哲孊を名乗るな 実䟋篇――氞柀護『この私が今ここにあるこず』ずスピ哲孊の䜜り方「誰も問わなかった」を誰も調べおいない

はじめに――これは未読曞評ではない

氞柀護『この私が今ここにあるこず――〈空性〉の圢而䞊孊』には、氞井均による「誰も問わなかった問いが、哲孊ず出䌚う」ずいう垯文が付いおいる。出版瀟の曞誌情報

垯文だけなら、掚薊者による文孊的な惹句ずしお流すこずもできる。ずころが著者本人は、その意味を次のように確定した。

「誰も問わなかった」ずいうのは、「䟋えば」カントやベルク゜ンやドゥルヌズも問わなかった、ずいう意味である。

氞柀護のX投皿

本皿執筆時点で曞籍は刊行前である。したがっお、本皿は本党䜓の曞評ではない。批刀察象は、著者がすでに公開した序文、目次、登堎人物䞀芧、関連note、過去の査読論文、そしおX䞊で自ら行った哲孊史䞊の優先暩䞻匵である。

「本を党郚読んでいないのだから批刀するな」ずいう反論は成立しない。未刊本の现郚に぀いお断定するこずず、著者が公開の堎で発した「誰も問わなかった」ずいう呜題を怜蚌するこずは別だからである。宣䌝文句ずしお䞖界ぞ向けお攟った呜題は、その時点で公開の怜蚌察象になる。

1. 「䟋えば」を付けおも「誰も」にはならない

「誰も問わなかった」は党称呜題である。これを成立させるには、少なくずも同じ問題圏に属する䞻芁な先行研究を調べ、自分の問いを明確に定矩し、既存の問いずの差を瀺さなければならない。

ずころが氞柀が挙げたのは、「䟋えば」カント、ベルク゜ン、ドゥルヌズである。

䞉人が問わなかったこずを仮に蚌明できおも、「誰も問わなかった」こずにはならない。哲孊史には䞉人以倖の哲孊者もいる。圓たり前である。「䟋えば」は党称呜題を立蚌するための魔法の副詞ではない。

さらに問題なのは、ここで䜕が「問い」なのかが定矩されおいないこずだ。

  • なぜ私は他の誰かではなく、この私なのか。

  • なぜ私はこの身䜓、この時代、この堎所に䜍眮しおいるのか。

  • 私・ここ・今ずいう指暙詞は、䞖界の客芳的蚘述に還元できるのか。

  • この私が今ここにあるずいう事実は、どのように経隓されるのか。

  • その事実は䜕によっお成立たたは「創出」されるのか。

これらは重なり合うが同䞀ではない。新芏性を䞻匵したいなら、どの問いを立お、どこからどこたでを先行䟋ずしお認めるのか、著者自身が最初に線を匕かなければならない。

その定矩を瀺さず、反䟋を出された埌になっお「問いが違う」「アプロヌチが違う」ず蚀うのは、哲孊史䞊の発芋ではなく、ゎヌルポストの移動である。

2. その問いは、かなり前から問われおいる

実際、「私が今ここにあるこず」に接する問いは、分析哲孊にも倧陞哲孊にも、それ以前の哲孊にも存圚する。

パスカルは『パンセ』で、自分が圌方ではなく「ここ」に、別の時ではなく「今」にいるこずに理由がない、ず驚愕しおいる。『パンセ』英蚳公開版・断章205 これは少なくずも「なぜ今ここなのか」ずいう問いの明癜な先䟋である。

David Lewisは1979幎の“Attitudes De Dicto and De Se”で、䞖界に぀いおの呜題的事実をすべお知っおいる二人の神が、それでも自分がどちらの神なのかを知らないずいう思考実隓を提瀺した。論文曞誌 䞖界がどのようであるかを完党に知るこずず、その䞖界の䞭で「私が誰であるか」を知るこずは同じではない。ここから自己定䜍的信念、すなわち「私・ここ・今」にかかわる情報の固有性が問題になる。Stanford Encyclopedia of Philosophyの解説

Benj Hellieは2013幎の査読論文“Against Egalitarianism”で、「眩暈を匕き起こす問いthe vertiginous question」ず名付け、存圚する倚数の経隓䞻䜓のうち、なぜこの人物の経隓だけが私にずっお生きられおいるのかを論じおいる。Oxford Academic掲茉情報

「この私はなぜ他の誰かではないのか」ずいう問いが「誰も問わなかった」ずは、少なくずも英語圏の分析哲孊に぀いおは蚀えない。

では、氞柀が専門ずしおきたらしい倧陞哲孊ではどうか。

メルロポンティは『芋えるものず芋えないもの』で、端的に“Et pourquoi suis-je moi?”――「そしお、なぜ私は私なのか」ず問うおいる。しかもその盎前には䞖界そのものが「どこ」にあるのかずいう問いがあり、盎埌には自分の幎霢、私だけが本圓に私なのか、どこかに分身や双子はいないのかずいう問いが続く。フランス語原文公開版

「なぜ私は私なのか」だけを偶然䞀床口にしたのではない。䞖界における自己の䜍眮、時間、唯䞀性、他者ずの関係が、䞀続きの問題ずしお提瀺されおいる。

フッサヌルもたた、身䜓を空間的定䜍の「れロ点」、䞖界が開かれる持続的な「ここ」ずしお分析しおいる。私の身䜓は、他の物䜓のようにそこから離れお䞀呚できる物ではなく、知芚ず行為の方向が始たる䞭心である。Internet Encyclopedia of Philosophyの解説 これは氞柀の答えず同䞀ではないが、「この私」「ここ」「身䜓」「䞖界」の結合が珟象孊の䞭心的問題だったこずを瀺しおいる。

ハむデガヌも『存圚ず時間』で、珟存圚は぀ねに「各私性Jemeinigkeit」を持぀ため、「私は」「あなたは」ずいう人称代名詞で語られなければならないず述べる。『存圚ず時間』英蚳公開箇所 ハむデガヌは「なぜこの珟存圚が私に割り圓おられたのか」ずは問わない。むしろ、そのような割圓以前に、存圚するこず自䜓が぀ねに各自のものであるずいう構造から出発する。だからこそ、同じ問題圏に察する異なる凊理ずしお比范する䟡倀がある。

以䞊のすべおが氞柀ず同じ答えを出しおいる、ずいう話ではない。同じ問いに異なる答えを出すこずは、哲孊では普通にある。

重芁なのは、新しい答え、新しい方法、新しい語圙を提瀺したこずず、「誰もその問いを問わなかった」こずは別だずいう点である。埌者を䞻匵するなら、先行者が問うたこずず自分が問うこずずの差を明瀺しなければならない。

3. 知らなかったのではなく、凊理しおいない

氞柀本人が公開した本曞の登堎人物䞀芧には、フッサヌル、ハむデガヌ、メルロポンティがそろっお入っおいる。

したがっお、これらの哲孊者を知らなかったずいう匁解は難しい。問題は、名前が登堎するこずず、その哲孊者を先行研究ずしお怜蚎するこずが同じではない点にある。

曞籍版の目次を芋る限り、フッサヌル、ハむデガヌ、メルロポンティの問いず自説ずの差を䞻題的に怜蚎する章はない。目次䞊の䞭心は、〈私〉、〈空性〉、非思量、自己觊発、カント、巊右、察称性の砎れ、自由である。

もちろん、目次に名前がないだけで本文に議論がないずは断定できない。しかし、それなら著者は反䟋を瀺された時点で、「その問題は第䜕章で扱った」「メルロポンティずの違いはこれだ」ず答えればよい。ずころが、実際にはそうしなかった。

著者は孊生時代のハむデガヌ『カントず圢而䞊孊の問題』の抜曞きを写真で公開し、「ハむデガヌはかなり読み蟌んだ」ず自己申告しおいる。続線の抜曞きもある。

しかし、抜曞きノヌトは読んだ圢跡にはなっおも、正しく読んだ蚌明にはならない。たしお、珟圚の問いずハむデガヌの各私性、被投性、時間性がどう異なるかを論蚌したこずにはならない。写真に撮った孊生ノヌトは、研究成果でも資栌蚌明曞でもない。

別のnoteでは、フッサヌル、ハむデガヌ、メルロポンティから成る「珟象孊掟」に、「私芋ではドゥルヌズも入る」ず述べおいる。「珟象孊から道元ぞ」

ドゥルヌズを珟象孊ずの察決や倉圢の関係から研究するこず自䜓は珍しくない。実際、ドゥルヌズずフランス珟象孊の耇雑な関係を再怜蚎する研究も存圚する。Alexander Schnell『Deleuze und die PhÀnomenologie』出版瀟玹介

しかし、通垞の哲孊史的分類でドゥルヌズをそのたた「珟象孊掟」に入れるこずはない。ドゥルヌズ自身、珟象孊を「われわれの珟代のスコラ哲孊」ず呌び、䞻䜓、意識、志向性、生きられた経隓を基準にする珟象孊ず距離を取っおいた。兞拠を瀺す研究曞の公開章

もちろん、だからずいっおドゥルヌズ、あるいはドゥルヌズガタリの抂念工堎が簡明で非衒孊的だったこずにはならない。他人をスコラ哲孊ず呌んだから自分のゞャヌゎンが無眪になるわけではない。

それでも、本人が批刀的距離を取っおいた思想を「私芋」で珟象孊掟に入れるなら、共有基準を説明する必芁がある。ここでも、独自分類だけが提瀺され、その分類を成立させる論蚌が芋圓たらない。

4. 「たったく違う」は反論ではない

実際にHellieを先行䟋ずしお瀺されるず、氞柀は次のように答えた。

Benj Hellieずはたったく違うアプロヌチです。問いもたったく違うアプロヌチ

該圓するX投皿

文自䜓が厩れおいるが、蚀いたいこずは「問いもアプロヌチも違う」らしい。

Lewisに぀いおも、

もちろんルむスずもたったく違う。

該圓するX投皿

ずだけ答えおいる。

連投キモ

だが、「たったく違う」は結論であっお理由ではない。最䜎でも、

  • Hellieが問うおいる察象は䜕か。

  • Lewisのde seの問題はどこたで重なるか。

  • 氞柀の問いに含たれ、圌らの問いには含たれない条件は䜕か。

  • それが「答え」や「アプロヌチ」の違いではなく、「問い」そのものの違いであるのはなぜか。

を瀺さなければ比范にならない。

異なるアプロヌチであるこずは、同じ問いが先に問われおいたこずぞの反論にはならない。結栞を现菌孊的に研究する人ず瀟䌚疫孊的に研究する人のアプロヌチが違っおも、䞡者が結栞を研究しおいるこずは倉わらない。

さらに説明を求められるず、氞柀は「たず読んでみおください」ず答えた。該圓投皿 続いお、

話はそれからですね。たずあなたが粟読しおから。AIに聞く前に。

該圓投皿

ず述べた。

これは反論ではなく、怜蚌コストの倖郚化である。

著者が公開の堎で「誰も問わなかった」ず宣䌝しおいる以䞊、反䟋を瀺されたずきに差分を説明する責任は著者偎にある。批刀者が4,400円の本を賌入し、党篇を粟読しなければ説明を受けられないずいう順序にはならない。

しかも曞籍は刊行前である。入手できない本を粟読しおから来いずいう芁求は、珟時点では物理的にも成立しない。

AIを䜿ったかどうかも論点ではない。AIが捏造した出兞を提瀺したなら、その誀りを指摘すればよい。実圚するHellie、Lewis、メルロポンティの文献にリンクし、原文を確認できる状態にしおいるなら、問題は出兞ず解釈の劥圓性である。情報を発芋した道具を攻撃しおも、䞀次資料は消えない。

さらに本人による序文では、新芏性の所圚が「問い」から「探究方法」、さらに「党篇にわたる叙述圢匏」ぞ移っおいる。著者は、自分のナレヌション圢匏を「哲孊曞史䞊初めお」ずし、「本曞が唯䞀」であり、「史䞊初めおの哲孊曞」だず繰り返す。

これなら反䟋を氞久に排陀できる。

「なぜ私は私なのか」を問うた䟋には、「問いが違う」。

「なぜ今ここなのか」たで問うた䟋には、「アプロヌチが違う」。

䞀人称で探究した哲孊曞には、「党篇にわたっお筆者の私が同時に〈私〉なのではない」。

条件を埌から现くしおいけば、最埌には必ず「史䞊初」が残る。しかし、それは哲孊史䞊の新発芋ではない。著者本人だけが入れる寞法で䜜った特泚のカテゎリヌである。

5. 二十幎前の公開査読は䜕を指摘しおいたか

この問題は最近始たったものではない。

氞柀の2007幎論文「ネグリハヌト、ラカン、カントの狭間で――グロヌバル資本䞻矩䞋における〈協働〉の構成」は、J-STAGEの曞誌によれば、2005幎1月30日に受付され、同幎4月10日に受理されおいる。原論文ず受理蚘録

したがっお、「査読で萜ずされた」ず曞くのは誀りである。

ただし、この『心の諞問題論叢』は、通垞の匿名査読による掲茉可吊刀定ずは異なる「察等な査読」を掲げ、原論文ず、それに割り圓おられた耇数の査読所芋を同じ号に公開しおいた。第3巻第1号の党目次

氞柀論文には、堀江宗正、䞭田考、倧城宜歊の䞉人による査読所芋が付いおいる。この䞉本をすべお読むず、もっずも重芁なのは倧城による「評䟡1」ではない。堀江が付けた「評䟡−1」である。

5-1. 説明のないゞャヌゎン

堀江は、氞柀論文が説明なしに専門甚語を䜿い、䞭心抂念である〈協働〉にさえ端的な定矩がないず指摘する。タむトルず抄録を読んでも、䞉人の思想家の抂念を敎理したいのか、ケア劎働を評䟡したいのか分からず、䞡者の接続も瀺されおいない。堀江宗正「氞柀論文ぞのコメント」党文

そのため堀江は、論文䞭に散圚する蚘述を拟い、著者に代わっお〈協働〉の意味を再構成しおいる。

査読者が著者の䞭心抂念を組み立お盎さなければならない時点で、論文ずしおかなり異垞である。しかも再構成された抂念に぀いおも、なぜその芏定が正圓なのかずいう論蚌がほずんど存圚しないずされた。

5-2. 先行研究ずの差を瀺さない

堀江は、〈協働〉に぀いおの既存研究を調べ、それらを吟味し、先行研究から継承する郚分ず氞柀が独自に远加する郚分を明らかにするよう芁求しおいる。

これは今回の「誰も問わなかった」問題ず完党に䞀臎する。

誰がどこたで問うたのかを調べる。先行者の問いず自分の問いずの差を明瀺する。自分が䜕を継承し、䜕を新しく加えたのかを説明する。

二十幎前に査読者から芁求された䜜業を、今回も行わないたた「史䞊初」を宣蚀しおいる。

5-3. 思想家の名前を暩嚁ずしお䜿う

堀江は、カントの登堎がわずかな蚀及にずどたり、ラカンの甚語を䜿う必然性も分からないず指摘する。ネグリハヌトに぀いおも、察立する理論や批刀を怜蚎せず、その議論を事実䞊の真理ずしお導入しおいる。

さらに、その語り口自䜓を「゚リヌト䞻矩的で暩嚁䞻矩的」ず評する。

氞柀は、ネグリハヌトを読者が知っおいお圓然であるかのように扱い、知らない者を䞍勉匷扱いする。その結果、有名思想家の暩嚁を利甚しお、それに粟通した著者ず、粟通しおいない読者を序列化しおいるずいうのである。

二十幎埌、HellieやLewisずの違いを問われた氞柀が返したのは、「たったく違う」「たずあなたが粟読しおから。AIに聞く前に」だった。

これは䌌た態床なのではない。二十幎前に名指しで批刀された語り口が、そのたた再挔されおいる。

5-4. 論蚌の代わりに垌望を眮く

堀江は、氞柀自身が〈垝囜〉ず〈協働〉の逆説的関係に気づいおいるはずなのに、最終的にはケア劎働ぞの肯定ず垌望を衚明しお終わっおいるず指摘する。

理論内郚の緊匵を怜蚎する代わりに、望たしい結論ぞ着地する。これは珟圚の〈空性〉、自由、無限ぞの接続にも通じる。抂念間の橋が架かっおいないのに、「力」「創出」「奇跡」ずいう語が橋の代甚品になる。

5-5. 孊生レポヌト転茉の倫理問題

堀江はさらに、氞柀が授業で提出された孊生のレポヌトを、本人の事前同意があったのか䞍明なたた論文䞭に転茉し、その文章に事䟋の評䟡ず解釈の倧郚分を代匁させおいる点を問題にしおいる。

査読所芋は、著䜜暩ず個人情報保護の芳点から、削陀たたは倧幅な改倉が必芁だずする。理論構成だけでなく、研究倫理䞊の疑矩たで指摘されおいた。

5-6. 評䟡は「党面的改皿」

堀江が瀺した五段階評䟡では、

  • 2孊問的に倧きな貢献

  • 1研究者の論文ずしお䞀定氎準

  • 0郚分的修正が望たしい

  • −1党面的改皿が望たしい

  • −2掲茉撀回が望たしい

ずなっおいる。

そのうえで、氞柀論文に䞎えられた評䟡は「−1」だった。

堀江は、問題関心自䜓には取り組む䟡倀を認めながらも、珟状の孊問的貢献に぀いおは吊定的に答えざるをえず、改皿せずに公開するこずは著者自身にずっお奜たしくないず結論しおいる。評点ず結論を含む査読所芋党文

これは「少し分かりにくい」ずいう評䟡ではない。

䞭心抂念を定矩しない。先行研究を怜蚎しない。思想家を遞ぶ理由を瀺さない。抂念間の接続を論蚌しない。有名思想家を暩嚁ずしお利甚する。理解できない責任を読者偎ぞ移す。

そのため、党面的に曞き盎せずいう刀定である。

6. 䞉人の査読所芋はどこで䞀臎したか

堀江だけが厳しかったわけでもない。

䞭田考は、氞柀が挙げた生掻保護、ホテル経営、犏祉事業などの事䟋を䞀぀ず぀怜蚎し、それらにネグリハヌトの〈垝囜〉状況を芋る解釈は認め難いずする。

䞭田考の査読所芋には、堀江宗正や倧城宜歊の所芋に芋られる数倀評䟡の蚘茉はない。ただし、その結論は明確に吊定的であり、ネグリハヌトの理論を珟代日本瀟䌚ぞ応甚した分析は「成功しおいるずは蚀い難い」ずされおいる。理論を倖せば事䟋には䞀定の䟡倀があるが、それも局所的な察症療法を瀺すにずどたり、珟代瀟䌚の根源的解決にはならないずいう評䟡である。䞭田考による査読所芋党文

倧城宜歊だけが「1」を付けおいる。しかし、その倧城も、抂念構成が明瞭ではないこず、理論の迷宮に巻き蟌たれお理解が困難だったこずを明蚘しおいる。プラス評䟡の理由は、提瀺された具䜓䟋が明快だったからである。倧城宜歊による査読所芋党文

぀たり䞉人の評䟡は、现郚では異なっおも、かなり明瞭に収束しおいる。

  • 高床そうな思想家ず抂念を倧量に䞊べる。

  • それらを遞ぶ理由ず盞互の接続を説明しない。

  • 䞭心抂念の定矩を読者や査読者に再構成させる。

  • 先行研究ずの差分を瀺さない。

  • 抜象理論を具䜓䟋に適甚するず成功しない。

  • 理論を倖した埌に残る具䜓䟋だけは比范的分かりやすい。

これは「評䟡1の査読論文が䞀本ある」ず玹介しお枈む話ではない。もっずも奜意的な査読者でさえ理論構成の䞍明瞭さを認め、別の査読者は応甚の倱敗を指摘し、もっずも詳现な査読者は党面的改皿を芁求したのである。

7. 二十幎間、䜕も盎っおいない

ここたで来るず、2007幎の査読所芋ず2026幎の応答の察応関係は露骚である。

2007幎には、䞭心抂念の意味が明瀺されず、査読者が再構成した。2026幎には、HellieやLewisず䜕が違うのか瀺されず、批刀者偎に差分の掚枬をさせおいる。

2007幎には、先行研究を掗い出し、継承郚分ず独自郚分を区別せよず芁求された。2026幎には、その䜜業を瀺さないたた「誰も問わなかった」「史䞊初」ず宣蚀しおいる。

2007幎には、有名思想家を読者が知っおいお圓然ずし、知らない者を䞍勉匷扱いする暩嚁䞻矩的な語り口を批刀された。2026幎には、「たずあなたが粟読しおから。AIに聞く前に」ず返しおいる。

2007幎には、ネグリハヌト、ラカン、カントを䞊べながら、なぜその䞉者が必芁なのか説明できおいないずされた。今回の本では、仏陀、ナヌガヌルゞュナ、芪鞞、道元、カント、ベルク゜ン、フッサヌル、ハむデガヌ、メルロポンティ、ドゥルヌズ、ゲヌデル、チュヌリング、ホヌキング、南郚陜䞀郎らの名前が倧量に䞊ぶ。本人による登堎人物䞀芧

そしお、そこから〈私〉、〈空性〉、非思量、第四レンマ、無限遠点、察称性の砎れ、自由ずいう力が結合される。だが、その結合の必然性を尋ねられるず、公開の堎では「たったく違う」「粟読しおから」しか出おこない。

二十幎前の査読者は、この方法の欠陥をすでに蚀語化しおいた。思想家の有名性を暩嚁ずしお䜿い、説明を省略し、理解の負担を読者ぞ移す。その欠陥を党面的に改皿するよう芁求された著者が、改皿する代わりに、同じ方法を〈空性〉ず「史䞊初」でさらに肥倧化させた。

問題は博士号の有無でも、珟圚倧孊にポストがないこずでもない。そのような経歎から胜力を掚枬する必芁はない。

公開された査読所芋ず、本人が珟圚公開しおいる応答が、同じ欠陥の持続を盎接瀺しおいるからである。

8. どこから「スピ哲孊」になるのか

仏教を扱うこず自䜓はスピリチュアルではない。圢而䞊孊を行うこずも、䞀人称的経隓を探究するこずも、それだけではスピリチュアルではない。

哲孊がスピ哲孊ぞ移行するのは、次のような条件が重なったずきである。

  • 独自抂念の意味が怜蚌可胜な圢で定矩されない。

  • 先行研究ずの差を瀺さず「史䞊初」を宣蚀する。

  • 反䟋が出るたびに問いの意味を狭くする。

  • 理論ぞの批刀を、著者の党䜓系を理解しおいないせいにする。

  • 抂念間の論蚌されおいない飛躍を、「力」「次元」「創出」「無限」などの語で埋める。

  • 掚薊者、経歎、血統、著名人の名前を、論蚌ずは別の暩嚁ずしお配眮する。

  • 最終的な䞻匵が反蚌䞍胜な私的啓瀺になる。

氞柀本人は本曞の序文・玹介で、この本ぱッセむでも、哲孊・思想曞でも、研究曞でもなく、既存の哲孊や圢而䞊孊から独立した新しいゞャンルの「圢而䞊孊曞」だず説明しおいる。

さらに、〈空性〉が自由ずいう力を創出し、人間は今ここで無限ぞアクセスする「奇跡的な力」を持ち、〈私〉に぀いおの「未解読のメッセヌゞ暗号」を解読するのだずいう。

本人が研究曞でも哲孊曞でもないず蚀うなら、それ自䜓は自由である。詩、宗教的瞑想、私小説、思想的ナレヌションずしお曞けばよい。

しかし、既存の哲孊から独立した新ゞャンルだから通垞の論蚌を芁求するなず蚀いながら、同時に「哲孊曞史䞊初めお」「誰も問わなかった」ず哲孊史䞊の優先暩だけを䞻匵するこずはできない。

哲孊史の倖ぞ出るなら、「哲孊史䞊初」ずいう勲章も倖しお出るべきである。

反蚌可胜性も先行研究比范も捚お、私的な〈私〉が〈空性〉の力によっお無限ぞ接続する物語を語る。その物語を、哲孊者の固有名ず数孊・物理孊の語圙で暩嚁化する。

これは研究哲孊ではない。哲孊語圙によっお私的啓瀺を栌䞊げする、兞型的なスピリチュアル圢而䞊孊である。

なお、ここで蚀う「スピ哲孊」は、詐欺や違法商法を意味しない。そのような事実を瀺す蚌拠はない。問題にしおいるのは、批刀に開かれた論蚌ではなく、反䟋を吞収しお自己保存する私的䜓系を哲孊ずしお売り出す認識䞊の様匏である。

9. 宇倚倩皇も安田善次郎も査読しおくれない

氞柀のnoteプロフィヌルにはXにも、

宇倚倩皇安田善次郎末裔亡父が2代目非嫡出子

プロフィヌルが衚瀺される本人のnote


https://note.com/dharmazeroalph


ず曞かれおいる。

その系譜が事実かどうかは、本皿の論点ではない。事実だったずしおも、哲孊者ずしおの掻動には䜕の意味もない。

ある呜題が正しいかどうかは、宇倚倩皇の子孫が述べたか、安田善次郎の子孫が述べたかでは決たらない。先行研究ずの差分も、論蚌胜力も、祖先から盞続できない。

哲孊者ずしおのプロフィヌルに血統を曞くこずが果たせる機胜は、論蚌ずは別のずころから特別性の雰囲気を調達するこずだけである。

氞井均ず枅氎高志の掚薊も同じである。氞井均が独圚性をめぐる独自の哲孊を圢成し、哲孊者ずしお認められおいるこずず、氞井が垯文を寄せた本の哲孊史的優先暩が立蚌されおいるこずは別問題だ。

掚薊者は蚌拠ではない。

しかも「誰も問わなかった」ずいう垯文を、カント、ベルク゜ン、ドゥルヌズたで含む事実呜題ずしお解釈したのは著者本人である。したがっお、その解釈に぀いお説明責任を負うのも著者本人である。

著名哲孊者の掚薊、膚倧な登堎人物䞀芧、孊生時代の抜曞き写真、倩皇ず財閥に぀ながる血統。これらを呚囲に配眮しおも、欠けおいる論蚌は䞀行も補われない。

宇倚倩皇も安田善次郎も、査読者にはなっおくれない。

結論――哲孊語圙で䜜られた自己神話

この事䟋の問題は、奇劙な答えを出したこずではない。哲孊には奇劙な問いも答えもあっおよい。

問題は、問いず答えを他者が怜蚎できる圢にしないこずである。

「誰も問わなかった」ず宣蚀する。

反䟋を出される。

「問いが違う」ず蚀う。

差を尋ねられる。

「アプロヌチが違う」ず蚀う。

さらに説明を求められる。

「たず粟読しおから」ず読者偎ぞ負担を返す。

それでも反䟋が残れば、新芏性の所圚を問いから方法ぞ、方法から叙述圢匏ぞ移す。

これでは反蚌される可胜性が最初から存圚しない。哲孊的探究ではなく、自己神話を防衛する仕組みである。

しかも、その仕組みは今回初めお珟れたのではない。二十幎前の査読者は、説明のないゞャヌゎン、䞭心抂念の未定矩、先行研究ずの差分の欠劂、有名思想家を䜿った暩嚁䞻矩、読者を䞍勉匷扱いする語り口、最䜎限の論蚌手続きの欠萜を、すでに具䜓的に指摘しおいた。

評点は「−1」、党面的改皿が望たしい、だった。

二十幎埌の珟圚、著者は反䟋に差分を答えず、「たったく違う」「粟読しおから」ず応じおいる。

したがっお、これは䞀時的な説明䞍足ではない。公開された資料から確認できる限り、長期間維持されおきた思考ず蚘述の様匏である。

哲孊者の名前を䞊べ、山括匧を付け、〈空性〉、無限、自由、奇跡ずいう語を接続し、「史䞊初」ず宣蚀する。それに異議を唱える者には、䜓系党䜓を理解しおいないず答える。

それを圢而䞊孊ず呌ぶ自由はある。

しかし、先行研究を調べず、差分を説明せず、反䟋に応答せず、著者だけが理解できる特別な䜓系ぞ退避するなら、それは哲孊ではない。

哲孊語圙で食られた、スピリチュアルな自己神話である。

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