆盛も同様の認識を抱いていたことは興味深いです。
三成ゆかりの人物紹介付き街路灯

石田会館から場所を移します。徒歩10分圏内に石田三成にまつわる史跡が点在しており、あらゆる街路灯の側には、石田三成と関係のある様々な人物の解説板が設置されています。
そして、後述の八幡神社へ至る道の曲がり角には、石田三成の父・石田正継の解説板があります。
三成の父(石田正継)
ここ石田村の地侍(村長)で京極家に仕えて、文武の才を備え、和漢に通じた。 幼少の三成に学問と礼儀を身につけさせるため、隣村の観音寺(現米原市朝日)に寺小姓として預けた。後年近江3万石、堺奉行代官、佐和山城代として活躍。関ヶ原の合戦の時には佐和山城を守っていたが三成が敗れた明くる日、東軍に攻められ落城、 自刃して果てた。
八幡神社

石田会館から南東に進むと石田氏の氏神と伝えられる神社があります。
先に掲載しました石田会館の解説板より、続きを一部引用します。
南東二百メートルほどの森に石田氏の氏神と伝えられる八幡神社が鎮座されますこの宮を「古宮」とも云い境内の一部は「上雑付古墳」として指定されています。
昭和五十七年十月
財団法人石田三成公事蹟顕彰会
石田三成公供養塔

八幡神社の裏手には、石田三成の先祖と関わりがあるとされる供養塔が安置されています。故意に破壊されて地中に埋まっていたといわれ、関ヶ原の戦いの後、徳川方の追及を受けないように密かに埋め隠したものと考えられています。

供養塔建立の由来
昭和十六年に隣接の八幡神社の地中より故意に破壊された多数の五輪塔の残欠が発掘されました。その一部に「永禄五年六月」「天正十四年正月一四日」「妙性霊」或は「缶禅定門」等の文字が刻まれこれらの墓石の残欠は石田三成公の先祖に深い関係あるものと推定され おそらく関ヶ原合戦直後の里人が徳川方の追及を逃れる為に神社を隠れ蓑に密かに埋め隠したものと思われます。さらにこれに触れると腹が痛くなる」と云い伝えられて堅く発掘を戒めてきましたが 顕彰会の手で発掘され、その後もこれらの墓石を仮の墓所で三十余年間供養して参りましたが昭和四十八年十一月地元はもとより全国六百数十人の石田三成公に理解ある方々の浄財を以って墓所を整備改めて墓石を安置し新たに石田三成公及び一族家臣の供養塔を建立して公の霊を慰め一層事蹟の顕彰をすることになりました。毎年十一月六日を公の命日として墓前に於て慰霊法要が厳修されます
財団法人石田三成公事蹟顕彰会
墓石出土跡・石棺蓋

本殿裏が、石田一族のものとみられる墓石が出土した場所といわれています。
また、古墳の石棺が置かれています。かつては橋(唐戸はし)として使われていたといわれます。
石田三成公の自筆による歌碑

残紅葉 散り残る紅葉は ことにいとおしき
秋の名残りはこればかりぞと
三成の自筆と伝わるこの歌の遺墨が、三成の居城であった佐和山城の西麓に位置する龍潭寺に伝えられており、その歌の石碑が境内に建立されています。
石田三成の菩提寺・寿聖院住職の歌碑

石田三成の菩提寺である寿聖院の住職の句碑もあります。
柿といえば、三成の最期にまつわる逸話が有名です。石田三成は処刑の直前、喉の渇きから水を求めましたが与えられず、代わりに干し柿を差し出されました。しかし三成は「柿は痰の毒になる」と食べるのを拒否。警護の者に「今さら毒断ちして何になる」と笑われると、「大志を持つ者は最期の時まで命を惜しむものだ」と答えたといわれています。
石田三成公辞世の歌碑

筑摩江や芦間に灯す かがり火とともに消えゆく 我が身なりけり
筑摩江は、かつて三成の故郷・石田村近くに存在した琵琶湖の入江です(現在は干拓されています)。
最期まで生きることを諦めなかった三成が、いよいよ死を目前にしたとき、脳裏に浮かべたのは、故郷の情景であったことがうかがえます。
石田治部少輔三成屋敷跡(北端)

屋敷跡としては北端に位置する場所です。屋敷跡の南に石田会館から約140mの距離にあります。今は住宅街となってしまっていますが、かつては広大な敷地であったことがうかがえます。
石田三成産湯の井戸

三成の屋敷跡(北端)の石碑から、北に徒歩2分程度の距離に石田三成の産湯の水を汲んだと伝わる井戸があります。
写真の道を進みます。なお、側には三成の兄・石田正澄に関する解説板がありました。

三成の兄(石田正澄)
三成と同じく初め秀吉に仕え、近江の中で1万5千石の領地を持った。天正16年(1588)、三成に代わって、 堺の町奉行に任ぜられている。関ヶ原合戦の時には、父正継と共に佐和山城に籠城、防戦二日にして敵軍が侵入、天守閣に火をはなって自刃した。 落城が時間の問題となった時、自身の死と引きかえに、城内の老人・婦女子の無事を図ろうとしたが、敵軍の不手際で果たせなかった。

その先の右手に、産湯の井戸があります。

日吉神社

石田三成産湯の井戸から、北東へ約250mの場所にある神社です。天正2年(1574年)豊臣秀吉が社領十石を寄進し、石田三成も米三石三斗(約495kg ※1石=約150kg、1斗=約15kg換算)を寄進したといわれます。
御祭神
大山咋神
御由緒
徃古より、延暦寺領で、山王権現社として祭られ、また十禅寺宮とも称された。天正二年豊臣秀吉、社領十石を寄進し、石田三成は、此の石田村の出身であることをもって、二段の得分、三石三斗を寄進し、神恩に拝したといわれる。明治十四年、地名に因んで、石田神社と改称、ついで明治四十三年更に日吉神社と復称された。

鳥居の側には、「横山城跡」へ続く横山ハイキング道があります。横山城は、かつて豊臣秀吉(当時の名は木下藤吉郎)が、城番を務めた城です。
横山城跡の詳細については、以下の記事に詳しく紹介しておりますので、よろしければご覧ください。
