MVP ARCHIVE PEOPLE | Prime Ministers of Japan : Kakuei Tanaka 1918–1993 / 田中角栄 - 第64・65代 内閣総理大臣

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田中角栄 - 第64・65代 内閣総理大臣
戦後日本の 高度経済成長 が終わりへ向かい、世界経済と国際秩序 が大きく変化し始めた1970年代、その転換点で日本の進路を動かした政治家の一人が、田中角栄 だった。
地方から国政へ進み、巨大なインフラ構想を掲げ、中国との 国交正常化 を実現し、資源外交 を世界へ広げる。
一方、その政治力を支えた巨大な資金と人脈は「 金権政治 」の象徴ともされ、やがて ロッキード事件 によって 逮捕・起訴 される。
田中角栄 という人物を見ることは、戦後復興、高度経済成長、地方開発、日米関係、冷戦、中国、ソ連、石油危機、そして戦後日本の政治そのものが交差している。
雪国から国政へ
1918年、田中角栄 は新潟県刈羽郡二田村、現在の柏崎市に生まれた。
裕福な家庭の出身ではなく、高等小学校を卒業した後に上京し、建築・土木関係の仕事へ進む。戦後には田中土建工業を設立し、事業家として活動。
そして1947年、衆議院議員総選挙 で初当選する。
田中 の政治家としての特徴の一つは、この経歴にあった。
中央官庁や大学、政治家一族を経由して政治へ入ったのではなく、地方社会、建設、道路、鉄道、住宅、産業といった生活と経済を支える現場から政治へ入った人物だった。
その後、郵政大臣、大蔵大臣、自民党幹事長、通商産業大臣などを歴任。
政策、予算、法律、官僚機構、党内政治を理解しながら、自民党の中心人物へ上昇していった。
「日本列島改造論」
1972年、田中 は『 日本列島改造論 』を発表する。
その中心にあったのは、単なる公共事業の拡大ではなかった。
高度経済成長 によって東京・大阪など大都市圏へ人口と産業が集中する一方、地方との経済格差、公害、住宅不足、交通混雑などが深刻化していた。
田中 は、高速道路、新幹線、情報通信網などによって全国を結び、工業や都市機能を地方へ分散させることで、この構造そのものを変えようとした。
地方と都市を接続する。
交通時間を短縮する。
産業立地を分散する。
地方でも所得を得られる社会をつくる。
1972年7月、田中 は 第64代内閣総理大臣 に就任する。
「 今太閤 」と呼ばれた 田中 の登場は、戦後日本社会の上昇そのものを象徴する出来事でもあった。
しかし列島改造への期待は、土地投機や地価上昇も引き起こした。
そして翌1973年、日本経済をさらに大きな変化が襲う。
石油危機
1973年10月、第四次中東戦争 を契機として 第一次石油危機 が発生する。
石油輸入への依存度が高かった日本にとって、それは単なるエネルギー価格の上昇ではなく、戦後日本を支えてきた大量生産・大量消費型の 高度経済成長 そのものが揺らいだ。
田中政権 は物価高騰への対応を迫られる一方、日本のエネルギー供給をいかに確保するかという問題に直面する。
ここから 田中外交 のもう一つの特徴が鮮明になる。
資源を確保するため、日本自身が外交を動かすことだった。
中国との国交正常化
田中政権 最大の外交的転換の一つが、中国との国交正常化 だった。
1972年9月、田中 は北京を訪問、周恩来首相、毛沢東主席 らと会談し、9月29日に 日中共同声明 が発表された。
日本は 中華人民共和国政府 を中国の唯一の合法政府として承認し、中華民国との外交関係は終了、これは戦後日本外交における巨大な転換だった。
前年の1971年には、米国の ニクソン政権 自身が中国との関係改善へ動き始めていた。
しかし、日本が中国との正式な 国交正常化 を実現するには、戦争の記憶、台湾との関係、日米関係、国内政治など複数の問題を同時に処理する必要があったが、田中政権 は、それを就任からわずか数か月で実現した。
ソ連と資源外交
1973年10月には ソ連 を訪問し、レオニード・ブレジネフ書記長 らと会談、日ソ間には 北方領土問題 という大きな対立が残されていたが、その一方で シベリアの天然資源開発 など、経済協力の可能性も模索された。
さらに 田中政権 は、中東、東南アジア、北米などへ外交を広げていく。
戦後日本は米国との同盟を外交・安全保障の基軸としていた。
しかし 田中外交 には、その枠組みを維持しながらも、中国とも交渉する、ソ連とも交渉する、中東とも関係を構築するという、日本自身の経済的・外交的選択肢を広げようとする動きがあった。
金脈問題と退陣
田中 の政治は、巨大な政治資金とも結び付いていた。
田中派 は自民党最大級の派閥へ成長し、田中 自身も強力な人脈と資金力を背景として政治を動かした。
1974年、『 文藝春秋 』に立花隆による「 田中角栄研究―その金脈と人脈 」が掲載され、田中 の資産形成や企業との関係が大きな政治問題となる。
支持率は低下、1974年12月、田中 は首相を辞任した。
しかし、政治家としての影響力まで失ったわけではなかった。
田中派 はその後も 自民党最大級の政治勢力 として残り、田中 は首相退任後も党内政治に強い影響力を持ち続ける。
ロッキード事件
1976年、米国上院の調査を契機として、航空機メーカー Lockheed による各国への 秘密資金提供 が明らかになった。
日本では全日本空輸( ANA )による L-1011トライスター 導入をめぐる資金提供が捜査対象となり、丸紅、ANA、政界などへ捜査が拡大する。
その中心人物として浮上したのが 田中角栄 だった。
検察は、田中 が首相在任中、L-1011 採用への働きかけの対価として5億円を受け取ったとして逮捕・起訴し、1983年、東京地方裁判所は田中に懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡す。
1987年、東京高等裁判所 も控訴を棄却、田中 は一貫して無罪を主張し、最高裁へ上告する。
しかし判決が確定する前の1993年12月、田中 は75歳で死去したため、公訴棄却となった。
それでも続いた「田中政治」
ロッキード事件 によって 田中 は自民党を離党した。
それでも政治的影響力はすぐには消えなかった。
田中派 は巨大勢力を維持し、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘らの政権成立をめぐる自民党内政治にも強い影響を及ぼした。
首相でもなく、自民党員でもない人物が、政権の成立に影響する。
この異例の政治力は「 闇将軍 」と呼ばれた。
しかし1985年、田中 は脳梗塞で倒れる。
その後、田中派内部では竹下登らが新たな政治勢力を形成し、田中 が築いた巨大派閥も再編されていった。
田中角栄が残したもの
田中角栄 を「 庶民宰相 」と見ることも、「 金権政治 」の象徴と見ることも、ロッキード事件 の被告人として見ることもできる。
しかし、そのどれか一つだけでは、田中角栄 という政治家が戦後日本で持った意味を捉えることは難しい。
彼が政治の中心にいた時代、日本は 高度経済成長 の頂点から 石油危機 へ入り、米中接近によって 冷戦構造 が変化し、資源を海外に依存する日本は新しい外交を必要としていた。
田中 が進めた道路、新幹線、地方開発の思想は、その後の日本の国土構造にも長く影響した。
日中国交正常化 は、現在まで続く東アジア外交の大きな基点となった。
そして ロッキード事件 は、政治と金、企業、商社、航空行政、国際ビジネス、米国との関係が複雑に交差する事件として戦後政治史に残った。
田中角栄 という一人の政治家を追っていくと、戦後日本がどのように豊かになり、何に依存し、世界とどう関係し、その政治がどのような力によって動いていたのか、という、さらに大きな構造が見えてくる。
田中角栄 の時代は、戦後日本が完成へ向かった時代であると同時に、その仕組みが抱えていた矛盾が表面へ現れ始めた時代でもあった。

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