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【歴史探訪】大原観音寺 〜石田三成が三献茶により、豊臣秀吉に見出された寺〜

【参考】秀吉公と石田三成公 出逢いの像(長浜駅)

 大原観音寺(滋賀県米原市)は、豊臣秀吉と石田三成が初めて出会った場所といわれています。秀吉がこの寺で茶を所望した際、三成は最初にぬるめ、二度目はやや熱め、三度目には熱い茶を差し出したとされ、その細やかな気配りに秀吉が感心し、三成を召し抱えたという逸話が伝えられています。
 本記事では、三献茶の舞台と伝わる大原観音寺についてご紹介します。

【観音寺の歴史】

 現地に当寺の由緒が紹介されていましたので引用します。

伊富貴山観音寺
由緒
 当寺の創立は宝亀年中(七七〇~七八一)に、光仁天皇の願いにより、僧・三朱(安祥上人)によって伊吹山に四カ所の寺院を開基されたことによる。元慶二年(八七八)二月十三日、陽成天皇により伊富貴山観音護国寺という御宇額(山門等に掛ける額)を賜る。延元二年(一三三七)には後醍醐天皇より、当国坂田郡長岡庄島羽上郷ご寄付の勅状を賜る。開基より五八〇年程は伊吹山寺ヶ嶽にあり、貞和三年(一三四七)寺の二三代目の学頭・花蔵院が現在地に移した。
 また、佐々木導誉の末裔である大原判官信綱公以降、代々崇敬されて七堂伽藍を再建した。
 その後浅井三代の城主も深く信仰し、莫大の寺領を寄付された。後の姉川合戦の際、悲しいことに当寺の伽藍を破壊して横山城を増築し、寺院は焼失して焦土と化した。
 しかし、豊臣秀吉公が深く信仰して度々農民軍(一揆ヵ)に勝利したことにより、(秀吉公)自ら筆をとり観音像を描き、一首の和歌を詠じて諸堂を再建された。
 慶長七年(一六〇二)以降、徳川家より山林境内を除地(年貢免除の特権を与えられた地)とする書物数通を賜る。

明治二九年七月 山主

【見どころ】

惣門(伝 長浜城裏門)

 豊臣秀吉のかつての居城として有名な長浜城の裏門が移築されたものと伝えられています。平成5年(1993年)に国指定重要文化財に指定されました。

 境内に入ってすぐ左手に、石田三成の水汲みの井戸があります。

 

 三献茶の逸話について、詳細な解説がありました。

 なお、解説板の出典とされる『武将感状記』は江戸時代に成立した書物のため、三献茶の逸話について、実は後世の創作とする見方があります。
 とはいえ、豊臣政権内で官僚として中心的な働きをした三成だけに、秀吉に実際にそうした気配りを見せたのかもしれないと思わせられるエピソードです。

 参道に戻ると、本堂まで一直線に道が続いています。かつては両脇に23の僧坊が立ち並んでいたと伝わりますが、今は空いた土地が目立ち、どこか寂しさも漂います…。

 現在は左手前の玉泉院と、右奥の本坊2坊のみとなっています。

玉泉院
本坊

 参道の終わりには階段が続き、その先には二本の大木がそびえ立っています。

観音寺本堂

 本堂は正徳五年(1715年)に建築されたもので、重要文化財に指定されています。詳細について、一部現地解説板より抜粋します。

重要文化財 観音寺本堂

 所在地 坂田郡山東町朝日 
 平成五年四月二十日指定
 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、
 向拝一間、背面張出附属、桟瓦葺 江戸時代

(中略)

 本堂の再建は再興記録に詳しく、正徳五年(一七一五)上棟、地元の大工棟梁宮部太兵衛、 京都の彫刻師か造営に携わったことなどが知られる。
 入母屋造の屋根は、当初葭葺であったが、明治元年(一八六八)に桟瓦葺に改められている。
 内陣の雲龍彫刻など細部意匠に優れ、彫刻の豪華さは県下の近世社寺建築を代表する遺構である。

平成八年三月
滋賀県教育委員会
【参考】現地解説板より抜粋

 本堂内には、天台宗の宗祖・最澄の彫刻像が安置されています。最澄の彫刻像としては日本最古です。

薬師堂

 本堂と廊下で直結された入母屋造の建物です。天保15年(1844年)に建築され、平成30年(2018年)には大規模修復工事が行われました。

鐘楼

 享保10年(1725年)に建築された鐘楼です。平成5年(1993年)に国の重要文化財に指定されました。

横山城跡ハイキングコース

 境内には、「横山城跡」へ続くハイキング道があります。横山城は、かつて豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)が城番を務めた城として知られています。
 横山城跡の詳細については、以下の記事で詳しく紹介しております。
 ※山の反対側にある石田会館からの登山ルートをレポートした内容となっています。

【参考】石田会館 石田三成公史跡案内図 

 横山城があった山の向こうには、石田三成の屋敷跡があり、生誕地とも伝えられています。三成の父は、幼少期の三成に学問と礼儀を身につけさせるため、隣村であった大原観音寺へ寺小姓として預けたといわれています。
 ※屋敷跡周辺については以下の記事でご紹介しています。

 三献茶の逸話については、後世の創作の可能性があるとお伝えしました。しかし、石田家の屋敷跡と大原観音寺の間には、秀吉が城番を務めた横山城跡が位置しています。さらに、秀吉が長浜城主として近江を治めていた時期には、この地域を統治していますし、大原観音寺を深く信仰していたとも伝えられています。
 これらを踏まえると大原観音寺で、秀吉と三成の二人が初対面を果たしたという話は、本当なのかもしれません。

【参考にしたサイト】

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