昨日見た地獄《21》
第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754
第20話→https://note.com/ra_wa/n/n3732e4e10d15
あたしは、コーヒーが飲めなかった。
それでも、夜勤の最中は眠気が襲う。
栄養ドリンク剤は太るから嫌なんだけど、そうも言っていられない。
「苦いのがダメなのに、煙草は吸えるんだ」
呉将が笑っているところを、あの日初めて見た。
白衣の悪魔。
機械のように淡々と、患者を的確にあしらう男。
決まった時間で診療を切り上げ、必要な薬を処方して、大きな分析が必要ならばさっさと病院に繋ぐ。
誰でも良いから話して整理したい、という欲望には、相談窓口を的確に手配する。
たらい回しのように扱われた患者から恨まれたりもしていた。
しかし、そのこぼれた相手のフォローと、莫大な研究成果に触れたあたしにはわかる。
彼は、より多くの人を救いたいと願っている。
自分の手の大きさと、研究がもたらす効果を較量して、少しでも多くの人の闇に晴れてほしいと願っている。
あくまで、その勤務時間の合間で、だけど。
「いや、かっこよく言いすぎでしょ。紗那江さんみたく、頼りがいのあるお姉さんの方が求められてるよ」
「でも、呉将くんはあえてそうしてないだろ」
「まーね。ここが居心地よくなるってことは、ここに依存するってことに近い。その甘えに付き合ってたら、本来診るべき相手を診る時間が奪われるから」
「ふーん。クールだね」
「あのさ、煙草って美味しいの?」
「不味い。失敗の味がする」
「俺も吸おうかな」
「やめときな」
「じゃ、紗那江さんがコーヒー飲んでよ」
「なんで?」
「同じ目線でいたいから」
***
呉将の家に初めて来たときから、シマはあたしによく懐いてきた。
「おー、スゴいな。俺が女の子連れてくると、いつも逃げるんだけど」
「猫にはわかるんじゃない? 人柄とか」
「そうかもな。こいつ、俺にもあんまりくっつかないし」
呉将は眉一つ動かさなかった。あたしを口説いたときと同じだ。
「シマは、なんか俺の鏡みたいに思う。俺が騒げない分を、代わりに騒いでくれるんだ」
「ふーん。じゃ、あんたもあたしに懐いてるんだ」
「うん」
「……少しは照れなよ」
「効率悪いじゃん。わかりきってることだし」
あたしが子どもを作れないと知って、二人の関係は終わった。
もっと、治療やら、やりようはあったのかもしれない。
だけど、二人の間にあるのがそういう現実的なしがらみに先立たないことに、あたしの方がどこかで萎えてしまったんだ。
呉将はシマをあたしに預けた。
それはシマのためでもあり、あたしのためでもあり。
ただ鏡を借りてあたしに懐いていられる、あいつ自身のためだったのかも。
だから、健忘症の親にくっついてきた少年が、シマの最期を知らせてきたとき、ふっとあたしを守るものがなくなった気がした。
「絵を、見たんだ」
「言ってたね」
「針で、ぐちゃぐちゃ、に」
「無理に思い出さないでいいよ」
「痛かったよね。苦しかったよね。あたしは、助けられなかった」
「……」
「あたしは、あのとき初めて。人を殺してやりたいと、思っちゃった。呉将くんの信念の、逆のことを。そんな奴が、もう現場に関わっちゃいけないと思ったんだ」
頭が熱い。
あたしは、泣いているんだろうか。
「蔵野がね。千尋くんに、怒ったんだ。本音を話して謝り合わなきゃ、意味がないって。そこで、千尋くんがシマをさらったことを教えてくれた。悪くない。誰も、悪くないんだ」
「いや、悪いだろう。さらったことも、トラウマを安易に刺激されたことも」
呉将は、眉一つ動かさない。それでも、患者相手であれば黙って聞く男だから、口を挟んできたのは意外だった。
「それでも、あたしは大人だ。まだ未熟な蔵野のことも、幼かった千尋くんのことも、責めてもどうにもならない。なにより、シマは帰ってこないんだ」
「そんな理屈でどうにかなったら、俺たちの仕事は楽だろうね」
「わかってる。それでも。なんとか好きになろうとして、最近は千尋くんの作品を見たりしてる。地獄、だってさ。あはは。せめて、健全に育っていてほしかったよ」
「……」
「なんかさ。それからずーっとあたし、おかしいんだ。あのときの地獄が、頭のなかにちらついてる。なんだか、いろんなことが馬鹿馬鹿しくなってる」
呉将はあたしの話を、まばたきせずに聞いていた。
だけど、彼はメモを取り出さず、代わりにあたしの手を握っていた。
あぁ、そっか。
あたしは、ずっと。
「シャナちゃんは、怒っていい。幼くていいんだ」
誰かに、代わりに泣いて欲しかったんだ。
「吸う?」
呉将は、あたしに煙草を取り出した。
「会議室で何言ってんの」
「だから、河岸を変えて。俺の家とか」
「その手には乗らないよ。でも、お酒は飲みたいな。つーか呉将くん、煙草吸うの?」
「子どもが死んでから。確かにこれは、失敗の味だね」
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