昨日見た地獄《12》
第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754
第11話→https://note.com/ra_wa/n/n197db118269e
雨は好きで嫌い。
頑張れない理由を、与えられる気がするから。
目の奥がひどく重い。起き上がる頭が、くらくらする。
今日から新しい環境だが、逃げ道はよそにも確保している。
嫌ならすぐにやめてしまえる、そう思える立場は気が楽だ。
いつもどおりコインを投げる。表が出たら、朝御飯を食べなくて良いことにしている。
コインは私の手をこぼれて、優しく裏側の顔を向けた。ほっとしたけど、なんとなくいつもと違う気持ち悪さがあった。
仕方ないな。
私はスマホを取り出し、もう一つの日課をなぞる。
『渚ちゃん』
機嫌がいいときのママの声。機嫌が悪いときのことまで、思い出してしまう。
『あっすー』
調子のいい高校の友達。彼女のわがままに振り回されて、私は我慢するのをやめた。
『お前』
にやつき顔が気持ち悪いサークルの先輩。下心から優しくされるのは、優越感と気持ち悪さがあった。
『ねえ』
作り笑顔と化粧が下手な最初の指導係。無能を取り繕う努力をする暇があれば、中身を鍛えろと思った。
『きみ』
癒しボイスの配信者。甘くて心地いいけど、それは私を見て向けられたものじゃない。
声は、全てを教えてくれる。感情も、体調も、汚さも、記憶も。
けれど、それらは結局、面倒くさい分析に塗りつぶされる。
ランダムで再生する録音音声は、私の占い。
当たりなど、そこにはほとんど入っていない。
だけど、違う。今ほしいのは、そういう結論じゃない。
『遊馬さん』
新しい、指導係の先輩の声。低くて落ち着いて、私好みの声。
戸惑い、緊張、警戒、観察。
彼の声から読み取れるものは、立場上当たり前のものだけだ。
不必要に近寄ろうとする粘度も、自分をよく見せようとする圧もない。
少しは、ましな人なのかもしれない。そう思おうとしている自分がいる。
蔵野先輩はきっと、朝御飯を抜くなんて考えない。
食パンをひとつだけ、何もつけず焼きもせずに食べた。
✕✕✕
雨はあまり好きではない。人の流れが、滞りやすくなるから。
私はこれまでより三分早く出発するようになった電車を、蜜蜂と共に待っている。
「ほら、やっぱり懐かれちゃったじゃないですか」
蜜蜂は、他人事だからと楽しそうだ。
「おれは蔵野さんと仕事をしたことはないですけど、自分の指導係が蔵野さんだったら怖いか頼もしいかのどっちかだと思います。その子は、後者だったみたいですね」
ただの印象論。まだ、顔合わせで少し話をしただけだ。
実際に仕事をしてみなければ、お互いのことはわからない。
それは、私の仕事ぶりを知らない蜜蜂についても同じことがいえる。
「宮村室長への不遜な態度はいただけません」
私は、現実的な遊馬の失点を指摘した。
「相手を値踏みして態度に表す姿は、当人でなくとも聞く相手に不快感を与えます。共通の不満で盛り上がる文化もあるようですが、少なくとも公的な場で好ましい態度とは言えません」
「それはそうですね。大学生でもないんだし、お役人さんなんてその辺ちゃんとしてるもんじゃないんですか? 先輩として、指導すべきところです」
「指導しても、良い効果は期待できないでしょう」
私がこのような弱音を吐露することは少ない。
しかし、蜜蜂にはそうさせてしまう何かがある。
「自分の基準が強い人間は、合理的な理由と自らの納得が揃わない限り、他人の叱責を受け入れない。私もそのような傾向がありますから、わかります」
「子どもっぽいですね」
「ええ。大人の幼稚な歪みほど、改善が難しいものはありません。単に秩序の維持という理由だけでは、表面上の態度を改める以上のことはできないでしょう」
これも、印象論。ただの傾向であり、遊馬本人を見ているものではない。
しかし、この類のものは、見通しを誤ったときにそのことを教えてもらうことはできない。
やはり、私には指導役は荷が重い。自分でも正解がわからないものを、教えることなどできない。
正解がわかっているものすら、部活では教えられなかったというのに。
「考えすぎてませんか?」
蜜蜂は、少し心配そうにこちらを見つめる。
「表面上改めるなら、それで良いんじゃないですかね?」
「ほう」
この男はトラウマにまみれているくせに、妙に楽観的な示唆を与える。
「蔵野さんがいう通り、人を変えるなんて無理ですよ。好き嫌いなんてなおさらです。その遊馬ちゃんは話を聞く限りだと賢い子なんでしょうから、業務に支障を来すようなことはしないと思いますよ」
「命令一元化の原則、などとのたまっていましたが」
「蔵野さんなら処理できるでしょう? たぶん、その辺も見越して甘えてるんだと思います。思うところがあるのに指摘しないで抱えるとか、蔵野さんらしくないですよ」
「……なるほど。私は、思った以上に室長に当てられていたようです」
「紗那江さんに?」
「自分が尊敬する相手は、他の人間にも慕われていてほしい。問題は遊馬以上に、エゴを押し付けようとしていた私にあったようです」
「……やっぱり、年上好きなんですか?」
「そういう感情ではありません。恋愛など、とんと私には縁のない話です」
「紗那江さんはみんなに好かれてましたけど、蔵野さんの忠誠ぶりはそう勘違いされても仕方ないと思いますよ。本当にいい関係なんですね」
今日の蜜蜂は、なんだか機嫌が良さそうだ。
「蜜蜂さんは、恋人などは?」
「恋愛なんて、トラウマの宝庫じゃないですか」
「難儀ですね」
「ええ。でも、最近ちょっとだけいい感じの人はいるんですよ」
「それは素晴らしい」
「夢の中でしか、会えませんけど」
ふっと、蜜蜂の瞳が闇をたたえた。
朝にみるには、少しばかり陰鬱な色をしていた。
***
「おはようございます」
いつもの珈琲の香り。しかし、執務室の雰囲気は少しゆるやかだった。
「おー、蔵野、おはよう。遊馬さんはさっき着いてたぞ」
「彼女は、失礼を働いてないでしょうか」
「お前、あたしのこと大好きか。朝イチで失礼もなにもないだろ。これからは、むしろお前が遊馬さんを守るんだよ。上にばかりペコペコしてると嫌われるぞ」
そうはいうが。
さん付けで呼んでいるあたり、室長は明らかに遊馬に気を遣っている。
私の机の上には、落雁が二つ置かれている。
「それ、遊馬さんからの挨拶だってさ。珈琲には合わないから、蔵野が食べといてくれ」
和菓子は確かに緑茶と共に食べろという顔をしているが、珈琲にも合わないことはないだろう。
遊馬の転入の話があってから、ずっと室長の様子はおかしい。
「蔵野」
「はい」
「ごめんな。あたしには、お前らを救う術がない」
「不明瞭なことを仰られても、返事のしようがありません」
「そりゃそうだ。なあ、蔵野。来季の異動であたしがいなくなったら、どうする?」
組織である以上、当然にありうることだ。
しかし、室長のポストは少し特殊であり、異動先の枠も限られている。何より、相次いで欠員が出るこの部署を三年間回せているこの方の後任は、半端な人材では勤まらない。
「私は、誰のもとであろうとやるべき仕事をこなすだけです」
「だな。安心した。じゃ、後任よろしく」
「は?」
「冗談だよ。頼りない後任が来たら、実質お前が回せるようにしとけってことだ。指導しながらは大変だとは思うけど、そろそろそういう視点でも仕事を教えていくから」
「その業務量は、時間内に収まりそうにありません。残業は嫌いです」
「知ってるよ。だから、ごめんな」
よくわからない会話が収まったころ、遊馬が執務室に入ってきた。
「おはようございます。本日から、改めてよろしくお願いします」
きれいに整えた前髪と、前より少しばかり上気した笑顔。
遊馬なりに、気合いを入れてきたようだった。
片手だけは、やはりポケットにいれたままだが。
「おはようございます。まずは端末の設定を一通りすませましょう」
「いえ。宮村室長にいただいた引き継ぎ資料をもとに、既にアクセスできるようにしております。定型的な仕事については、一度私の力で取り組んでみますので、あとでご確認いただけますか?」
ずいぶんと前のめりだ。
「……わかりました。意欲があるのは頼もしいですが、最初から頑張りすぎると息切れしますよ」
「はい。気を付けます」
爛々と輝く彼女の目は、朝に見た蜜蜂のそれとよく似ている気がした。
第13話→https://note.com/ra_wa/n/n840d1cd32173
