オットー・フォン・ビスマルクの回顧録(Gedanken und Erinnerungen)を日本語訳する試み Part5 第2巻1章から5章まで

○第二巻

・第一章 プロイセン政治の回顧録

I

国王の権威は、外交政策、特にドイツ政策における独立性と活力の欠如によって損なわれてきた。同じ土壌から、軍隊とその将校に対する市民の不当な意見、そして軍事提案と支出に対する嫌悪感が生まれた。議会派閥においては、指導者、雄弁家、大臣候補者の野心は、国民の不満を糧とし、隠れ蓑を得た。フリードリヒ大王の死後、我が国の政策は明確な目標を欠いていたか、あるいは目標が拙劣に選択または追求されてきたかのいずれかであった。後者は1786年から1806年にかけてのもので、この時期の政策は計画なしに始まり、悲劇的な結末を迎えた。フランス革命が本格的に勃発するまで、国民的ドイツの方向性を示す兆候は、この政策には見当たらない。諸侯同盟、プロイセン帝国の構想、中立境界線、そしてドイツ領土の獲得に見られるそうした方向性の最初の痕跡は、国家的な願望ではなく、むしろプロイセンの特殊主義的な願望の結果である。1788年当時、より強い関心はドイツ国民的な領域ではなく、ポーランド領土の獲得という構想にあり、1792年の戦争まで、プロイセンとオーストリアの間の不信感は、ドイツよりもポーランドをめぐる両国の対立によって煽られていた。トゥーグート=レールバッハ時代の紛争では、ポーランド領土、特にクラクフの所有権をめぐる争いが、19世紀後半に中心となったドイツにおける覇権争いよりもより目立つ役割を果たした。
当時、民族の問題はどちらかというと背景的な問題であった。プロイセンは、ポーランドの新たな臣民を、ドイツ人臣民と同等、あるいはそれ以上の意欲をもって、臣民である限り受け入れた。また、オーストリアも、フランス国境に兵力を投入すれば、プロイセンに対抗して自国のポーランドにおける利益を保護するために必要な軍勢が不足するのではないかと恐れるやいなや、フランスとの共同戦争の成功を危うくすることに何の躊躇もなかった。当時のオーストリアとロシアの指導者たちの見解と能力から判断すると、プロイセンの政策が、1790年12月10日のライヘンバッハ条約で起こったように、東の二つの隣国の近東における政策に拒否権を行使するよりも有益な道を追求する可能性があったかどうかは判断しがたい。この拒否権行使は、フランスの威信に似た、不毛な自尊心の行為であったという印象を拭い去ることができない。この行為において、フリードリヒ大王から受け継いだ権威は無駄にされ、プロイセンはこの権力誇示から、二つの帝国に対する自国の強大な地位を示すことによる満足した虚栄心以外には、何の利益も得られなかった。
オーストリアとロシアが近東で活躍の場を見つけた場合、当時国力が弱かった隣国にとっては、干渉するのではなく、両国の近東での活動を奨励・強化し、国境への圧力を軽減することが得策だったと私は考える。当時のプロイセンはその軍事制度により当時より迅速に戦備を整えることが可能であり、隣国よりも迅速に行動できたはずだ。もし時期尚早な党派的行動を控え、当時の相対的な弱さを鑑みて、オーストリア、ロシア、および高門(トルコ)の間の仲裁者という名声(プレスティージュ)を自ら買って出る代わりに、むしろ前哨の地位(en vedette)に身を置いていれば、後々何度かそうしたように、この迅速さを活かすことができただろう。
こうした状況における誤りは、通常、その利用と活用に対するアプローチの目的意識の欠如と優柔不断さに起因していた。大選帝侯とフリードリヒ大王は、どちらかの側につくこと、あるいはその脅威を伴う事案において、中途半端な措置が有害であることを明確に認識していた。プロイセンがドイツ民族に少しでも合致する国家構造を確立するまで、つまりメッテルニヒ公が私によく言っていたように「飽和状態」の国家に属していない限り、プロイセンはフリードリヒ大王の前述の言葉「en vedette」(守備的)に従って政策を組織しなければならなかった。しかし、守備的地位には有能な軍隊が後ろ盾としてあって初めて正当性が認められる。そのような地位がなく、また交戦当事者のどちらかに有利であろうと不利であろうと、積極的にその地位を活用する決意がなければ、ライヘンバッハのような機会にヨーロッパにおける影響力を主張したとしても、プロイセンの政策はポーランドでもドイツでも実質的な利益を得ることはできず、ただ両隣国の反感と不信感を招くだけであった。今日でも、国粋主義的な同胞たちの歴史観には、ベルリンから東部紛争において行使できた仲裁役がプロイセンの自己イメージをいかに満たしたかという満足感が見て取れる。彼らにとってライヘンバッハ条約はフリードリヒ大王流の政策における一つの頂点であり、そこからピルニッツ交渉、バーゼル条約、そしてティルジット条約を経て衰退と崩壊へと至ったのである。
もし私がフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の大臣であったなら、オーストリアとロシアの東方における野望をむしろ進言しただろう。ただし、その見返りとして、たとえポーランド問題に限ったとしても、実質的な譲歩を要求しただろう。当時、ポーランド問題は非常に魅力的であり、当然のことながら、ダンツィヒとトルンがまだ我々の両手の支配下に置かれておらず、ドイツ問題がまだ頭になかった限りは、そうだった。10万人以上の戦闘準備の整った兵士を率い、必要であれば彼らを投入するという脅威をちらつかせ、フランスとの戦争をオーストリアに任せるというプロイセンの政策は、ライヘンバッハの外交的勝利よりもはるかに優れた結果を、その状況下で達成できたはずだ。
カール5世以降のオーストリア家の歴史には、多くの機会を逸した事例が見られるが、その責任はほとんどの場合、当時の君主の告解師に帰せられてきた。しかし、プロイセンの歴史も、ここ100年だけでも、そうした機会の逸失は少なくない。ライヘンバッハ条約の時に、もし適切に機会を捉えていれば、プロイセンの進路に満足のいく進展は得られなかったかもしれないが、それでも大規模な転換は1805年には既に可能であった。当時、プロイセンの政策は、オーストリアとロシアを支援するために、フランスに対して外交的ではなく軍事的に行う方がより効果的であったはずだが、それには代償が伴った。援助を提供する条件、あるいは提供すべき条件は、ハウグヴィッツのような大臣では貫徹することはできず、ボヘミアやバイエルンで15万人の兵を率いる元帥によってのみ強制できたのである。 1806年に時機を逸して起こった出来事は、1805年に決定的な影響を与えた可能性があった。オーストリアで告解師たちが成し遂げたことを、プロイセンでは閣僚補佐官(内閣官房参事官)や、誠実だが視野の狭い将軍高級副官たちが機会を逃すことで成し遂げたのだ。

II

アドリアノープル条約や1831年のポーランド蜂起の鎮圧においてプロイセンの政策がロシアに提供した奉仕を無償で行う理由はさらに少なかった。なぜなら、その少し前にニコライ1世とカール10世の間で行われた非友好的な策略はベルリン内閣にとって未知のものではなかったからである。我が国では、君主間の馴れ合いは概してロシアの違反を覆い隠すのに十分なほど強かったが、相互主義は欠けていた。1813年、ロシアは疑いなくプロイセンの感謝に値する権利を得た。アレクサンドル1世は、1813年2月からウィーン会議まで、プロイセンを以前の状態に戻すという約束に概ね忠実であり、ロシアの利益を忘れることはもちろんなかったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムが感謝の念を抱くことが彼にとって自然なことであった。―そのような記憶は、アレクサンドル1世が1825年に亡くなるまで、私の少年時代には我が国の国民の間で非常に鮮明であった。ベルリンに姿を現したロシアの大公、将軍、そして時折現れる兵士の一団は、1813年に我が国で初めてコサック兵が迎えられた時と同様の人望の遺産をまだ享受していた。
シュヴァルツェンベルク公爵が公言したような露骨な恩知らずは、私生活においても政治においても、不適切であるだけでなく賢明でもない。しかし、我々は1829年のアドリアノープルにおけるロシアの苦境や1831年のポーランドにおける行動だけでなく、プロイセンの親族や将校たちと友好的に交流していたとはいえ、アレクサンドル1世よりもドイツのロマン主義や馴れ合いからさらに遠ざかっていたニコライ1世の治世全体を通して、我々の負い目を帳消しにしたのである。彼の統治下で我々はロシアの属国として暮らしていた。1831年、ロシアは我々なしではポーランドに対処することはほとんど不可能だったが、特に1831年から1850年までのヨーロッパのあらゆる情勢において、我々は常にロシアの振り出した手形(要求)を引き受け、これに応じてやっていた。1848年以降、若いオーストリア皇帝がプロイセン国王よりもロシアを喜ばせるようになると、ロシアの仲裁者はプロイセンとドイツの野望に対して冷酷かつ厳しく決定を下し、1813年の友好的な奉仕に対して、我々にオルミュッツの屈辱を押し付けることによって、完全に、そして最終的に(恩義の)精算を済ませてしまったのである。その後、我々はクリミア戦争、1863年のポーランド蜂起、そしてその年にアレクサンドル2世の個人的な戦争の呼びかけに応じなかったとき、そしてデンマーク問題において、ロシアに対して著しい前貸し(貸し)を作った状態になり、ロシアの主張がすでに平等を超えて従属を要求していたことを示しているにすぎない。
我々の側の赤字はは、第一に親族としての友情、つまり、希薄なエネルギーがより強大なエネルギーに依存するという関係、そして第二に、ニコライ1世がアレクサンドル1世と同じように我々に対して好意を抱いており、解放戦争の時代から同様の感謝の念を抱いているという誤解から生じた。しかし実際には、ニコライ1世の治世中、ロシアとの友好関係を平等な基盤の上に築き、ロシアが我々の奉仕から得たのと同等の利益を少なくとも得るという、ドイツ精神に根ざした動機は生まれなかった。もう少し自信と確信があれば、サンクトペテルブルクで相互主義の主張が認められたであろう。特に1830年の7月革命後、プロイセンは、その煩雑なランドヴェーア制度にもかかわらず、1年間は間違いなくヨーロッパで最も強力な、おそらく唯一の軍事国家であり、この驚くべき出来事に対して実戦能力を備えた軍事国家のだからなおさらである。 15年間の平和の間、オーストリアだけでなくロシアにおいても軍事制度がどれほど軽視されていたかは、皇帝親衛隊とコンスタンチン大公のポーランド軍を除けば、小国ポーランド立憲王国の蜂起に対する広大なロシア帝国の軍備の弱さと遅さによって明らかになった。
当時、フランス軍でも同様の状況が見られ、オーストリア軍ではさらに深刻だった。7月革命後、オーストリアは陸軍制度の荒廃を修復するのに一年以上を要し、イタリアにおける自国の利益をかろうじて保護できる程度にすぎなかった。メッテルニヒ政権下のオーストリアの政策は巧みで、オーストリアが発言権を持つ準備が整うまで、東方の三大強国のあらゆる決定を遅らせた。プロイセンにおいてのみ、軍事機構は扱いにくいものではあったものの、完全に正確に機能し、プロイセンの政策が独自の決定を下す能力を持っていたならば、1830年のドイツとオランダの状況を独自の判断であらかじめ方向づけるだけの力を持っていたであろう。しかし、1806年から1840年代にかけて、独立したプロイセンの政策は全く存在せず、政策はウィーンとサンクトペテルブルクで交互に決定されていたのである。プロイセンの政策が1786年から1806年、そして1842年から1862年にかけてベルリンで独自に道を歩んだ限り、向上を目指すプロイセン人の視点から彼女が認められることはまずないだろう。

III

1866年以前は、我々は自らを大国と呼ぶにはいささか割り引いて考える必要があった。クリミア戦争後、我々はパリ会議で前室に詰め伏すご機嫌伺いによって、この地位を外部から承認してもらう必要性を感じた。我々は、自らを大国だと感じるためには、他国からのお墨付きが必要であることを認識していた。我々は、イタリアに関するゴルチャコフの決まり文句、「大国は自らを認識するのではなく、自らを明らかにする」という基準に、自らが達しているとは感じていなかった。プロイセンが大国であるという現れは、以前にもヨーロッパで時折認められていた(第2巻第5章参照)が、長年にわたる臆病な政策によって弱体化しており、最終的にはマンテュッフェルがパリで果たした嘆かわしい役割にそれが表れていた。彼の遅ればせながらの出席許可は、何よりもまず、大国が承認を得るためには、大国であるという確信と勇気が必要であるという真実を否定するものではない。オーストリアや西欧列強からあれほど軽蔑されてきたにもかかわらず、我々が会議への参加を認められ、決議に署名する必要性を感じたのは、嘆かわしいほどの自信の欠如だと私は考えた。1870年の黒海問題に関するロンドンでの協議における我々の立場は、プロイセンがパリ会議に不名誉な形で強引に参加していなければ、この見解の正しさを裏付けていただろう。マンテュッフェルがパリから戻り、4月20日と21日にフランクフルトで私の客として滞在した際、私は敗者の側に立ったカトー(古代ローマの政治家)の格言を指針としなかったと、予見される仏露関係の和解に際して我々が正しい独立した立場を確立するための道筋を彼が示さなかったことを残念に思うと、遠慮なく述べた。当時、ナポレオン皇帝が既にロシアとの友好関係を構想していたこと、そして和平締結がイギリスの決定権を持つ中枢のサークルにとって時期尚早に思われていたことは、ベルリンの外務省では疑う余地もなかったはずだ。もし我々が屈辱的なやり方でパリ会議に無理やり参加するのではなく、適切な時期に招待されなかったことを理由に参加を辞退していたならば、我々の立場はどれほど威厳に満ち、独立したものであっただろうか。適切な自制心を持っていれば、我々は新たなグループに誘い手をかけられたであろうし、外交上の敵対国に左右されることなく、プロイセンにとって何の利益にもならない欧州協定への参加を主張することを控えることで、外見上もより威厳のある立場を保てたであろう。もっとも、プロイセンにとっては何の利益もなく、せいぜいライヒェンバッハ条約(の事例)と同様に、威信という虚栄心や、自国の利害に関わらない事柄に口出ししたいというだけの、ヨーロッパの(諸国間の)協定への関与の要求を控えてさえいれば、そうなっていたのである。

IV

 1786年から1806年と1842年から1862年の2つの期間に見られた機会の逸失は、同時代の人々にはほとんど理解されず、その責任がすぐに正しく帰せられることはさらに稀であった。50年から100年後に公文書が開示され、関係者やその事情を知っていた人々の回想録が公開されて初めて、世論は個々の過ちのそれぞれについて、根本的誤謬(議論や推論の前提自体が間違っている状態、アリストテレスの論理学に由来する言葉)、 πρῶτονψεῦδοςを認識することができた。フリードリヒ大王は、プロイセンの政治と権力に対する権威と信頼という豊かな遺産を残した。彼の後継者たちは、ちょうど今日の「新方針(新航路)」が、旧方針の遺産を食いつぶして生き長らえているように、自分たちの亜流たちのお粗末な政治運営の弱点や誤りに気づかないまま20年間この遺産で生き延びることができた。イエナの戦いに近づくにつれて、彼らは自分たちの軍事的、政治的能力を過大評価していた。その後の数週間にわたる崩壊によって初めて、宮廷と国民は、政府に無能と誤りが蔓延していたことを悟った。しかし、誰の無能さ、誰の誤りだったのか、この巨大で予期せぬ崩壊の責任を誰が負うべきなのかは、今日に至るまで議論の的となっている。
絶対君主制においては、そして当時プロイセンは絶対君主制であったが 、君主以外に政策責任において明らかに説明責任を負える者はいない。君主が破滅的な決定を下したり承認したりした場合、それが君主自身の君主としての意思によるものなのか、それとも男性と女性、副官、廷臣、政治的陰謀家、おべっか使い、おしゃべり屋、讒言者など、実に多様な人物が君主に及ぼした影響によるものなのかを誰も判断できない。君主の最高署名が最終的にすべてを覆い隠す。それがどのようにして得られたのかは謎のままである。君主主義的な見地からすれば、その時々の各大臣に起こったことに対する責任を負わせることが最も手近な逃げ道である。しかし、絶対主義の形態が憲法の形態に取って代わられたとしても、いわゆる大臣の責任は責任を負わない君主の意思から独立しているわけではない。確かに、大臣は必要と考えることについて国王の署名を得られなければ辞任することができる。しかし、辞任することで、彼はその辞任の結果に対する責任を負うことになり、その影響は現在争われている分野よりも、他の分野において遥かに深刻なものとなる可能性がある。
さらに、多数決制を採用する国務省の合議制構造は、プロイセンの大臣官制に従って、彼に日々妥協と同僚への譲歩を強いる。しかし、大局的政治における真の責任を果たすことは、ただ一人の指導的大臣にのみ可能であり、多数決制をとる匿名の合議体には到底不可能なことである。本道と邪道の決定は、しばしば最小限ではあるが言い回し、時には外交文書における口調や表現の選択にさえ左右される。正しい道からわずかに逸脱するだけでも、放棄した道を取り戻すことは不可能なほど急速に遠ざかり、分岐点に戻ることは不可能になることが多い。通常の職務上の守秘義務は、脱線が行われた状況を何世代にもわたって隠蔽し、その結果生じる曖昧さが、事案の因果関係を曖昧なままにしておくことで、指導的大臣は、私の前任者の一部に見られたように、形式的な側面が国王の署名や議会の投票によって覆い隠されたと分かるとすぐに、事案の実質的な側面に無関心になる。また、ブランデンブルク伯爵の場合のように、自身の名誉心と権限関係のもつれとの葛藤が、命に関わる神経熱(チフス)を引き起こしたり、あるいは過去のいくつかの事例のように、精神障害の症状を引き起こしたりすることもある。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の治世における我々の政策の責任を公平に分配する方法を述べるのは難しい。純粋に人間的な観点から言えば、最終的には国王自身に責任があると言えるだろう。なぜなら、国王には自身と国政を導く優れた助言者がいなかったからである。国王は、個々の大臣の助言だけでなく、多かれ少なかれ機知に富んだ侍従武官や閣僚補佐官、学者、不誠実な野心家、そして誠実な夢想家や廷臣など、数多くの人々から寄せられた提案の中から、自ら選択権を留保していた。そして、国王はこの裁量をかなりの期間保持することが多かった。何もしないよりは、何か間違ったことをする方が害が少ない場合が多い。1852年から1856年の間に、この人柄の良い紳士が繰り返し、時には厳しく、ほとんど強引に、大臣になる機会、あるいはその実現を促進する機会を私に与えてくれたが、それを掴む勇気はなかった。国王の私に対する見方からすれば、私は国王に対して何の権威も持ち得なかったであろうし、国王の豊かな想像力は、実際的な決定に適用されなければならないと分かると、すぐに萎縮してしまうのである。私は、自分が信じていない、あるいは国王にその実行に対する決意と一貫性を信頼できない政治的方向性を採用し、大臣として代表するために必要な柔軟な追従性に欠けていた。国王は個々の大臣間の不和の要素を維持し、助長した。そして、三角関係にあったマンテュッフェル、ボーデルシュヴィング、ハイトの間の摩擦は、国王にとって都合がよく、国王の影響力と大臣の影響力の間の細部における権限争いにおける政治的道具となった。マンテュッフェルは、ゲルラッハ、ラウフ、ニーブール、ブンゼン、エドウィン・マンテュッフェルのカマリラ活動を全面的に、そして承知の上で容認した。彼は、特定の目標を念頭に置くよりも、むしろ防御的に政策を進め、タッフェ伯爵が言うように、だらだらとやり過ごし、最高署名によってカバーされているときに安心感を得た。しかし、議会のない純粋な絶対主義には、自らの行動に対する責任感を維持するという利点が依然としてある。さらに危険なのは、多数決による承認という以外に正当化を必要としない、従順な議会に支えられた絶対主義のほうである。

V

クリミア戦争後、我々の政策にとって次に有利な状況となったのはイタリア戦争であった。しかしながら、1859年にヴィルヘルム国王が、当時の政策と後にドイツ帝国の樹立につながる政策との間の溝を、突然かつ決定的に越える意向があったとは考えにくい。オーストリアとのテプリツの保障条約締結が間近に迫り、イタリアを承認することを拒否したシュライニッツ外相の態度を基準に当時の状況を判断するならば、当時摂政に、プロイセンの軍事力投入の条件としてドイツ連邦政治における譲歩を要求するような政策を採用するよう説得できたかどうかは、当然疑問視されるべきである。この状況は、将来を見据えたプロイセンの政策という観点からではなく、ドイツ諸侯、オーストリア皇帝、そして同時にドイツの報道機関の承認を得ようとするいつもの試みという観点から捉えられており、目標の形、方向性、そしてそれを追求する手段について明確な考えを持たないまま、ドイツへの献身に対する道徳的な美徳の褒賞を漠然と追い求めていた。
摂政は妻と週刊新聞党の影響を受け、1859年にイタリア戦争への参戦寸前までいった。もし参戦していれば、戦争はオーストリアとフランスの紛争から、ライン川を舞台とした主にプロイセンとフランスの紛争へと変貌していたであろう。オーストリアに対する根強い憎悪を抱いていたロシアは、少なくとも我々に対して武力誇示(デモンストレーション)を行ったであろうし、我々がフランスとの戦争に巻き込まれた後、オーストリアは政治的なてこの有利な端を握り、我々がどこまで勝利してよいものかを検討したであろう。トゥーグートの時代におけるポーランドがそうであったように、当時のドイツはチェス盤上の存在であった。私の考えは、ともかくも軍備は整えつつ、オーストリアに最後通牒を突きつけることだった。すなわち、ドイツ問題に関する我々の条件を受け入れるか、さもなくば攻撃を受ける覚悟をしろ、というものだ。しかし、言葉だけで行動には伴わない「ドイツ」への継続的で自己犠牲的な献身という虚構、オーストリアの利益に献身していた王妃と大臣フォン・シュライニッツの影響、そして当時の議会、協会、報道機関のありふれた言い回しによって、摂政は自身の明確かつ素朴な良識に基づいて状況を評価することが困難になった。しかも、彼の政治的、個人的なサークルには、こうした空虚なペテンを彼に気づかせ、健全なドイツの利益を彼に代表できる人物はいなかった。当時の摂政と大臣は、「タレーラン氏よりも機知に富んだ人物がいるとすれば、それは世間一般の知恵だ」という格言の正当性を信じていた。しかし実際には、誰もが何が正しいかを認識するのに時間がかかりすぎ、たいていの場合、その認識を活かすことができるタイミングは、皆が実際に何をすべきだったかに気づいた時には既に過ぎ去っている。

VI

摂政、そして後の国王が経験しなければならなかったのは、内なる葛藤、新時代の大臣たちが臣民を幸福にすることも満足させることもできないばかりか、彼らを従順に留めておくことすらできないという確信、1862年に退位を決意させた困難だけであり、それが国王の精神と健全な判断に必要不可欠な影響を与え、1859年の君主としての統治観をデンマーク問題という橋渡しを通して、1866年の立場へと、言葉から行動へ、言葉から行為へと移し替えたのである。
本質的に困難なヨーロッパ情勢における外交政策の遂行は、王朝的な感傷や宮廷ビザンツ主義(おべっか)に陥ることなく冷静かつ実際的な政策を追求しようとする大臣にとって、強力な横槍によって非常に困難を極めた。その干渉は、アウグスタ王妃とその大臣シュライニッツ、その他の君主の影響力や家族間の書簡、宮廷内の敵対勢力、イエズス会的な分子(ネッセルローデ、スティルフリートなど)、ゴルツやハリー・アーニムのような有能なライバルや策略家、そして元大臣や大臣の座を狙う国会議員のような無能な者からのほのめかしによって最も強く効果的に行われた。国王が私への信頼を揺るがせなかったのは、国王が第一臣(筆頭の下僕)に対して示した誠実で高潔な忠誠心のおかげであった。
10月上旬、私は国王に会うため、9月30日に妻の誕生日を祝うためにバーデン=バーデンへ出かけていた国王を、ユーターボークまで訪ねた。三等客や職人たちでいっぱいの、まだ未完成の駅舎の中で、私は暗闇の中、ひっくり返った手押し車の上に腰掛けて国王を待った。私が会話の機会を伺ったのは、9月30日に予算委員会で行った衝撃的な発言について、国王を安心させるためだった。その発言は速記では記録されていなかったものの、新聞にはかなり忠実に転載されていたのだ。
それほど敵対的になっていない人々には、私が何を意図しているのかは十分に明確に伝わっていたはずだ。私の演説の要点は、地図を一目見ただけでも分かるように、我々のあの細長く伸びたプロイセンの身体(国土)では、ドイツの安全保障に必要な軍備を単独で負担する必要はなく、すべてのドイツ国民に平等に分配されなければならないということだった。演説や結社、多数決ではこの目標に近づくことはできない。むしろ、血と鉄でしか解決され得ず、真剣な闘争が避けられないだろう。この闘争で我々が勝利を収めるためには、血と鉄(すなわち軍備)のできる限り大きな重みをプロイセン国王の手へ委ね、国王が自らの裁量でそれを天秤のどちらか一方の皿に投げ入れられるようにしなければならない。私はすでに1849年、恩赦に関する議論の際に、演壇でキンケルに対して(同じ考えを)表明していた。
その場に居合わせたローンは、帰路の途中で私の発言に不満を表明し、とりわけ、そのような「才気走った脱線(余談)」は我々の大義に資するものではないと述べた。私自身は、強力な国家政策に代表者たちを説得したいという思いと、慎重かつ強硬な手段を忌避する国王の気質に私と私の意図を疑われる危険性との間で葛藤していた。報道機関が国王に与えるであろう印象をあらかじめ手を打つために、私はユーターボークまで国王に会いに行った。
定期列車のぶっきらぼうな車掌に尋ねて、国王が普通のファーストクラスのコンパートメントに一人で座っていた車両を特定するのに少し苦労した。国王は王妃殿下との話し合いの余韻で明らかに沈んだ様子で、私が不在中の出来事を報告してもいいかと尋ねると、国王はこう言って私の話を遮った。
「この結末ははっきりと見えている。オペラ広場の正面、私の家の窓の下で、奴らはお前の首を切り落とし、少し後に私の首も切り落とすだろう。」
私は、彼がバーデンでの8日間の滞在中、ポリニャック、ストラフォード、ルイ16世をテーマにした変奏曲を作曲していたのだろうと推測し、後に目撃者によってそれが確認された。彼が沈黙を保ったので、私は「その後は、陛下?」と短い言葉で返した。「そうだ、その後は、我々は死ぬのだ!」と国王は言い返した。「そうです」と私は続けた。「いずれにせよ我々は死ぬのです。これ以上名誉ある死に方があるでしょうか?私自身、国王のために戦い、陛下がご自身の神の恩寵による王権をご自身の血をもって証明されるとしても、処刑台の上であろうと戦場であろうと、神の恩寵によって与えられた権利のために命と身体を犠牲にされたことは、称賛に値するものです。陛下はルイ16世のことを考えていただく必要はありません。彼は精神的に不安定な状態で生き、そして死に、歴史において見栄えの悪い姿しか残しておりません。一方、チャールズ1世は、自らの権利のために剣を抜き、戦いに敗れた後も、いかにして屈することなく血をもって王としての信念を貫いたかという点において、常に気高き歴史的巨頭として残り続けるのではないでしょうか。陛下は、やむを得ず戦わなければなりません。降伏は許されません。たとえ身の危険を冒してでも、この不法な暴挙に立ち向かわねばなりません。」
私がこの調子で話せば話すほど、国王はますます活気に満ち、君主制と祖国のために戦う将校としての役割を担うようになった。戦場でも暗殺未遂でも、外部の危険や個人的な危険に直面しても、彼は稀に見る、全く自然な恐れ知らずの態度を示した。あらゆる外部の脅威に対する彼の態度は、高揚感と感動を与えた。任務遂行中にただ「御意」という一言で、自己犠牲と恐れを知らずに確実な死に直面する一方で、自らの責任で行動するよう求められると、上官や世間の批判を死そのものよりも恐れ、叱責や非難への恐怖によって決断のエネルギーと正しさが阻害されるほど、理想的なプロイセン将校像――このタイプが彼には高度に発達していた。旅のその時点まで、彼は私と共に進む道で、王妃殿下やプロイセンの世論からの一枚上手な批判に耐えられるかどうかだけを心配していた。対照的に、薄暗い客車のコンパートメントでの会話は、彼が状況によって自分に割り当てられた役割を、より将校の視点から捉えるようになったという効果をもたらした。彼は将校としての名誉(プライド)を掴まれたように感じ、たとえそこで命を落とすことになっても、特定の陣地を死守する任務を負った将校の立場に身を置き、落ち着きを取り戻した。これは彼の思考様式全体にとって馴染み深い道筋であり、数分もしないうちに、彼はバーデンで奪われていた安心感、そして陽気ささえも取り戻した。国王と祖国のために命を危険にさらすことはプロイセン将校の義務であり、ましてや国王は国の最高位の将校であるのだからなおさらである。将校の名誉という観点から自分の立場を考えた途端、それは、たとえ失う可能性があっても、通常のプロイセン将校が陣地を規則通りの死守と何ら変わらないためらいを彼にもたらさなかった。彼は、世論や歴史、そして妻が彼の政治的機動に対して下すであろう「演習講評」など気にしていなかった。彼はプロイセン君主国の筆頭将校という役割に完全に没頭しており、その任務における彼の破滅は、与えられた任務の名誉ある結末であると感じていた。私の評価の正しさは、ユーターボークで私が見かけた、気だるく、意気消沈し、落胆していた国王が、ベルリンに到着する前に、すでに陽気で、喜びにあふれ、闘志に満ちた気分になっていたという事実に表れていた。それは、彼を迎えた大臣や役人たちにも紛れもなく明らかだった。
バーデンで国王の偏狭な不手際の例として用いられた、抑止力となる歴史の先例の引き合いは、不誠実あるいは空想的な方法でしか我々の状況に適用できなかったが、それでも我々の状況は十分に深刻であった。進歩的な新聞の中には、ビスマルクに国家のために(失脚・投獄させて)糸紡ぎでもやらせたがっているというものもあり、1863年2月17日、下院は274対45の投票で、大臣らが憲法違反の支出について個人的にも財政的にも責任を負うと宣言した。土地を守るために兄に土地を譲渡するという案が提案されたが、貴族院議員の議席がそれに結びついていたため、私はそれを控えた。王位交代があった場合には資産没収の可能性もゼロではないが、それを避けるために土地を兄に譲渡すれば、臆病さと金銭へ執着しているという印象を与え、私はそれを忌まわしいと感じた。

・第二章 王朝と部族

フランクフルトにいた時でさえ、ドイツ政治の鍵は君主や王朝にあり、議会や報道機関でのジャーナリズムやバリケードにあるのではないということに、私は一度たりとも疑ったことはなかった。議会や報道機関における教養ある世論の表明は、王朝の決定を促進することも妨げることもあったが、国家的な方向へ圧力をかけるよりも、むしろ王朝の抵抗を助長することの方が多かったかもしれない。弱い王朝は国家の大義に同調することで身を守ろうとしたが、抵抗する能力が高いと感じていた君主や家系は、ドイツ統一の推進が中央権力や民衆代表制を優先して独立性を縮小することを見込まれていたため、この運動を信用しなかった。プロイセン王朝は、将来のドイツ帝国における威信と権力の増大に伴い、いずれ覇権が自分たちに及ぶことを予見していた。他邦の王朝たちが恐れていた主権の縮小は、国民議会に吸収されない限り、プロイセンにとって有益となる可能性が高かった。かつて私がフランクフルト連邦議会に赴いた当初抱いていた、オーストリアとプロイセンの二元体制という見方は、やがて、議長国による侵害や策謀から自らの地位を守らねばならないという認識へと取って代わられた。オーストリアとプロイセンが互いに寄り添い合うという考えは、解放戦争の遺産や学校教育から生まれた若き日の空想に過ぎないと悟り、それまで私が想定していたようなオーストリアはプロイセンにとって存在しないのだと確信するに至ったとき、私はある結論に達した。すなわち、連邦議会の権威を基盤とする限り、1848年以前にプロイセンが連邦内で占めていた地位を回復することさえ不可能であり、ましてや、ドイツ国民が欧州の大国の一つとして国際法上の地位を確立するという展望を開くような連邦憲法の改革など、到底実現し得ないということである。 
私の考えが転換点となったのは、フランクフルトでシュヴァルツェンベルク侯爵の1850年12月7日付電報を読んだ時だった。それまで私はその電報を知らなかった。電報の中で、彼はオルミュッツの協定の結果を、プロイセンが「屈辱」を受けるか、寛大に赦免されるかは自分次第であるかのように述べていた。この件について話し合ったメクレンブルクの公使、エルツェン氏は、二元論的政治における私の誠実で保守的な同志であり、シュヴァルツェンベルクの電報によって傷ついた私のプロイセン人としての感情をなだめようとした。オルミュッツとドレスデンでの我々の行動は屈辱的なほど劣っていたにもかかわらず、私はまだオーストリア人としての良き精神を保ったままフランクフルトに到着した。しかし、そこで公文書を通して得たシュヴァルツェンベルクの「まず(プロイセンを)格下げし、それから解体させる」という政策への洞察は、私の若き日の幻想を打ち砕いた。ドイツ情勢というゴルディアスの結び目は、親愛による二元論的解決は不可能であり、軍事的に断ち切るしかなかった。重要なのは、プロイセン国王を意識的か無意識的かを問わず味方につけ、ひいてはプロイセン軍を国家の大義のために動員することだった。プロイセンの指導権をプロイセン主義的な観点から、あるいはドイツ統一を国家の立場から主要な目標と捉えるかにかかわらず、この二つの目標は重なり合っていた。このことは私には明らかであり、予算委員会(1862年9月30日)で私が大きく歪曲された「血と鉄」に関する発言をした際に、このことをほのめかしたのである。
プロイセンは名目上は少なくとも五指に入る大国であり、この地位はフリードリヒ大王の精神的卓越性によって獲得され、1813年の国民の驚異的な力によって回復された。アレクサンドル1世皇帝が1812年からシュタイン、あるいは少なくともドイツの影響下でウィーン会議まで示した騎士道精神がなければ、ティルジット条約の400万人のプロイセン国民、そしておそらく旧プロイセンやドイツの土地にいた同数の同調者の国民的熱狂が、当時のフンボルトとハーデンベルクの外交手腕とフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の臆病さによって、1815年に起こったようなプロイセンの人為的再構成を実現するのに十分であったかどうかは疑問のままであっただろう。当時のプロイセンの物理的な重みは、その知的意義や解放戦争での功績に見合うものではなかった。
ドイツ人の愛国心が活発かつ効果的なものとなるためには、一般的に王朝への忠誠という媒介が必要となる。王朝への忠誠とは無関係に、実際にはほとんど顕在化することはないが、理論的には議会、新聞、集会などで日常的に見られる現象である。実際には、ドイツ人は自分が忠誠を誓う王朝、あるいは行動へと駆り立てる怒りを呼び起こすような刺激を必要とする。しかし、後者の現象は、その性質上、永続的な制度とはなり得ない。プロイセン人、ハノーファー人、ヴュルテンベルク人、バイエルン人、あるいはヘッセン人としての方が、ドイツ人としてよりもまず先に愛国心を示す用意がある。そして、下層階級や議会内の派閥においては、この状況が変わるには長い年月がかかるだろう。ハノーファー家、ヘッセン家、その他の王朝が臣民の支持を得るために特別な努力をしたとは言えないが、それでもなお、臣民のドイツ愛国心は、彼らがその名を冠する王朝への忠誠心によって本質的に規定されている。遠心的な要素が元々依拠しているのは、部族間の違いではなく、王朝への帰属関係なのである。重要なのは、シュヴァーベン、ニーダーザクセン、テューリンゲンの独自性への固執ではなく、ブラウンシュヴァイク家、ブラバント家、ヴィッテルスバッハ家によって分割され、国家の王朝的分担となった、ある君主家の一括された支配領域である。バイエルン王国の結束は、南バイエルンやオーストリアに存在するバイエルン族だけに基づいているのではなく、血統が大きく異なるアウクスブルクのシュヴァーベン人、プファルツのアレマン人、マイン・フランケン人も、ミュンヘンやランツフートの古バイエルン人と同じように満足して自分たちをバイエルン人と呼んでいる。それは、彼らが3世代にわたって共通の王朝を通じて古バイエルン人とつながっているからにすぎない。最も顕著な部族的特徴である低地ドイツ人(部族気質)、低地ドイツ語圏の人々、ザクセン人は、他の部族よりも王朝の影響によってより鋭く深く分断されている。ドイツの愛国心は、その忠誠を集中させる君主を必要とする。もしすべてのドイツ王朝が突然消滅したと想像すると、ヨーロッパ政治の摩擦の中で、ドイツの国民感情が国際法の下ですべてのドイツ人をまとめることはまずあり得ないだろう。それは、連邦制のハンザ都市や帝国の村の形であってもあり得ない。ドイツ人は、諸侯間に共通の身分意識に基づく絆を失えば、より強固な国家の餌食となるだろう。
ドイツにおいて歴史的に最も顕著な部族的独自性を持つのはプロイセンであると言えるだろう。しかし、ホーエンツォレルン王朝とすべての潜在的な後継者が消滅した場合、プロイセン国家が存続し続けるかどうかは誰にも確信を持って答えることはできない。ポメラニア人、ハノーファー人、ホルシュタイン人、シレジア人、アーヘンとケーニヒスベルクといった東部と西部の地域が、王朝が消滅した後も、不可分なプロイセン国民国家として一体となって存続し続けると本当に断言できるだろうか。ヴィッテルスバッハ王朝が跡形もなく消滅した場合、バイエルンは単独で見てもまとまりを保つことができるだろうか。一部の王朝は、歴史的にこれらの国家が形成された多様な地域の間で、帰属意識を育むのに必ずしも適さない記憶を伴っている。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国には、特に反ゴットルプ的な意味での王朝の記憶は全くないが、大臣、宮内長官、勲章を備えた独立した小宮廷を再建し、プロイセンとオーストリアの連邦負担の犠牲の上に小国家としての存在を追求できる見込みは、エルベ川沿いの公国でかなり強い特殊主義運動を引き起こした。バーデン大公国には、ベオグラード戦役のルートヴィヒ公以来、王朝の記憶はほとんどない。ライン同盟におけるフランスの保護下でのこの小公国の急速な成長、旧王朝最後の君主たちの宮廷生活、ボーアルネ家との婚姻同盟、カスパー・ハウザーの物語、1832年の革命的出来事、市民意識の高いレオポルド公の追放、1849年の支配家の追放は、国内の王朝への従順という惰性を打ち破ることはできず、支配家の王朝的利益が避けられないものであったため、バーデンは1866年にプロイセンとドイツ思想に対して戦争を起こした。
他のヨーロッパ諸国の人々は、愛国心や国民感情に関して、そのような仲介を必要としない。ポーランド人、ハンガリー人、イタリア人、スペイン人、フランス人は、いかなる王朝の下でも、あるいは王朝が全く存在しない状況でも、国民としての統一を維持するだろう。北方のゲルマン民族、スウェーデン人、デンマーク人は、王朝への感傷とは全く無縁であることが証明されている。また、イングランドでは、王室への表面的な敬意は良き社会の必須条件であり、君主制の形式的な維持はこれまで政府を分担してきたすべての政党にとって有益であると考えられているが、歴史的展開によって王朝の交代や共和制への移行が英国国民にとって必要または有益であると見なされるようになったとしても、国家が崩壊したり、ジャコバイト時代のような感情が積極的に主張されたりすることはないと私は考えている。
王朝への忠誠心の優位性と、王朝の名の下に国民のある層を結束させるための結束力としての王朝の不可欠性は、帝国ドイツ特有の特徴である。我が国で王朝の領地を基盤として形成された特定の民族集団は、ほとんどの場合、異質な集団であり、その結束は血統の平等や歴史的発展の平等に基づくものではなく、強者の法則、あるいは血縁による世襲、相続同盟、あるいは選帝侯との選挙規定によって帝国宮廷から得た相続待期権によって、王朝が獲得した領地(しばしば争われる領地)という事実のみに基づいている。ドイツにおけるこの特異な帰属意識の起源が何であれ、その結果として、理解しがたい紛争の結果として王朝から命令が下された場合、ドイツ人個人は、火と剣を用いて隣人であり同胞であるドイツ人を自ら殺害することを厭わないという事実が残る。この特異性の正当性と合理性を検証することは、それを計算に入れられるほど強力である限り、ドイツの政治家の任務ではない。それを破壊したり無視したりすること、あるいはこの実際的な障害を考慮せずに理論的に統一を推進することの難しさは、特に1848年から1850年の国民運動の好機を利用した場合、統一の擁護者にとってしばしば致命的であった。私は現在のゲルフ党が旧王朝に愛着を持っていることを十分に理解しており、もし私が旧ハノーファーに生まれていたら、私もその一員であったかもしれない。しかし、その場合でも、私はドイツの国民感情の影響から逃れることはできず、統一された国民性の絶対的な力が私の王朝への忠誠心と個人的な好みを容赦なく破壊したとしても、私は驚かないだろう。潔く滅びるという任務は、政治、それもドイツ政治に限らず、より正当な感情にも課せられるものであり、それを果たせないことは、ハノーファー(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク)選帝侯家への臣下の忠誠心に対する私の共感をいくらか損なう。私は、ドイツの国民感情が地方割拠主義と衝突するあらゆる場所において、常に国民感情の側にこそ、より強大な力があることを見出している。なぜなら、地方割拠主義というものは――プロイセンのそれであっても――全ドイツ的な共同体、すなわち皇帝と帝国に対する反抗と、その双方からの離反によってのみ生じたものだからである。しかもそれは、ローマ教皇の、後にはフランスの、総じてロマンス系外国(ウェルシュ。ロマンス語圏に対する蔑称)の援助に支えられていたが、これらはすべてドイツの共同体にとって等しく有害であり、危険なものであった。(ハノーファー王家である)ヴェルフェン家のあくなき試みにとって、歴史における彼らの永久の第一の道標として決定的なのは、レニャーノの戦いの直前における獅子公ハインリヒの離反である。それは、最も困難かつ危険な戦いの瞬間に、個人的および家門的な利益から、皇帝と帝国を見捨てた敵前逃亡にほかならない。
ドイツにおける王朝の利害は、帝国の国益と一致する限りにおいて正当化される。それらは国益と十分に両立し得るものであり、旧来の意味で帝国に忠誠を誓う公爵は、ある状況下では、皇帝と公爵家臣との直接的な関係よりも全体にとって有益である。しかし、王朝の利害が国家の分裂と無力化を再び招く恐れがある限り、それらは適切な水準に戻されなければならない。ドイツ国民とその国民生活は、君主の私有財産によって分割されるべきではない。この考えは、バイエルン家、ヴェルフ家、その他と同様に、ブランデンブルク家にも当てはまることを私は常に明確にしてきた。もし私が、決裂や反乱によってドイツ国民としての感情を示さなければならなかったとしたら、ブランデンブルク侯爵家に対しては無力であっただろう。しかし、歴史的な運命によって、私の宮廷での才能は国王を、ひいてはその軍隊をドイツ側に引き入れるのに十分であった。私はおそらく、他のドイツ諸侯や王朝のそれよりもプロイセンの特殊主義に対して、より困難な戦いを強いられてきた。そして、皇帝ヴィルヘルム1世との生来の関係が、これらの戦いをさらに困難にした。しかし、皇帝の強い王朝的野心にもかかわらず、王朝的に正当化され、決定的な局面ではますます高まる国家的願望のおかげで、他のすべての勢力がより王朝的で特殊主義的なアプローチを主張していた時でさえ、私は常にドイツ側の発展に対する皇帝の支持を得ることに成功した。ニコラスブルクの状況では、これは当時の皇太子の支援があって初めて可能になった。ドイツの歴史の中で、個々の諸侯の領土主権は不自然なほどに発展していた。プロイセンを含む個々の王朝は、ホーエンシュタウフェン家とカール5世の時代以上に、ドイツ国民を私有財産のために分割し、国家の存在そのものに対する主権的な権利を歴史的に強く主張することができた。王朝、帝国騎士、帝国都市、帝国村の無制限の国家主権は、国家とその統一を犠牲にした革命的な成果であった。ザルツヴェーデル近郊のニーダーザクセン・アルトマルク地方の住民とリューヒョウ近郊のニーダーザクセン・ブラウンシュヴァイク地方の住民を隔てる境界線は、荒野とヒース地帯では肉眼では区別がつかないにもかかわらず、両側で低地ドイツ語を話すニーダーザクセン人を、国際法上、潜在的に敵対的な二つの異なる実体、すなわち一方はベルリンの支配下にあり、もう一方はかつてロンドン、後にハノーファーの支配下にあった実体、一方は右を向いて東を向き、もう一方は左を向いて西を向き、そして、この地域の平和で志を同じくする農民たちが、互いに結婚し合いながら、一方はヴェルフ=ハプスブルク家の利益のために、もう一方はホーエンツォレルン家の利益のために銃を撃ち合うことを想定されていたという事実は、私にとって常に不自然なことだった。このようなことが起こり得たという事実自体が、ドイツ人に対する王朝への忠誠心の影響力の深さと強さを証明している。王朝が常に報道機関や議会よりも強大であったことは、1866年にオーストリアの影響圏内にあった王朝の連邦州が、民族的願望に関係なくオーストリア側に味方し、「プロイセンの大砲の下にある」州だけがプロイセン側についたという事実によって裏付けられる。しかし、後者のうちハノーファー、ヘッセン、ナッサウは例外で、オーストリアはプロイセンの要求をすべて退けるのに十分強いと考えていた 。結果として、彼らは代償を払うことになった。北ドイツ連邦の首長であるプロイセンが領土を拡大する必要はほとんどないことをヴィルヘルム王に納得させることができなかったからである。しかし、確かなことは、1866年になっても連邦州の物質的な力は議会ではなく王朝に従い、ザクセン、ハノーファー、ヘッセン人の血はドイツ統一のためではなく、それに反対するために流されたということである。
あらゆる場所で、王朝は、ドイツ人がより緊密な連合体へと分離しようとする動きが具体化する中心点となった。

・第三章 紛争省

I

候補者の選定が少なかった各省庁の割り当てにおいて、財務省は最も滞りが少なかった。財務省は、1848年3月に辞任した内務大臣エルンスト・フォン・ボーデルシュヴィングの弟であるカール・フォン・ボーデルシュヴィング氏に割り当てられた。彼は1851年から1858年までマンテュッフェルの下で財務大臣を務めていた。しかし、彼と商務大臣に任命されたイッツェンプリッツ伯爵は、それぞれの省庁を運営する能力がないことがすぐに明らかになった。両者とも、専門官僚の決定に署名し、可能な限り、顧問の決定(中には自由主義的な者もいれば、狭い省庁の事情に縛られている者もいた)と国王および国家省の政策との間に生じる可能性のある相違を仲介することに終始した。財務省の知識豊富な職員たちは、内心では紛争内閣にほとんど反対しており、それを政府の官僚機構の自由主義的発展における一時的な出来事と見なしていた。そして、彼らの中でも最も有能な者たちは、政府の活動を妨げるには良心的すぎたが、それでも公務員としての義務感が許す限り消極的な抵抗を示し、その抵抗は決して小さなものではなかった。この状況から、我々大臣の中で個人的な立場としては極右に位置するボーデルシュヴィング氏が、(内閣・国務省内の)閣内投票において、最も左寄りな閣僚たちと同じ立場をとって(賛否の票を共に)投票したという奇妙な事態が生じた。
同様に、貿易大臣のイッツェンプリッツ伯爵は、過積載気味の省という名の船の舵を自主的に操ることができず、部下たちが作り出す流れに身を任せていた。当時の商務省の多岐にわたる部門を統括し、あらゆる分野で部下を率いることができる人物を見つけることは不可能だったかもしれないが、イッツェンプリッツ伯爵は、例えばフォン・デア・ハイトに比べて、担当業務に関する知識がはるかに乏しく、特にデルブリュックをはじめとする担当官たちの技術的に有能な指導に、なすすべもなく従うしかなかった。さらに、彼は温厚な性格で、これほど大きな部門を運営するのに必要なエネルギーに欠けていた。当時、商務省の著名な職員数名に不正行為があったとされ、個人的には高潔な長官を深く悩ませていたにもかかわらず、彼自身が疑っていた職員たちの専門知識が不可欠に思えたため、介入は非常に困難だった。問題の二人の同僚からは、私の政策に対する支持は期待できなかった。彼らが私の政策を理解してくれるわけでも、年少で本来は行政実務(官界)の出身ではない首相である私に対して好意を抱いてくれるわけでもなかったからだ。
内務大臣として、私はフォン・ヤゴウ氏と出会った。彼はその活発な口調、雄弁さ、そして議論の独善性によって、すぐに同僚たちの反感を買い、フリッツ・オイレンブルク伯爵に交代させられるほどだった。彼の特徴をよく表しているのは、彼が退任してポツダムの州長官の職に就任した後の出来事だ。ベルリン市にとって重要な問題に関する交渉が行われており、彼は政府と市当局の間の省庁の仲介役を務めていた。事態の緊急性から、省庁は市長にポツダムへ行き、重要な点について首席市長の提案を口頭で聞き、この目的のために招集された省庁の夜の会議で報告するよう要請した。市長は2時間の面会時間があった。しかし、その件について報告するために会議に出席した彼は、2本の列車の間の2時間の間、最高責任者に大して一言も発言の機会(口を挟む隙)を得られなかったため、報告できなかったと説明した。彼は何度も、時には失礼な態度を取りながら質問をしようと試みたが、上司から「すみません、まだ話が終わっていません。最後まで話させてください」と、次第に強い口調で止められるばかりだったという。市長のこの説明は、公務上の不快感を引き起こしたが、同時に、彼自身の過去の経験を思い出し、いくらかの面白みをもたらした。
私の農業分野の同僚であるゼルヒョウ氏は、地方行政で得ていた評判に見合う働きをしなかった。国王は彼を当時最も重要な内務省に任命するつもりだった。長時間の話し合いの中で、私はゼルヒョウ氏と知り合い、彼がその任務に適任ではないと考え、国王に再考をお願いし、代わりにフリードリヒ・オイレンブルク伯爵を推薦した。両氏とも国王とフリーメイソンの繋がりがあり、内務省の設立に困難が生じたため、12月になってようやく任命を受け入れるよう説得された。国王はオイレンブルク伯爵の内務分野における専門知識に疑問を抱いており、彼には商務省を、イッツェンプリッツ伯爵には農業省を、そしてゼルヒョウ氏には内務省を与えたいと考えていた。それに対し、私はオイレンブルクとゼルヒョウは貿易大臣としてそれぞれの担当分野においてほぼ同等の専門知識を有しており、その専門知識は候補者本人よりもむしろ顧問たちにあると主張した。さらに、この場合、私は技術的な訓練よりも個人の才能、技能、対人スキルをはるかに重視した。オイレンブルクが怠惰で快楽主義者であることは認めたものの、彼は聡明で機転が利く人物でもあり、内務大臣として近い将来危機の最前線に立つことになれば、自己防衛と受けた打撃への反撃の必要性が彼を怠惰から脱却させるだろうと主張した。国王は最終的に私の意見に折れ、私は今でも当時の状況下での私の選択は正しかったと確信している。友人のオイレンブルクの勤勉さや義務感の欠如には時折ひどく悩まされたものの、彼は勤勉な時期には有能な助手であり、私に対しても常に鋭い頭脳を持ち、野心と感受性も持ち合わせていた。禁欲と激務の期間が通常より長引くと、彼は神経衰弱に陥った。いずれにせよ、彼とローンは紛争省で最も傑出した人物であった。
しかし、後に同僚となった人物の中で、私が就任した時点でその影響と目的、そして共同作戦計画を理解し、私とそれについて話し合ったのは、ローンただ一人だった。彼は、私が着任する前も後も、新時代の実験によって国家が陥った危機を克服するために尽力した忠誠心、勇気、そして効率性において、比類なき人物だった。彼は自分の担当部署を理解し、それを完全に掌握しており、我々の中で最も雄弁な人物であり、知性に溢れ、敬虔なプロイセン将校としての信念を揺るぎなく持ち続けていた。オイレンブルクと同様に政治問題にも精通していたが、オイレンブルクよりも一貫性があり、自信に満ち、冷静沈着だった。私生活も非の打ちどころがなかった。私は幼い頃から彼と親交があり、当時彼は地形測量に従事していた際に私の両親の家に滞在していた。彼の気性の荒さは、容易にエスカレートして健康を害するほどだったが、時折、その短気さに悩まされることはあった。 1873年、私が病気のため首相職を彼に譲った時期に、H・アルニムのような野心的な人物や若い軍将校たち――彼らは同盟者と共に「クロイツツァイトゥング」や「ライヒスグロッケ」で私に敵対していた者たちと同じ者たち――が彼に近づき、彼を私から引き離そうと画策した。彼の首相職は、私の関与なしに、他の同僚たちの主導で終焉を迎えた。彼らは、年々激しさを増し、また彼自身のほうも文官の部下たちに気圧されるような人間ではなく、彼の中に同僚間のやり取りにおいて自分たちが求める形式が欠けていると感じていたのだ。彼らは私に、そしてオイレンブルクを通して国王にも内密に、私が首相職に復帰すべきだと提案した。残念ながら、そして私の意図とは関係なく、主に仲介者を通じて、ローンと私との晩年の関係は、冷却化したというよりはむしろ一種の隔たり(遠慮)が生じ、私の親友であり同志である彼が、私について組織的に広められた嘘や中傷に対して、私が逆の立場だったら示したであろう断固たる態度で立ち向かわなかったという思いが、私の心の中に残った。
文部大臣のフォン・ミューレルは、ビジネス上の振る舞いにおいてゴスラーとよく似ていたが、内気で、時には魅力的な妻のエネルギーと公務への没頭が彼に影響を与え、おそらく彼は妻の強い意志に屈していたのだろう。当初、私は直接観察してそう確信したわけではなく、二人の人物が私に与えた印象から推測するしかなかった。1865年8月、ガスタインで、私はフォン・ミューレル氏と王令について二人きりで話したいと、ほとんど無礼とも言えるほど強く主張しなければならなかったことを覚えている。ようやく大臣夫人を説得して二人きりにしてもらうことができたのだ。この強引な行為は、結果として摩擦を生んだ。幸いにも、彼は物事を巧みに処理する人物だったので、当初はビジネス上の関係には影響しなかったが、個人的な交流の結果には少なからず支障をきたした。ミュラー夫人は、夫ではなく女王陛下から政治的な指示を受けており、何よりも女王陛下との緊密な関係を維持することに心を砕いていた。宮廷の雰囲気、身分の問題、そして最高位の親密さの外面的な表現は、大臣夫人にしばしば影響を与え、それが政治において顕著になる。アウグスタ皇后の個人的な政策は、概して国家の理由に反するものであったが、ミュラー夫人は喜んでその政策に従順であった。そして、ミュラー氏は、洞察力があり誠実な官僚ではあったものの、国家政策を犠牲にしてでも家庭の平和(夫婦円満)のために譲歩することは、それを慎重に行うことをためらうほど、信念が固くなかった。
司法大臣のリッペ伯爵は、検察官時代の名残か、最も厳しい判決を下す時でさえ、嘲笑的な優越感を漂わせながら笑顔で話す癖があり、そのため議会や同僚たちの反感を買っていた。彼は我々の中でボーデルシュヴィングの次に最も右派に位置し、自身の政治的信条をより強く主張した。それは、彼が担当分野において十分な知識を有していたため、個人的な信念に基づいて行動できたからである。一方、ボーデルシュヴィングは、専門家である顧問たちの協力なしには財務省の業業務進行を掌握することができなかった。しかし、その顧問たちは、上司であるボーデルシュヴィングや省全体よりもさらに左派寄りの政治的見解を持っていた。

II

この紛争で争点となった憲法上の問題、およびそれに対する省庁の見解、国王の承認は、グロットカウ近郊のオルベンドルフのフォン・ヴィンケ男爵中佐宛ての国王陛下の書簡に記されており、当時報道されたが、私の記憶では全文は公表されなかった。国王の賠償問題に関する立場を説明しているだけに、なおさら公表されるべきである。
フォン・ヴィンケ氏は1863年の新年の挨拶状を次のように締めくくった。「国民は陛下への忠誠を保ちつつも、憲法第99条によって明確に保障された権利を断固として擁護いたします。神のご加護により、大きな誤解から生じる不幸な事態を回避できますように。」

国王は1月2日にこう答えた。

「新年の温かいご挨拶をいただき、心より感謝申し上げます。新年の見通しが芳しくないことは言うまでもありません。しかし、あなたが、私が国民の大多数の心情を理解していないという非難派と同じラッパを吹き鳴らすとは、私には理解しがたいことです。あなたは、忠誠を誓う多くの代表団への私の返答を読んでいないのでしょう。私は、国民が私を信頼していることを知っているので、国民への信頼は揺るぎないと繰り返し述べてきました。しかし、国民の愛と信頼を奪おうとする者たちを私は非難します。なぜなら、彼らの計画は、この信頼が揺らぐことによってのみ実行されるからです。そして、そのためにはあらゆる手段が正当化されることは、全世界が知っています。なぜなら、嘘と欺瞞と偽りだけが、彼らの計画を成就させることができるからです。あなたはさらに、国民は憲法第99条の実施を求めていると言います。国民の中で、第99条を知っている人、あるいはその名前を聞いたことのある人がどれだけいるのか、知りたいものです!」しかし、それは無関係であり、重要ではありません。なぜなら、法律は政府のために存在し、従わなければならないからです。では、誰が法律の執行を不可能にしたのでしょうか?私は冬期会期から夏期会期にかけて400万ターラーの譲歩を行い、その後、残念ながら軍事予算を修正したのではないでしょうか?政府が新しい下院に協力する意思があることを示すために、他にもいくつかの譲歩を行ったのではないでしょうか?そして、その結果はどうだったでしょうか?下院は、私が彼らに協力するために何もしていないかのように振る舞い、ますます多くの新たな譲歩を要求し、最終的には政府を機能不全に陥らせたのです。このように権利を行使する者、つまり、国のすべてが停止するほど予算を大幅に削減する者は、精神病院に送られるべきです!憲法のどこに、政府だけが譲歩し、議員は決して譲歩してはならないと書いてあるのでしょうか?私が前例のない規模で譲歩した後、下院が独自の譲歩を行う番でした。しかし、これはいかなる状況下でも容認できないことであり、いわゆる事件は、我々に次々と罠が仕掛けられ、あなたのいとこのパトーやシュヴェリーンさえもそれに陥ったことを疑いの余地なく証明した。予算を承認するために1862年度に23万4000ライヒスターラーが割り当てられることになっていたが、問題の核心は1863年まで対処されないことになっていた。これは印刷物で入手可能だった。そして私がこの点を指摘すると、ボックム=ドルフスは、彼自身、つまり彼の政治的同盟者にとっては、委員会が直ちに同意し、2年間の任期の法案が翌日の本会議に提出されれば、この合意は受け入れられると宣言した。そして私が従うことを拒否すると、ボックム=ドルフスは新聞を通して我々を嘲笑した。「今、政府が平和と引き換えに議会に23万4000ライヒスターラーを提供するよう要求する厚かましさを想像してみてくれ!」しかし、これが議会からの唯一の申し出だったのだ!政府の信用を失墜させ、国民を混乱させるために、これほどまでに卑劣な所行がかつて行われたことがあるだろうか?
下院は権限を行使し、予算を削減した。
貴族院は権利を行使し、削減された予算案を一括して否決した。
このような場合、憲法は何を規定しているのでしょうか?
何もない!
上記のとおり、下院はその権力を行使して軍隊と国を破壊したため、私はその「空虚」について穴埋めを果たさざるを得ず、良き一家の主として、下院の運営を続け、後日説明責任を果たすことにした。では、第99条を不可能にしたのは誰なのか?もちろん私ではない!
ヴィルヘルム

・第四章 アルフェンスレーベン協定

ポーランドの運動は、イタリア革命と同時に始まり、国民の追悼、教会での愛国記念日の祝典、農業団体の扇動などを通じて、それと無関係ではなかったが、ペテルブルクでは親ポーランド傾向と絶対主義の間でかなり長い間揺れ動いていた。ポーランド人への支持の流れは、ロシア上流社会における憲法への高まる願望と結びついていた。教育を受けた人々でもあるロシア人が、ヨーロッパ諸国すべてに存在する制度を持たず、自分たちの事柄について発言権がないことは屈辱的だと感じられていた。これはゴルチャコフ公爵の見解でもあり、議会制度は彼の雄弁をヨーロッパに適用する場を提供し、人気を求める彼の欲求は、ロシア「社会」における自由主義の流れに抵抗することを不可能にした。ヴェラ・ザスリッチの無罪判決の際、彼は聴衆の拍手喝采に最初に合図を送った。ポーランド問題に関する意見の相違は軍の最高位にまで及び、ワルシャワ総督ランベルト伯爵と参謀総長ゲルステンツヴァイク将軍との間で激しい議論が交わされ、その結果、ゲルステンツヴァイク将軍は不可解な死を遂げた。私はサンクトペテルブルクのプロテスタント教会で行われた彼の葬儀に参列した。自分たちの憲法を要求するロシア人の中には、言い訳として、ポーランド人のほうが文明化されているとして、ロシア人がポーランド人を統治することはできないと主張する者もいた。
私が1862年4月にサンクトペテルブルクを去った時、意見の対立は非常に激しく、大臣就任後最初の1年間もその状態が続いた。1863年1月1日に勃発した蜂起は、ロシア東部諸州の利益だけでなく、ロシア内閣が親ポーランド的立場なのか反ポーランド的立場なのか、ロシア人とポーランド人の間で汎スラヴ主義的、反ドイツ的な友好関係を築こうとしているのか、それともロシアとプロイセンの政策の相互連携を目指しているのか、というより広範な問題にも関わるものだと私は考えていた。友好関係構築の取り組みにおいては、ロシア人の方が誠実でした。ポーランドの貴族や聖職者は、こうした取り組みの成功をほとんど信じておらず、それを最終目標とも考えていなかった。友好関係構築政策を、必要かつ有益である限り敬虔なロシア人を欺くための戦術的な展開以上のものとして捉えていたポーランド人はほとんどいなかった。ポーランドの貴族や聖職者は、ドイツ人との親交を完全に嫌悪したわけではないが、それとほぼ同じくらい常に激しく忌み嫌われている。少なくとも後者は、人種的嫌悪感だけでなく、統一国家においてはポーランド人がロシアを率いるだろうが、ドイツ人はそうではないだろうという信念から、より強く嫌悪されたのである。
プロイセンのドイツにおける将来にとって、ロシアの立場は極めて重要な問題であった。ロシアの政策が親ポーランドの方向に向かうと、パリ条約以来、あるいはそれ以前から追求されてきたロシアとフランスの関係が復活する可能性が高く、7月革命以前に噂されていたような親ポーランドのロシア・フランス同盟は、プロイセンを困難な立場に置くことになるだろう。我々は、アレクサンドル1世の精神を受け継ぐ者を含め、ロシア内閣内のポーランド同情派と戦うことに関心を持っていた。ゴルチャコフと皇帝自身との秘密の会話から、ロシアはポーランドとの友好関係を阻止する保証を一切提供していないことが分かった。当時、アレクサンドル皇帝はポーランドを部分的に手放すことに抵抗はなかった。彼は、少なくともヴィスワ川左岸(ワルシャワを除く)に関しては単刀直入な言葉で私にそう語った。しかし、ワルシャワは軍隊の駐屯地としてそれなりの価値があり、戦略的にはヴィスワ要塞三角地帯に属していた。ポーランドはロシアにとって不安とヨーロッパの脅威の源であり、ロシア化は宗教の違いとロシア当局の行政能力の欠如のために実現不可能だった。我々はポーランド領土のドイツ化に成功していた(?、原文ママに挿入)、ドイツ人の教育水準がポーランド人よりも高かったため、そうする手段があった。ロシア人はポーランド人を支配するのに必要な優越感を感じていなかった。地理的状況が許す最小限のポーランド人人口、つまりヴィスワ川国境と橋頭堡としてのワルシャワに限定しなければならなかった 。
皇帝のこの発言がどれほど慎重に検討されたものかは、私には判断できない。政治家たちと協議されたに違いない。なぜなら、皇帝が私に対して真に独立した個人的な政治的イニシアチブを取ったことは一度もなかったからだ。この会話は、私が解任される可能性がすでに高まっていた時期に行われた。私が解任を残念に思い、サンクトペテルブルクに留まりたいと、単に礼儀正しくも正直に述べたところ、皇帝はやや誤解を招くような形で、私がロシアの公務に就く意思があるかどうかを尋ねた。私は丁重にお断りし、プロイセンの特使として陛下の御傍に留まりたいという希望を強調した。当時、私は皇帝がその方向へ進むことに反対しなかった。なぜなら、パリやロンドンで大臣や特使として、新時代の政治に携わるとしても、自国の政策に関与する見込みがないというのは、全く魅力的なことではなかったからだ。ロンドンやパリで、私が国や自分の信念にどのように貢献できるのか、私には見当もつかなかった。一方で、アレクサンドル皇帝とその最も傑出した政治家たちに対する私の影響力は、我が国の国益にとって決して無意味なものではなかった。外務大臣になるという考えは、私にとっては寒い天候のなかで海水浴に飛び込むような、気の進まないものであった。しかし、こうした感情は、私自身の将来に干渉したり、アレクサンドル皇帝にそのような目的で要請したりするほど強いものではなかった。
大臣に就任した当初は、外交よりも国内政策が優先された。しかし、外交においては、近年の経緯からロシアとの関係が特に重要視されており、サンクトペテルブルクにおけるプロイセンの政策への影響力を可能な限り維持しようと努めた。当時、プロイセンの対ドイツ政策はオーストリアからの支援を期待できないことは明らかだった。フランスのプロイセンの国力強化とドイツ統一に対する善意が長期的に見て真摯なものになるとは考えにくく、だからといって、誤った計算に基づくナポレオンの一時的な、かつ誤った計算に基づく支持や後押しを実利的に利用することを妨げてはならなかった。ロシアとの関係は、イギリスとの関係と同様で、両国とは根本的に異なる利害関係はなく、長年の友好関係で結ばれていた。イギリスからは、プラトニックな善意や有益な手紙や新聞記事は期待できたが、それ以上は期待できなかった。ニコライ1世のハンガリー遠征が示したように、帝政ロシアの支援は時に善意のニュートラルを超えたものだった。アレクサンドル皇帝が我々に有利な行動をとるかどうかは確実ではなかったものの、ドイツ問題へのフランスの介入の試みに対抗する外交的支援を少なくとも提供してくれる可能性は、全くあり得ないことではなかった。私の推測を裏付ける皇帝の心情は、1870年当時も依然として明らかであり、我々は中立で友好的なイギリスがフランスに同情的であることを知った。したがって、私の考えでは、アレクサンドル2世は多くの臣民や高官とは異なり、我々に対して同情的であった。少なくとも、ロシアが我々に敵対する側に立つことを防ぐために必要な範囲で、その同情を育むべき十分な理由があった。当時、このツァーリとの友好関係という政治的資本が、どれほど長く役立つかを確実に予測することは不可能だった。いずれにせよ、それを我々の敵、ポーランド人、親ポーランド派のロシア人、そして最終的にはおそらくフランス人といった敵の手に渡ることを許してはならないのは、ごく当たり前のことだった。当時のオーストリアは、主にドイツ領土におけるプロイセンとの対立に集中しており、1846年の出来事やポーランド貴族の首に懸賞金がかけられたにもかかわらず、カトリック帝国はプロイセンやロシアよりもポーランド貴族や聖職者の間で遥かに多くの同情を集めていたため、我々やロシアよりもポーランド独立運動を容易に受け入れることができた。
オーストリアとポーランドの友好関係とロシアとポーランドの友好関係を調和させることは常に困難な課題であり続けるだろう。しかし、1863年に西側諸国と同盟を結び、ポーランド運動を支援したオーストリアの政策は、オーストリアが復興するポーランドにおけるロシアのライバル関係を恐れていなかったことを証明した。実際、オーストリアは4月、6月、そして8月12日に、サンクトペテルブルクでフランス、イギリスと共同でポーランドを支援する3つの行動を起こしていた。 「我々は、ポーランド王国に平和と平穏を回復できる条件について調査し、これらの条件を次の6つの点にまとめ、サンクトペテルブルク内閣の検討に勧告するに至った。1. 完全かつ一般的な恩赦、2. 国の立法に参加し、効果的な統制手段を有する国民代表、3. 国に対する信頼を醸成する特別な国民行政を形成するような形でポーランド人を公職に任命すること、4. 完全な良心の自由とカトリックの礼拝の実践に対する制限の撤廃、5. 行政、司法、教育における公用語としてのポーランド語の排他的使用、6. 正規かつ合法的な採用制度の導入」ゴルチャコフは、ロシア、オーストリア、プロイセンが合意に達してポーランド臣民の運命を決定するという提案をしたが、オーストリア政府は、ウィーン、ロンドン、パリの3つの内閣の間で締結された合意は、オーストリアがロシアと個別に交渉するために今や断ち切ることのできない絆を彼らに課しているとして、この要求を拒否した。このような状況で、アレクサンドル皇帝はガスタインへの私信で、剣を抜く決意を表明し、プロイセンに同盟を要求した。
当時の西欧二大国との緊密な関係が、フランツ・ヨーゼフ皇帝が8月4日の諸侯会議でプロイセンに対する攻勢を開始する決断を下す一因となったことは疑いようがない。もちろん、ナポレオン皇帝がすでにポーランドの大義にうんざりし、秩序ある撤退を望んでいたことを知らなかったとしたら、それは間違いだっただろう。ゴルツ伯爵は8月31日に私にこう書き送ってきた。
「今日の私の遠征から、私がカエサルと心も魂も一つであること(実際、彼は私の任務の開始時でさえ、今回ほど友好的で親密だったことはなかった)、オーストリアが諸侯会議を開催したことで、フランスとの関係に関して我々に大きな恩恵を与えたこと、そしてメッテルニヒの不在と彼の尊敬する友人の今日の出発のおかげで、ポーランドの相違を満足のいく形で解決するだけで、今後の出来事を自信を持って期待できる政治状況に戻ることができることがお分かりいただけるでしょう。」
ポーランド問題に関する皇帝の示唆に対し、私が望んでいたほど十分に対応することはできませんでした。皇帝は仲介の申し出を期待していたようだったが、国王の発言が私を躊躇させた。いずれにせよ、鉄は熱いうちに打て、ということだろう。皇帝の要求は以前よりも控えめになっており、例えばオーストリアがポーランド問題への協力姿勢を強めることでフランクフルトでの失敗を挽回しようとすれば、皇帝はより強い要求に回帰する恐れがあった。皇帝は今や名誉ある形でこの問題から抜け出したいと願っており、六点合意自体に欠陥があることを認めているため、その実際的な実施については見て見ぬふりをするだろう。そのため、厳格な形式に縛られてその実施を監督することを強いられないことを、むしろ喜んで受け入れるかもしれない。しかしながら、これまでの対応の仕方からして、ロシアが我々の関与なしに、我々が説得しようとしていたことを実行に移し、解決の功績を横取りしてしまうのではないかと危惧している。大公の旅は、どうやら召還されていないようなので、この点において私には疑わしいように思える。もしアレクサンドル皇帝が今憲法を公布し、法的拘束力のある自筆書簡でナポレオン皇帝にそれを通知したらどうなるだろうか?(エムス1870年参照)。これは対立が続くよりはましだが、事前にナポレオン皇帝に「我々はこの件について助言する用意がある。それで満足していただけるだろうか?」と伝えていた場合よりも、我々にとって好ましい状況ではないだろう。
我々は、14日前にフルーリー将軍がプロイセン公使館員に、アレクサンドル皇帝に前述の措置を取るよう助言したという示唆に耳を傾けなかったため、三国による外交努力は実を結ばなかった。ゴルツ伯爵の計画全体は、私には政治的に妥当でも価値あるものでもなく、我々の考えよりもパリ的な考え方に基づいているように思えた。
オーストリアは、ポーゼンと西プロイセンにおけるポーランドとドイツの主張の相互執行、および東プロイセンの状況とポーランドの独立回復問題に不可分に結びついているポーランド問題に関する困難に直面していません。私たちの地理的位置と、シレジアを含む東部諸州における両民族の混在は、ポーランド問題の開始を可能な限り延期することを私たちに強いており、1863年当時、ロシアにこの問題を開始するよう促すのではなく、できる限り阻止することが賢明であるように思われた。1863年以前には、サンクトペテルブルクで、ヴィエロポルスキの理論に基づいて、コンスタンチン大公とその美しい妻がポーランドの総督として構想された時期があった。当時、大公妃はポーランドの衣装を着ていた。おそらく、アレクサンドル1世によって与えられ、老コンスタンチン大公の下で形式的に効力を持っていたポーランド憲法の復活を伴うものだった。
1863年2月にサンクトペテルブルクでグスタフ・フォン・アルフェンスレーベン将軍によって締結されたアルフェンスレーベン協定は、プロイセンの政策にとって軍事的目的よりも外交的目的が強かった。それは、ロシア皇帝の内閣内で勝ち取られ、ゴルチャコフ、コンスタンチン大公、ヴィエロポルスキ、その他の有力者によって推進された、プロイセンのポーランド政策に対する勝利を意味していた。その結果は、閣僚の努力ではなく、皇帝の直接の勅令に基づいていた。ロシアがポーランドの「兄弟部族」に対する汎スラヴ主義のゲルマン的反対者と締結したこの政治・軍事的性質の協定は、ロシア宮廷における親ポーランド派の将来に決定的な打撃を与えた。そしてこの意味で、軍事的にはほとんど実害のないアルフェンスレーベン協定は、その目的を十分に果たしたと言える。差し迫った軍事的必要性はなかった。ロシア軍は十分な戦力を有しており、反乱軍の成功は、パリが委託し、ミスロヴィッツで捏造された報告書の中にのみ存在していた。これらの報告書は、国境地帯、戦場、ワルシャワなど様々な場所から発信されたもので、時には全く荒唐無稽なものであった。これらの報告書は、まずベルリンの新聞に掲載され、その後ヨーロッパ中の報道機関に広まった。この協定は、反ポーランド君主制派とポーランド化を目指す汎スラヴ主義勢力との間でロシア内閣内で繰り広げられた駆け引きを決定づける、成功した動きであった。
ゴルチャコフ公のポーランド問題に関する見解は、絶対主義的な場合もあれば、自由主義的とは言えないまでも議会主義的な場合もあった。彼は自らを偉大な雄弁家だと考えており、実際その通りで、ワルシャワやロシアの演壇で披露した雄弁さをヨーロッパの人々が賞賛する様子を想像することを楽しんでいた。ポーランドに与えられた自由主義的な譲歩はロシア人にも与えられないはずがないと考えられており、憲法を重んじるロシア人はすでにポーランドの友人であった。
ポーランド問題をめぐって世論が沸き立ち、アルフェンスレーベン協定が州議会の自由主義者たちの軽率な憤りを招いていた頃、私は皇太子も同席するある社交の場でヒンツペーター氏と知り合った。彼は主君たちと日常的に接していたため、保守的な傾向のある人物として私に自己紹介していたので、私は彼と会話を交わし、ポーランド問題に関する私の見解を説明した。彼が時折、この問題に賛成する発言をする機会を見つけるだろうと期待していたからだ。数日後、彼は私に手紙を送り、皇太子妃が私が彼と長い間何を話し合っていたのか尋ねてきたと伝えた。彼は皇太子妃にすべてを話し、その後、その内容を文書にまとめて私に送り、確認と訂正を求めた。私はこの要求を拒否せざるを得ないと返信した。もし私が応じるなら、彼は私が直接彼にではなく皇太子妃にこの件について書面で伝えることになるだろうと示唆したが、私は口頭でしか伝えるつもりはなかった。

・第五章 ダンツィヒのエピソード 

I

私が特に私の主君として言及するあの君主(ヴィルヘルム1世)の息子であるフリードリヒ皇帝は、その親しみやすさと信頼によって、私が彼の父に対して抱いていた感情を彼に容易に移すことができた。彼は、大臣である私が彼の決定に対して責任を負うという立憲君主制的な見解を抱いていたため、概して父王よりも親しみやすい人物であった。また、国内外の政治的ニーズを満たす上で、家族の伝統に妨げられることも少なかった。フリードリヒ皇帝と私の間に永続的な意見の相違があったという主張はすべて根拠のないものである。一時的な意見の相違はダンツィヒでの出来事から生じたものであり、マックス・ダンカー[1]の遺稿が出版されて以来、その件について語るにあたり、私は、そうでなければ控えていたであろうよりも抑制を緩めてきた。1863年5月31日、皇太子はプロイセン州での軍事視察に出発したが、国王にいかなる(勅令による憲法外の)法制定も避けるよう書面で懇願した。彼が乗っていた列車にはダンツィヒ市長のフォン・ヴィンター氏が同乗しており、王子は途中で彼を自分のコンパートメントに招き入れ、数日後にはクルム近郊にある彼の領地を訪れた。6月2日、皇太子妃は彼に同行してグラウデンツへ向かった。その前日、国務省の報告に基づき報道に関する勅令が発布され、同時に公表された。6月4日、皇太子は国王に書簡を送り、この勅令への不承認を表明し、国務省の関連審議に自分が参加できなかったことを嘆き、王位継承者として自分に課せられた義務について述べた。6月5日、ダンツィヒ市庁舎で市当局者のためのレセプションが開かれ、フォン・ヴィンター氏は、状況が許さず市が喜びを十分に、そして大声で表現できなかったことを残念に思うと述べた。皇太子は返信の中で、とりわけ次のように述べた。
「政府と国民の間に亀裂が生じたこの時期に私が就任したことを、私も深く嘆いています。この事実を知った時、私は大変驚きました。私は、その亀裂を招いた命令について何も知りませんでした。私はその場に居合わせませんでしたし、その決定に至るまでの審議にも一切関与していません。しかし、国王陛下の高潔で慈愛に満ちたご意向と寛大な心情を最もよく知る私たち全員、そして何よりも私自身は、国王陛下の御笏の下、プロイセンが必ずや天の摂理によって定められた偉大さへと向かっていくと確信しています。」
事件に関する報道を掲載した「ダンツィガー・ツァイトゥング」の写しがベルリンをはじめとする各新聞社の編集部に送られたが、これらの新聞社は本質的に地方紙であるため、通常は前述の新聞を掲載していなかった。そのため皇太子の言葉はたちまち広く伝わり、当然のことながら国内外で波紋を呼んだ。皇太子はグラウデンツから私に報道条例に対する正式な抗議文を送り、国務省に送付するよう要求したが、これは国王の命令により保留された。7日、皇太子は4日付の抗議文に対する国王陛下からの真摯な返答を受け取った。そして、自身と子供たちの将来のためにやむを得ず取った行動について父に許しを請い、全ての役職の進退をゆだねた。11日、皇太子は要求した許しを認める返答を受け取り、大臣に対する苦情と辞任の申し出は無視され、今後沈黙を守ることが義務とされた。
国王の動揺はもっともだと認めざるを得なかったが、私は国王が国家的な、あるいは公に認められるような行動に出るのを阻止しようと努めた。王朝の利益のために、私は国王を落ち着かせ、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とキュストリンを彷彿とさせるような行動を取らないよう説得しなければならなかった。これは主に6月10日、バーベルスベルクから新宮殿への旅の途中で起こった。そこで国王陛下は訓練大隊を視察された。御者台の上に召使いが乗っていたため、会話はフランス語で行われた。私は、現在の王室と議会の対立において、王室内の不和は緩和され、無視され、闇に葬り去られねばならず、父と国王は双方の利益が損なわれないよう、より一層注意を払う必要があると主張することで、父の憤りを鎮めることに成功した。「若者アブサロムを穏やかに扱ってやってください。」私は、国内の聖職者たちが既にサムエル記下第15章第3節および第4節について報告していることに触れ、「陛下、気まぐれに基づく決定は避けてください。国家の理由のみが決定的な判断を下すことができるのです」と述べた。特に印象的だったのは、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とその息子との対立において、息子の方が同時代人や後世の人々の同情を集めており、皇太子を殉教者にするのは賢明ではないと私が指摘した時だった。
父と息子の間で交わされた前述の書簡によって少なくとも表面上は問題が解決された後、私は6月30日付でシュテッティンから皇太子からの書簡を受け取った。その書簡は私の政策全体を強く非難するものでした。それは国民に対する慈悲と敬意を欠き、憲法の極めて疑わしい解釈に基づいており 、国民にとって無価値なものとなり、国民を憲法の範囲外の方向へと導いていると述べられていた。一方、内閣は大胆な解釈からさらに大胆な解釈へと進み、最終的には国王に憲法の破棄を勧告するに至るだろうと述べられていた。彼は国王に対し、内閣が政権を握っている限り、内閣の会議への参加を控える許可を求めるだろうと述べていた。
皇太子からこの発言を受けた後も私が自らの道を貫き通したという事実は、間もなく起こりうる王位交代後も大臣の地位にとどまるつもりがないという私の明確な証拠であった。しかしながら、後述する会話の中で、皇太子は私にそのことをはっきりと伝えるよう迫った。
国王が驚いたことに、タイムズ紙は7月16日か17日に次のように報じた。「王子は軍事視察の際に、あえて国王の政策に異議を唱え、その措置に疑問を呈した。この重大な侮辱を正すために王子ができる最低限のことは、発言を撤回することであった。国王は手紙で王子にこれを要求し、拒否すれば地位と役職を剥奪すると付け加えた。伝えられるところによると、王子は王女殿下と合意の上、この要求に対し毅然とした返答を書いた。王子は一切の撤回を拒否し、指揮権と地位を放棄することを申し出、国政に干渉しているという疑いから解放される場所に妻と家族と共に隠遁する許可を求めた。」この手紙は素晴らしいものであり、王子は、自由主義的な考えを共有するだけでなく、人生におけるこのような重要かつ危機的な時期に、これほど多くの支援を提供できる妻に恵まれているのは幸運であると言われている。助言者もいない王子夫妻の立場ほど困難なものは想像しがたいだろう。一方にはわがままな君主と腐敗した内閣があり、他方には動揺した民衆がいるのだから。
この記事の情報源に関する調査では、決定的な結果は得られていない。いくつかの状況から、公使館参事官のマイヤーに疑いの目が向けられた。副官のブラターが「グレンツボーテン」と「南ドイツ郵便」に送ったより詳細な通信は、皇太子の当局の信頼を得て維持していた下級ドイツ外交官を経由して行われたようで、その外交官は四半世紀後、皇太子から託された原稿を軽率に公表することで、その信頼を悪用した。
私は、皇太子がこの出版物について知らなかったという彼の断言を一度も疑ったことはなかった。たとえ彼が7月14日付[2]のマックス・ダンカー宛の手紙の中で、ビスマルク側が彼と国王との間の書簡の写しを入手できたとしても驚かないだろうと書いていたことを読んだ後でも、疑わなかった。
私は、皇太子が自身の立場に影響を受けたと思われる同じ側で、その出版物の著者を探さなければならないと考えた。フランス戦争中の観察、そして最近ではダンカーの文書からの情報が、当時の私の見解を裏付けている。それについて徹底した知識を持ち合わせていなかった一群の政治評論家が、いわゆるイギリス憲法を大陸諸国の模範として四半世紀にわたって称賛し、模倣を勧めていた状況では、皇太子妃とその母がプロイセン国家の特殊性、すなわち議会のグループが変わることでプロイセンを統治することが不可能であることを誤解したのも無理はない。そして、この誤りから、19世紀のプロイセンでは、17世紀のイギリスの内紛と惨禍が、それらの内紛を終結させた制度を導入しない限り繰り返されるだろうという、もう一つの誤りが生じたのも無理はない。当時私が受け取ったニュース、すなわち1863年4月にアウグスタ王妃がルドルフ・カンプハウゼン長官を通じて、また皇太子妃がシュトックマー男爵を通じてプロイセンの内情に関する批判的な覚書を作成し、国王に提出したというニュースが真実であったかどうかは確認できていないが、随行員にマイヤー公使館参事官も含まれていた王妃がスチュアート朝風の破滅を心配していたことは知っていたし、1862年に国王が妻の誕生日祝賀会の後バーデンから戻ってきたときの陰鬱な気分からもすでに明らかであった。君主制との闘争に身を投じ、日々勝利を期待していた進歩党は、報道機関や個々の指導者を通じて状況を(都合のよい)照明の下にさらすことを忘れず、それは特に女性の心に強い影響を与えたに違いない。
1 R.ハイム著「マックス・ドゥンカーの生涯」ベルリン、1891年
2 A.O.(ハイム)著、308頁

II

8月にガスタインで皇太子の訪問を受けた。そこで皇太子はイギリスの影響から解放され、謙虚かつ友好的に、自身の行動を、政治的訓練の不足やビジネスからの距離のために、本来の独立性の欠如と父親への敬意の念から説明し、自身の過ちを認め、自身に及ぼした影響を弁解する人物のように、ためらいなく話した。
9月、国王と私がバーデン経由でベルリンに戻り、皇太子はガスタインから直接ベルリンに戻った後、6月に彼の行動を促した影響と恐怖が再び優勢になった。代議院の解散が決定された日の翌日、彼は私にこう書き送ってきた。

ベルリン、1863年9月3日
本日、私はプットブス(シュテッティン近郊)からの手紙で概説した見解を陛下にお伝えしました。そして、私が自ら伝えるまでは、その内容を陛下に開示しないようお願いしていました。昨日、閣議で重大な決定が下されました。大臣たちの面前では、陛下に返答したくありませんでしたが、本日、返答することになりました。私は懸念を表明し、将来に対する深刻な不安を述べました。陛下は今、私が内閣の断固たる反対者であることをご存知です。
フリードリヒ・ヴィルヘルム

皇太子が6月30日付の書簡で発表した、国務省の会議への出席を免除してほしいという要請についても、この時話し合われた。1863年9月11日付のフォン・ボーデルシュヴィング大臣からの以下の書簡は、当時の二人の高官の関係性を示している。
「このような悲しい理由[1]で旅に出られたあなたが、いつお戻りになるのか、また、その後すぐにあなたとお話できるかどうかは定かではありませんので、陛下の副官から受けた指示に従い、あなたに代わって皇太子殿下の副官に、あなたの急な出発とその理由を伝え、謁見の要請が既に殿下に伝えられたか、あるいは謁見の手配が既に済んでいるかを殿下にお伝えするよう依頼したことをお知らせいたします。ホーエンローエ侯爵が私に語ったところによると、陛下はあなたの出発と謁見について、皇太子殿下ご自身と直接お話しすることは適切ではないとお考えになったとのことです。」

国王は、1861年以来そうであったように、皇太子が引き続き国務会議に出席すべきだと決定し、私にその旨を伝えるよう指示した。おそらく、要請された謁見は実現しなかったのだろう。というのも、その日開催されなかった閣僚会議に皇太子が出席したという、やや誤解を招くような出来事をきっかけに、私は議論を始めたことを覚えているからだ。私は皇太子に、なぜ政府からこれほど距離を置いているのかと尋ねた。数年後には、いずれは皇太子の地位が移るのだから、もし他に信念があるのなら、政権移行に反対するのではなく、仲介役を務めるべきだと。皇太子はこれをきっぱりと拒否した。私が彼の側近になるための布石を打とうとしているのではないかと疑ったようだった。何年も経った今でも、その時の、まるでオリンポスの神々のような威厳に満ちた敵意に満ちた表情を忘れることができず、今でも、後ろに反り返った頭、紅潮した顔、そして左肩越しにちらりと見る仕草が目に浮かぶ。私は自分の感情の爆発を抑え、「ドン・カルロス」のカルロスとアルバ(第2幕第5場)のことを考え、国と王朝の利益のために、疎遠によって損なわれた王朝を父上とより緊密に結びつけるために、王朝感情に駆られて発言したのだと答えた。私は6月に、国益と議会支配との闘いのために王室内の結束を維持したいと考え、父上が怒りに任せて決定を下さないよう説得するためにできる限りのことをした。私は父上の忠実な家臣であり、彼が王位に就いたときには、私が父上に忠実であったように、彼にも忠実な家臣がいることを願っている。私が大臣になろうと望んでいるという考えは、彼には捨ててほしい。私は決してそんなつもりはない。彼は興奮したのと同じくらい早く穏やかになり、友好的な言葉で会話を終えた。
彼は国務省の会議への参加をこれ以上望まないという意思を貫き、9月には国王宛てに覚書を送付した。おそらく外部要因の影響を受けたのだろうが、その中で彼は6月の行動を正当化するような形で理由を述べた。その後、国王陛下と私との間で私的な書簡のやり取りがあり、その最後は以下の内容で締めくくられた。

バーベルスベルク、1863年11月7日
9月の回想録に対する私の返信を同封いたします。ご参考までに、回想録本体と、返信の際に参考にさせていただいたあなたのメモも同封いたします。

私はその覚書の写しを入手していませんが、その内容は私の余白へのメモから読み取ることができます。以下にそのメモを示します。
1ページ目。殿下からの警告が、非常に真剣かつ慎重な検討を経て採択された王室決議よりも優先されるべきだという主張は、君主であり父である人物の立場や経験に比べて、自身の立場や経験に過度の重みを置くことになる。
皇太子殿下が「法令の制定に関与した」などと信じる者は誰もいなかった。なぜなら、皇太子には内閣での投票権がなく、かつて慣例であった皇位継承者の公式な地位は憲法の下では不可能になっていることは誰もが知っているからだ。したがって、ダンツィヒでの釈明は無意味だった。
会議に出席し、国事について耳を傾け、自らの意見を述べることで最新の情報を得ることは、王位継承者全員の義務であり、殿下の決定の自由を損なうものではない。この義務の履行が新聞で知られるようになれば、皇太子がその高貴で重大な使命に向けて誠実に準備を進めていることについて、あらゆる場所で好意的な評価が生まれるだろう。
「縛られた手」などの言葉には意味がない。
2ページ目。 「国民」は、皇太子殿下を内閣と同一視することは到底考えられない。なぜなら、国民は皇太子殿下が公式な決定に関与する立場にないことを知っているからだ。残念ながら、皇太子殿下が国王に対して取った立場は国民に広く知られており、党派を問わず、すべての世帯主から父権的権威の拒絶として非難されている。この誤解は、人々の感情と伝統の両方を傷つけるものだ。この覚書の公表は、国民の世論において皇太子殿下の評判をこれ以上損なうことはないだろう。
2ページ目。しかし、皇太子の状況は「完全に間違っている」。なぜなら、王位継承者が国王や父に対して反対の旗を立てることは職務ではないからである。そこから抜け出す「義務」は、通常の地位に戻ることによってのみ果たされる。
3ページ。義務の衝突は存在しない。なぜなら、前者の義務は自ら課したものであり、プロイセンの未来に対する責任は国王にあり、皇太子にはないからである。そして、「過ち」があったかどうか、またどちら側で過ちがあったかは、未来によって明らかになるだろう。国王陛下の「見識」が皇太子のそれと矛盾する場合、常に国王陛下の判断が優先されるため、衝突は存在しない。国王陛下ご自身も、我が国の憲法には「王位継承者からの反対の余地はない」と認めておられる。
4ページ。評議会内での反対意見は、いったん決定が下された後の国王陛下への服従を妨げるものではない。大臣は反対意見を持っていたとしても[2]反対することができるが、たとえ反対した事柄を実行する責任が自らにあるとしても、国王の決定に従わなければならない。
4ページ。もし殿下が大臣たちが国王の意思に従って行動していることをご存知であれば、王位継承者の反対が現国王自身に向けられていると殿下が誤解されることはあり得ません。
5ページ。皇太子は、国王の意思に反して「闘争」を行うための職業や権限を一切持っていない。それは、まさに皇太子が公式な「地位」を持っていないためだ。王家の王子であれば誰でも、皇太子と同じ権利で、反対意見を持っている場合は、国王の統治におけるとされる誤りの影響から「自分と自分の子供たち」の潜在的な相続権を守るため、つまり、国王が革命によって打倒された場合にルイ・フィリップの流儀で(簒奪的に)王位継承を確実にするため、国王に公然と反対する「義務」を自ら主張することができる。
5ページ。首相はガスタインでの発言について、より詳細な説明をしなければならない。
7ページ。皇太子は国王陛下から会議に招集されるのは、国王の「顧問」としてではなく、自身の情報収集と将来の職業への準備のためである。
7ページ。政府の措置を「無力化」しようとする試みは、王室に対する闘争であり反乱となるだろう。
7ページ。民主主義によるあらゆる攻撃や君主制の根幹を蝕むあらゆる動きよりも危険なのは、王位継承者の公然とした反対表明や、王朝内部の不和の意図的な公表によって、国民と王朝を結びつけている絆が緩んでしまうことである。もし息子であり王位継承者が父であり国王である者の権威に挑戦するならば、一体誰にとって権威が神聖なものとなるのだろうか。もし将来への野心が、現在の国王に背を向けることで報われるならば、そうした絆は将来の国王自身の不利益となる形で緩み、現政権の権威の麻痺は将来の政権にとって悪しき種を蒔くことになるだろう。分裂し麻痺した政権よりは、どんな政権でもましである。そして、現在の皇太子が引き起こす可能性のある混乱は、彼自身がいつか国王として君臨することになる体制のまさに土台を揺るがすことになるだろう。
プロイセンの現行憲法によれば、統治するのは大臣ではなく国王である。議会間で分担されているのは立法のみであり、政務は分担されていない。大臣は議会において国王の代理を務める。したがって、憲法制定以前と同様に、大臣が国王の召使い、すなわち国王が任命した顧問であって、プロイセン国家の統治者ではないことは完全に合法である。憲法の下でも、プロイセンの君主制はベルギーやイギリスの君主制と同等のレベルには達しておらず、憲法に別段の定めがない限り、国王は依然として自らの裁量で統治し、命令を下す。そして、これは立法に関してのみ当てはまる。
8ページ。国家機密の漏洩は刑法に違反する。国家機密として扱われるべきものは、公務上の秘密に関する国王の命令によって決まる。
8ページ。なぜ「国外」で公開される情報にこれほど大きな重要性が置かれるのだろうか?殿下が義務に従って評議会で意見を表明されるのであれば、殿下の良心は満たされるはずだ。皇太子殿下は国政において公式な役職を持たず、公の場で発言する義務もない。わが国の制度を少しでも知っている人であれば、殿下が投票権を持たず、したがって効果的な異議申し立てができないまま評議会の審議を聞いているという事実から、殿下が政府の決定に同意していると推測することはないだろう。
8ページ。「見た目が良くなるわけではない」。この状況の誤りはまさに「見た目」に重点を置きすぎている点にある。重要なのは存在することと能力を持つことであり、それは真剣で思慮深い努力の成果にすぎない。
9ページ。殿下の評議会への参加は「積極的な」立場ではなく、皇太子は「投票」を行いません。
9ページ。この情報を国王陛下の許可なく「任命された」(?)人物に開示することは刑法に違反する。国王陛下は実際には言論の自由を望んでおらず、発言のみが決定に影響を与えることができる評議会においてのみそれを望んでおられる。反対派を「公に暴露する」ことは、自己利益を満たすだけであり、不満と反抗を助長し、ひいては革命への道を開くことになる。
10 ページ。殿下が閣僚の仕事を困難にすることは間違いないし、殿下が会議に参加しなければ閣僚の仕事は楽になるだろう。しかし、国王陛下は、皇太子が国の情勢や法律に精通するようにできる限りのことをするという義務を回避できるだろうか。何百万もの人々の幸福が将来の国王の国政への精通にかかっているのに、将来の国王が国政に精通していないことを許すのは危険な実験ではないだろうか。この覚書の中で、殿下は、皇太子の会議への参加は決して責任を伴うものではなく、単なる情報提供に過ぎず、殿下から意見を求められることは決してないという事実を知らないことを露呈している。議論全体はこの誤解に基づいている。もし皇太子が国政にもっと精通していたなら、国王が殿下の希望に従わなければ会議の議事録を公表すると脅すようなことは起こらなかっただろう。つまり、法律違反であり、しかも刑法違反である。しかもこれは、殿下ご自身が国王陛下との書簡の公表を非常に強い言葉で非難してからわずか数週間後のことだった。
11ページ。しかし、前述の告発は国民全員にとって非常に明白なものであり、誰も殿下にそのような意図があると非難する者はいないが、そのような意図を抱く者たちは、皇太子の無意識の協力によってそれを実現しようと望んでおり、不届きな暗殺未遂事件が今や実行犯にとって体制転換の可能性をかつてないほど高めていると言われている。
12ページ。議会の議題をタイムリーに把握したいという要望は常に正当なものとして認められ、常に満たされてきた。実際、これまで以上に詳細な情報提供を受けられるよう、殿下にご尽力いただきたいという願いがしばしば表明されてきた。そのためには、殿下の所在が常に把握され、連絡が取れる状態である必要があり、皇太子殿下は大臣たちと直接連絡が取れる状態である必要があり、また、慎重さが保証されなければならない。しかし何よりも重要なのは、殿下のみが国家の未解決事項について協議する権限を与えられる裁定委員は、政府の反対者ではなく、政府の味方であるか、少なくとも州議会(議会)や報道機関の野党と密接な関係を持たない公平な評価者でなければならないということだ。最も難しい点は、特に外国に対する慎重さです。殿下と皇太子妃殿下が、支配者(君主)の家系においては、最も近しい親族が必ずしも自国人であるとは限らず、必然的に、そして義務としてプロイセン以外の利益を代表していることを理解していない限りは。母と娘の間、兄弟と姉妹の間に、利害の境界線として国境が存在する場合、事態は困難になる。しかし、このことを忘れることは、国家にとって常に危険である。
12ページ。「最後の評議会会議」(3日)は評議会会議ではなく、単に国王陛下への任命であり、大臣自身も事前に知らされていなかった。
13ページ。大臣たちへの伝達は、覚書に公式な性格を与えることになるが、王位継承者による省略自体にはそのような性格は付与されない。

1 義母の死去。私は6日から11日までベルリンを離れていた。
2 ここで国王は、「それが彼らの良心に反しない限り」という条項を追加している。

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