💟検証 元伊勢伝承!-崇神王朝の正体-皇祖神からの伝言
🎀串呂哲学研究ノート 第239号
元伊勢伝承とは
元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風クシロ構築の旅であり、各地の産土神(地霊)に神風クシロ構築計画への協力を呼び掛ける遊説であった。元伊勢クシロは神風クシロである。天照大御神が、伊勢にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだった!


💟検証・元伊勢伝承!
今回は、「記紀」および「神皇記」を深読みし、元伊勢伝承を徹底検証して、崇神王朝の正体に迫ってみたいと思います。
この検証で、皇祖神が、なぜ、串呂を構築したのかという理由が理解できるかと思いますし、崇神王朝で起きた事件が、我が日本国の浮沈に関わる重要問題でもあることまで掘り下げてみたいと思います。
1、元伊勢内宮の串呂
前号の「元伊勢内宮と金崎神宮との串呂」で「天照大御神が大江町内宮に4年間駐屯された目的は、この串呂を構築する為だったと言っても過言ではありません。」と申上げました。(下記の串呂です。)

🟧[上村上]-[天王]-[三浦]-[元伊勢内宮]-[大君]-[金崎神宮]

下記が、元伊勢伝承・元伊勢クシロについての研究結果です。非常に重要な事項ですので、繰り返してお知らせしています。
元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風クシロ構築の旅であり、各地の産土神(地霊)に神風クシロ構築計画への協力を呼び掛ける遊説であった。元伊勢クシロは神風クシロである。天照大御神が、伊勢にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだった!
三浦芳聖が解明した「元伊勢内宮に関する串呂」は、他にもありますが、この串呂が一番重要な串呂です。
2、検証・元伊勢伝承!
元伊勢伝承について、『元伊勢- Wikipedia』には、下記のように記載されています。これが現在の通説なのですが、これから、その内容を検証してみたいと思います。
伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。
(『元伊勢- Wikipedia』)
(1)同床共殿について
🟡まず、皇祖神(天照大御神)は『第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であった』は、大和朝廷に都合良く書かれた「偽りの歴史」であると指摘します(偽史です)。
天照大御神は、崇神天皇の5年までは、富士山麓の皇祖の神廟「高天原宗廟天社大宮阿祖山太神宮」でお祭りされていたのです。同床共殿にお祭りしていたのは、富士大宮司だったのです。(「神皇記」)
崇神天皇の五年、天皇は無謀にも富士の天都(高天ヶ原)より天照大神の神霊を奪取し、皇居の近くの笠縫の地(奈良県磯城郡大三輪町茅原)に新宮を建てて此処に奉遷する。そして、これを「天照皇太神宮」と呼ばしめ、これまで富士高天ヶ原にあった皇祖の神廟は、これを古宮と称させてしまった。
(2)皇祖神を畏怖した理由は?
🟡また、「その状態を畏怖した同天皇」とありますが、「記紀」には、崇神天皇の御代になって、なぜ皇祖神を畏怖(おそれおののく)しなければならなかったのか、その理由が書かれてありません(隠蔽です)。
真実は、崇神天皇の御代に天照大御神の神霊を奪取して宮中で祭祀した所、皇祖神は、天照大御神の遺勅を守らない神定憲法違反と崇神天皇を御咎めになり祟ったのです。(「神皇記」)

(3)歴史の偽造、隠蔽、改竄が行われた
🟡「記紀」には、「神皇記」に記載されている「崇神王朝に都合の悪い」前段が削除されていたのです。歴史の改竄であり、隠蔽であり、偽造です。
⭕ただし、歴史を書いたのは「記紀」を編纂(後に改竄)した7~8世紀以降の人々ですから、実際は、崇神王朝に都合が悪いというより、奈良王朝あるいは平安王朝は「富士王朝の存在」を認めたくなかったのであろうと思います。「記紀」には富士山についての記載が何もありません。無視です。
(4)崇神王朝の祭祀を拒否した天照大御神
🟡その後、崇神天皇は、皇女豊鋤入姫に皇祖神(天照大御神)を託して、倭国笠縫邑で33年間もお祭りしたのですが、崇神天皇の39年に、皇祖神(天照大御神)は、崇神王朝に祭祀されるのを拒否し、笠縫邑を出発し各地を巡行されたのです。(年数は春秋二倍暦であったことに注意、実際は2分の1)
これは、天照大御神の御霊代である御鏡を、富士阿祖山太神宮から大和地方に奉遷した後、笠縫邑で33年間も、御鏡(天照大御神の神霊)の自由を拘束していたとも言えます。
崇神王朝は折角手に入れた大事な「神宝」を手放したくなかったのでしょうが、御鏡の各地巡行を許可しなければならない逼迫した事情があったものと推測できます(記録はありません)。
伝承によれば、第10代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、それまでお祀りされていた倭笠縫邑(現奈良県桜井市三輪)をお出になったといわれます。(元伊勢内宮 皇大神社)
(5)崇神天皇の正体は?
🟡天照大御神は、崇神王朝の守護神となることを拒否された訳です。上記で考察した事を踏まえ、「記紀」および「神皇記」を紙背に徹して深読みしますと、状況証拠から、崇神天皇は天照大御神の皇孫ではなかったのではないか?と思われるのです。
下記がその状況証拠です。
⭕崇神王朝以降、大和朝廷は、天照大御神を敬遠して来たのです。その証拠には、明治時代になるまで、歴代大王・天皇の中で、誰一人として伊勢神宮に参拝したという公式記録はありません。
(唯一の例外は、天授元年/1375年の長慶院法皇のみ、非公式)
⭕ヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本』(1948年)には、
大和王朝は海外からの侵略王朝であると明記されています。
私達は、この認識が世界の常識である事を知らねばなりません。
⭕鹿島曻著『日本王朝興亡史』(新国民社、1990年)では、
第10代崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)は、扶余王依羅と断言しています。
崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)=扶余王依羅=イリ王朝
崇神天皇の子女の名前に「いり」が入っている。
*第11代 垂仁天皇(いくめいりびこいさち)
*崇神天皇 皇子 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
*崇神天皇 皇女 豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)
*崇神天皇 皇子 大入杵命(おおいりのきのみこと)
*崇神天皇 皇子 八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)
*崇神天皇 皇女 渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)
*崇神天皇 皇女 十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)
⭕上田正昭(京都大学名誉教授)は、『国史大辞典』で「北方大陸系の騎馬民族が征服王朝を樹立したとする騎馬民族征服王朝説では、騎馬民族の後裔である崇神天皇に象徴される勢力が北九州に入って第一回の建国をなし、北九州から機内に進出した応神天皇によって第二回の建国がなされたと解釈する・・・。」とあります。
⭕水野祐 (歴史学者)は、『日本古代王朝史論序説』(1952年初版、1954年増訂版)において万世一系を否定し、日本の古代王朝は単一王朝ではなく、古王朝(先王朝と崇神王朝(崇神 - 仲哀))・中王朝(仁徳王朝(応神 - 雄略)と後仁徳王朝(飯豊))・新王朝(継体王朝)の三王朝が交替したとする、いわゆる「三王朝交替論」を提唱した。
⭕最近の研究では、高句麗系の史書、渤海国史「大震国本紀」(桓檀古記)の記事が引用されています。
正州は依慮の国都とする所なり、鮮卑・慕容廆のために敗られ、憂迫して自裁せんとし、忽ち念ず。「我が魂、尚未だ泯びざれば、則ち何ぞ往きて成らざらんか」と。密かに子・依羅に噣ね、白狼山を踰えて夜海口を渡らしむ。従う者数千、遂に渡り倭人を定めて王と為る。自ら三神の符命に応ずと為すを以て、群臣をして賀儀を献ぜしむ。或いは云う「依慮王、鮮卑の為に敗られ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて北沃沮を保つ。明年、子・依羅立つ。事後、慕容廆、また復び国人を侵掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え遂に倭人を定めて王と為る」と。
⭕海外から数千人も異民族が侵入してくれば、それまで国内には無かったウイルスで疫病が蔓延し、多くの人民が死亡した理由も説明が付きます。
⭕扶余民族の習慣
夫余の風習としては、天を祀る祭日には、酒を飲み踊る。これを「迎鼓」とよぶ。衣服の色は白を好み、身分の高い者は金銀の飾りが付いた帽子をかぶり、毛皮を羽織る。死者の埋葬法には槨はあるが棺は無い。貴族が死ぬと一〇〇人もの殉死者を葬る――などがある。/このように、夫余では牧畜は行なわれていないが、スキタイ以来の北方騎馬民族の遺風が色濃く受けつがれていることは確かである。これは漢民族の中国人社会とは異なるもので、「蛮夷」の民として描かれている。後に見るように、この伝統は朝鮮の高句麗・百済の王朝に継承され、伽耶国を経てヤマト王朝にまで伝来していることがわかってくる。
(澤田洋太郎「伽耶は日本のルーツ」76頁)
⭕崇神天皇 吉備国 在住説(崇神天皇東遷説)
地名学に基づく古代史研究家である丸谷憲二さん(黄蕨の会代表)は、岡山県瀬戸内市長船町長船天王にある「⛩️靭負神社」は、旧社名を「⛩️崇神天皇社」といい、ここに崇神天皇の皇居が存在したと主張しておられます。
🟣瀬戸内魅力物語「百枝八幡宮より見える吉備国の古代史」
⭕女系天皇を嫌う皇室
伝統を重んじる皇室は、天皇位の継承について、男系による継承を重んじて来ました。ところが、皇祖神天照大御神は女神様であります。男系による天皇位の継承にこだわるのは、天照大御神の系統ではなく、渡来王朝(騎馬民族)の証拠ではないでしょうか。
⭕崇神天皇=扶余王依羅説が論文になりました!
記紀の深読みと考古学の資料による「崇神天皇扶余王依羅説」が述べられています。
(6)各地巡行の目的
🟡また、天照大御神の各地巡行の目的は、元伊勢クシロ(串呂)構築の為であり、これまで通説とされて来た「理想的な鎮座地を求めて」ではありません(理解不足)。
まず、天照大御神が、理想的な鎮座地を求めて各地を転々としたなどと考えるのは、天照大御神の万能無限の偉大さを知らない人の云うことです。
また、元伊勢クシロ構築とは、神風クシロ(串呂)構築の為であり、皇城守護の結界を構築する為ではありません(極秘で構築・クシロ違い)。
崇神王朝に祭祀されるのを拒否して、笠縫邑を出て各地を巡行することになった天照大御神が、皇城守護の結界を構築するはずがありません。(勘違い)
天照大御神は、異民族に33年間も拘束されていた「ストレス」を癒すため、遠祖ゆかりの丹波の地へ緊急避難したのだと考えると、この間の状況がよく理解できるのです。
(7)串呂構築は皇祖神の悲願
このように、歴史とは戦争の勝者に都合の良いように編纂されていることを理解し、崇神王朝(後継の大和朝廷)に都合の良いように書かれてきた歴史の偽りを正さないと真実の皇統史は分かりません。
日本の皇統が、神武創業以来、一系で続いているという認識は、勉強不足です。
鹿島曻著『日本王朝興亡史』(新国民社、1990年)には、「明治第八王朝論」という副題が付いているくらいです。
こうした欺瞞に満ちた人間社会に於て、皇祖神(天照大御神)は、「いかなる権力者にも破壊されない皇統史を書き残したい!天照大御神の嫡皇孫が、誰であるかを明らかにしたい!」と各地を遊説し、さらに長期間かけて苦心惨憺の末に構築されたのがクシロ(串呂)なのです。
元伊勢クシロ(串呂)の構築は、「我が嫡皇孫を明らかにしたい!」という天照大御神の悲願なのです。
💖このクシロ(串呂)構築計画には、皇祖神としての「やさしさ」が見られます。天照大御神は、長期間忍耐することで、富士王朝と大和王朝の二つの皇統が「Y字」のように、一本になるよう計画されているのです。
3、内宮と牧平大門の串呂

真実が明らかになる日を、今か今かとお待ちの「天照大御神」をお祭りする⛩️皇大神宮内宮は、神風クシロの根拠地(基点・起点)です。
これまで多くの「⛩️内宮を起点とする串呂」をご紹介しました。
🟩今回は、その中で、天照大御神の悲願であった、大和王朝と富士王朝の二つの王朝の融和を表わす串呂をご紹介します。
上記の「二見浦夫婦岩」は、両朝の皇統が婚姻によって、既に融和したことを表わす地文(記念碑)なのです。
下記は、三浦芳聖の結婚の串呂図ですが、同時に、大和王朝の嫡皇孫・第百代・大宝天皇と富士王朝の嫡孫・三浦佐久姫の婚姻によって、両皇統が「Y字」のように、一本に撚り合わされたことを昭示する串呂です。
大宝天皇は、後醍醐天皇から代々継承してきた「三種の神器」(形代)を、富士王朝の嫡孫・三浦佐久姫の元へ返却に来たわけです。

⛩️内宮-二見浦夫婦岩-佐久島-大和王朝蒙塵の地・牧平大門
天照大御神は、異民族による征服支配という現実(既成事実)に対して、「百代迄は許す(百王説)」とおっしゃって、長期間掛けて串呂を構築され、三浦皇統家を秘かに用意され、真実が明らかになる日をお待ちなのです。
🌷富士大宮司家の嫡女・三浦佐久姫を表わす佐久島


この天照大御神の悲願が実現するまでは、皇祖皇宗の天佑神助が得られませんので、我が日本国は、神国日本の本領を発揮することが出来ないのです。「宝の持ち腐れ」とは、正にこのことです。残念ではありませんか!
私は、串呂を楯に小賢しい正義を振りかざしているのではありません。
我が日本国の浮沈に関わる喫緊の課題であり、私たちの子供たちの生活に直結する問題であることをご理解ください。
栄える道を選ぶのか、亡国の道を選ぶのか、それは私ども国民次第なのです。
🔴開鏡維新の神風串呂
開鏡維新とは、往昔、最後の内伝(神皇正統)の天子・大宝天皇(宗心)が、地下深く埋蔵した「三種の神器」を掘り出して、天の岩戸開きをする事です。皇政復古、神皇正統の天子復活のことです。この開鏡維新は日本国再建、日本民族起死回生の最後の切り札です。
🟡ここまで解った元伊勢伝承
💟第1話 崇神天皇、宝鏡を奉遷
💟第2話 崇神天皇が畏怖した理由は?
💟第3話 天照大御神は崇神王朝の祭祀を拒否
💟第4話 各地巡行は元伊勢クシロ構築の旅
💟第5話 両朝融和計画進行中
🟡神風串呂を学びましょう!
🟣情報拡散のお願い
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
🌷この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖師が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
🌷串呂主宰神 天照大御神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
🌷神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
神風串呂の主宰神は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
🟡祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします!
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
著者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ74才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。
著 書
「神風串呂入門」
「ここまで解った元伊勢伝承」
「開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道」
「天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編」
など多数
ブログ
串呂哲学研究ノート
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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