昨日見た地獄《20》
第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754
第19話→https://note.com/ra_wa/n/n170119c92dd2
煙草を吸わなくなったのは、いつからだっただろう。
まだ日が高い雨上がりの空の下で、電車に揺られている。
「室長。体調回復のためにも、大事を取って午後はお休みください。熱が出ているようであれば病院へ」
蔵野のやつ、まったく生意気言いやがって。
これ以上一緒にいたら、本当に母親みたいな気持ちになる。
遊馬もきっと、何だかんだで大丈夫。かなり拗らせているが、賢い子だ。そのうち、あの程度の難儀さは乗り越えられる。
なにより、遊馬を上向かせるのはあたしじゃなく、蔵野の仕事だ。
だから。
あの職場にあたしがとどまりたい理由を探すなら、あたしの内側に求めるしかないんだ。
「久しぶり。白衣の悪魔くん」
「久しぶり。俺の診察を予約なしで受けられるのは、きみくらいだよ。相変わらずだね、シャナちゃん」
「よく言うよ。そっちは大分老けたんじゃない? 呉将」
かつてのパートナーに向き合う。
診療室みたいな、白い会議室。
「今日は休みだったんだけど。見たい映画があって」
「その映画と、久しぶりのあたしからの連絡、どっちが面白そう?」
「シャナちゃんだね。わかってて聞くなんて、ずいぶんずるくなったもんだ」
紗那江だから、シャナちゃん。
あたしをそんな風に呼ぶのは、この男だけだ。
「で、用件はなんだい?」
「病んだ。治して」
「直球だね」
「あんたに回りくどく説明しても仕方ないだろ」
「さすがに情報不足すぎるよ。それに、プロとして代金を求めないと不公平だ」
「夜まであたしを好きにしていいよ? それが代金」
「ふーん。自暴自棄とか、大分重症だな」
不快感も下心も見せず、呉将は淡々とメモを走らせる。
「冗談。金は払うよ。今さらこんなおばさんの体なんか、報酬にならないよね」
「そんなこともないけど、旦那さんに悪いでしょ」
「嫌味か。独り身だよ」
「えー? まじかぁ」
今日一番の驚き顔をされた。ムカつく。
「話してみてよ。患者の要領を得ない話は疲れるけど、シャナちゃんのためなら我慢してあげるから」
「ありがと」
あたしは、一つずつ話した。
千尋くんのこと。シマが殺されてしまったこと。
転職して、なんとか生きてきたこと。
職場に来なくなってしまった人たちや、可愛い部下のこと。
そして。
どうにもこのところ、苛立ちがおさまらないこと。
「蔵野……あ、男の部下ね? あいつはなんか、責任感みたいに言ってくれたけど、それだけでこんなになるとも思えなくてさ。頭も痛いし。更年期かなんかなのかねぇ」
呉将は、あたしの話をまばたきもせずに聞いていた。
やがて話を聞き終えると、パチンとメモを閉じて3回瞬きをした。
「よし。それじゃ、一つずつ片付けようか」
この口癖も、懐かしい。
「まずは簡単なところ。休んでいたりやめちゃったりした部下の話。これ、シャナちゃんが自分でわかってるでしょ? 蔵野くんの尊敬が、仇になったね」
「あんな懐かれたら、なかなか言い出せないじゃん」
「じゃ、代わりに言語化するよ。本来きみは、誰にでも面倒見が良いキャラじゃない。いや、それはちょっと違うな……『自分が気に入った相手につい入れ込んで、それ以外の扱いが雑になる』。うん、そっちの方が正確。つまりは、贔屓をしがちってことだ」
そう。あたしは、別に優しい人間なんかじゃない。
理解したくない相手には、踏み込まない。
「だからって、露骨に差別したつもりはないんだけど」
「正直者だからね。当たり障りなく扱ってるなって、見る人が見たらすぐわかるよ。悪く扱うことはなくとも、熱量が低い。その遊馬さんっていう女の子も、その辺が気に入らないのかな」
……
蔵野が来る前、執務室には三人の部下がいた。あたしはそのうちの一人に、よく懐かれていた。
だけどあの子は、あたしの経歴に興味を持っていただけらしい。丁寧に仕事を教えていたけれど、そのうちに転職でいなくなった。
ひとり欠けたところで、前の職場に比べれば大したことのない業務量だった。しばらくはうまく回っていたけど、可も不可もない扱いをしていた残り二人の部下は、やがてぷつりと休みがちになった。
「無理しないでね」と慰めたとき、にらまれたことが忘れられない。
「今さらなにを言ってるんですか。誰のせいで、無理をしたと思ってる」
思えば、彼らなりに努力して食らいついていたことに、あたしは気づいてあげられてなかった。だって、なにも言われなかったから。
手遅れの優しさなど、気持ちが悪いだけだった。
人事の矢口くんに、補充人員の希望を伝えた。
「あたしのもとで潰れない子。むしろ、潰してきたくらいの子を寄越してほしい」
矢口くんは、「適任がいます。癖は強いですが、二人分は働けますよ。期待の成長株ですので、どうか鍛えてあげてください」とにこやかに返した。
……
「で、大当たりだったんだね。もうその子食べちゃえば?」
「歳考えろ。つーか、あんたにだけは言われたくない」
「はいはい。それで、気に病んでると。シャナちゃんは優しいね。無能が淘汰された、終わり。上司として明確な瑕疵がないなら、それでよくない? 大人になってまで、なにも言わなくても保護者には不調に気づいてほしいなんて考えの方が甘えてるのさ」
遊馬と似たような理屈を、呉将は笑いながら言った。
「だいたい俺達は、救えなかった人間を数えきれないほど見てきたじゃん」
「あたしは、その度に泣いて飲んで吐いてきたよ」
「煙草をふかしたり、ね。わかりやすくて、誘いやすかったな」
「茶化すな。ま、今さら考えても仕方ないってのは、あんたの言う通りかもね」
「で、次。蔵野くんと遊馬さん。これは、単に親離れが淋しいんだね」
「……そうだよ」
「素直でよろしい。実際、次はどの辺に行きそうなんだい?」
「似たような出先機関じゃないかな。あたしが決めることじゃないし」
「やめちゃえば?」
「は?」
「シャナちゃんを欲しがるとこなんて、たくさんあるでしょ。なにせ、俺のフォローができたくらいなんだから」
「簡単に言ってくれるね」
「俺のとこに来てもいいよ」
目が合う。
お互い、冗談がうまい方ではない。
「本気?」
「本気。うるさい親も死んだし、後継のクリニックは育ててるし」
「子どもは?」
「死んだ。元々生まれてきたのが奇跡なくらい弱い子だったんだけど、やっぱり持たなかった。そのときのゴタゴタで、嫁も離れた。俺が泣けなかったせいだろうね。ここまで冷たい人だと思わなかったって」
「……そっか」
「俺もまた、役割を果たせなかった。だから、あのときより俺は自由だ。せいせいしてる」
「嘘付け」
「かもね。なんにせよ、俺には似合わない感情だ」
あたしは、呉将をひっぱたいた。
「患者にこれ以上悩みを増やすな」
「だね」
はあ。結局、あたしの好みは一貫してるんだろうな。
「今の話は、保留。あくまで、スタッフとしてだけど」
「ありがとう。それじゃ、次。本題に行くね」
呉将は、家族を失った話をしたときよりも悲しげな目であたしを見た。
「シマの話。三橋千尋の話。そして、シャナちゃんの地獄の話だ」
第21話→https://note.com/ra_wa/n/nc8858a14eb2e
