昨日見た地獄《14》
第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754
第13話→https://note.com/ra_wa/n/n840d1cd32173
世界の大半は、私が好きでも嫌いでもないもので構成されている。
成長とは、自分が自分でないなにかと共に生きる術を学ぶことだ。
かつて特別だったはずの夏を、数年たった私は空調の効いた事務室の中で過ごしている。
「蔵野。あんた、そろそろ来客対応やってみる?」
宮村室長が、少し遠慮しがちに声をかけてきた。
不要な電話をとることを厭う私だが、流石に所長や室長に会いに来るお偉方の使いや学者やらにお茶を点てるくらいのことはやってきた。
しかし、その辺りの雑務を新人の遊馬に任せる以上、私は私としてここの仕事を進めねばならない。
「室長。この場合の来客というのは、苦情対応でしょうか。あるいは、市民団体との折衝でしょうか」
「話が速いね。そんな感じ。あまりにヤバイやつはあたしが引き取るから。前の部署でも、似たようなことはしてたんでしょ?」
そういいながら、やはり少し緊張を感じる。
遠慮の原因は考察できる。それを苦に、また部下が離れたりしないか。
退職ひとり、休職ひとり。その前にも、色々と苦い経験があるのだろう。
「いや、初めてだからさ。苦手だとわかってることを頼むの」
宮村室長は頭をかく。
「みんなには、できるだけ得意な仕事をやってほしいと思うんだよね。だけど、遊馬とあんたの得意分野がわりと近いから、どうしても先輩のあんたに皺寄せをせざるを得なくて」
それは素晴らしいが。もしその方針が徹底しているなら、この方から離れた二人は、得意とするものはなかったのだろうか。
「あー、別に無理はしなくてもいいから」
ここで私が拒否したのなら、その分の負担はすべて室長が負うのだろう。
少なくとも、最近の様子を見る限り健全な環境ではない。
「室長。指示であれば、自信を持って明確に願います」
「……」
「私は、対面交渉が得意ではありません。しかし、命じられた役割は、つつがなく遂行いたします」
「ありがとう。変わったね、蔵野」
「特段、そのようなつもりはありませんが」
むしろ、調子を崩しているのは室長のほうだろう。
このくらいのことで、恩を返せるとも思わないが。
仕事の大半は、やりたくないことで構成されている。
それでも、役割に意味を見いだしてこなせるのなら幸福なことだ。
「そ。ま、それならいいさ」
宮村室長は、珈琲を淹れた。
「変わったのは、あたしの見る目かもしれないしね」
「お疲れ様です、蔵野さん」
18時42分の電車を待つホームで、蜜蜂は待っていた。
話したいことは多くあるのだが、今日は二人きりとはいかない。
「ええと、三橋さん……でしょうか。蔵野先輩の後輩にあたる、遊馬渚です。蔵野先輩から、お噂はかねがね」
遊馬は、ポケットで手を動かしたまま頭を下げた。
この後輩は、私の仕事の仕方を真似たがっているところがある。
ルーティンを聞かれたため、隠すものではないと回答したのが良くなかった。
一度、蜜蜂との帰り道に同席させてほしいといわれてしまったのだ。
「あぁ、きみが遊馬さんか。おれのことは、蜜蜂と呼んでかまわないよ」
蜜蜂は、少しこわばりながらも穏やかに笑った。なにか、遊馬と重なる属性の女性にでもトラウマを抱えているのだろう。想像に難くない。
「ふむ」
遊馬は軽く目を伏せ、ポケットの中から手を出した。
「ん? どうしたの?」
「バランスがいいな、と。蔵野先輩は、このくらいの高さの声が好みなのかと思いました。私に近いですね」
「……」
「……」
「すみません、独り言です」
初対面で声に言及するのは、彼女の対人の癖なのだろう。
確かに、男としては蜜蜂の声は高めだ。
失礼ともとられかねない独り言だが、蜜蜂は笑っていた。
「あはは、可愛い後輩ですね。なつかれてるようで何よりです」
「人間性についての不用意な評価はハラスメントとなりますので、差し控えます。能力としては、ムラもありますが悪くない」
「それ、かなりの高評価でしょう。遊馬さんから見たら、蔵野さんはどんな先輩なの?」
初対面で敬語呼びをやめるのは、私には真似できない。遊馬もいやがっている様子がないので、その辺りの境界線は問題ないようだ。
「蔵野先輩は、数少ない信頼できる方です」
「おー、いいなぁ。紗那江さん……宮村室長もいるし、いい職場だね」
「まあ、そうですね」
遊馬は少しだけ声を落とした。
なぜ、この後輩は室長には不信感を見せるのだろう。
蜜蜂はその辺りを読み取ったらしく、話題を切り替えた。
「えっと、遊馬さんってさ。話を聞いてると蔵野さんにちょっと似てるなって思ってたんだけど、やっぱり毎日のルーティンとか決めてたりするの?」
「先輩と近いというのは光栄ですが、私はさほど几帳面じゃないです。その日の気分で、やることを決める感じですね」
「へー」
私は、こういう探り合うような雑談が苦手だ。蜜蜂はわからないが、遊馬もあまり得意ではないだろう。
それでも、一種の通過儀礼のようにこの気まずさを通じて、人は関係性を築いていく。
「蜜蜂さんはデザイナーさんって聞いてます。今度、作品を見せてもらえませんか?」
「お、興味ある?それじゃ……」
なんにせよ。
今日は、蜜蜂と話すことはできなさそうだ。
✕✕✕
『ああ、きみが遊馬さんか』
今日手に入れた男の音声を、咀嚼するように再生する。
三橋千尋(みつはしちひろ)。蜜蜂。
とりあえず、ひどく不快な男ではない。
蔵野先輩が友人とするにはやや不足があるが、まあ及第点だろう。
女でなくて良かった。私の先輩への敬意がそういう形でないとしても、やはり気分の良いものではない。
上司の宮村と比べれば、ずいぶんと礼儀がある。私に対する濁りが薄い。
善意だかなんだか知らないが、配慮されるというのは見下されることに近い。そういうのは、自分が認めた相手にしか許したくない。
三橋は、ひどい臆病者だ。その上で、恐れを作品に転化している。
私も臆病者だから、少しだけ近く思える。
「画家にはならないんですか?」と、帰り道に聞いてみた。
「現実的に生きていかなきゃならないから」と、三橋は軽く言った。
大嘘つき。現実的に生きている人間が、こんな作品を描くものか。
三橋が仕事で作ったものとは別の画に、私はたどり着いていた。
私は、調べるのが好き。
蔵野先輩の高校の部活も、宮村の破綻した同棲生活も、少しのヒントからたどるのが楽しい。
本当のことを知る前の断片から、物語を勝手に紡ぐのが好き。
完全に外れないための錨として、声を手元に置く。
だけど、三橋の声は、錨として置くまでもないかもしれない。
最近描いたとおぼしきあの作品が、きっと彼のすべてだから。
三番線のホームが津波に飲まれ、天使がそれを見て笑っている。
『地獄』と名付けられたそれは、私からコインを投げさせる気を奪っていた。
第15話→https://note.com/ra_wa/n/n99104cb2ceca
