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MVP ARCHIVE PEOPLE | Marie Antoinette 1755–1793 / マリー・アントワネット - フランス最後の王妃、その生涯と時代

Marie Antoinette / マリー・アントワネット - フランス最後の王妃、その生涯と時代

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マリー・アントワネット

フランス最後の王妃、その生涯と時代

1793年10月16日、フランス革命 の最中、パリの革命広場で一人の女性が処刑された、 Marie Antoinette マリー・アントワネット
フランス国王ルイ16世の王妃。

オーストリアのハプスブルク家に生まれ、ヨーロッパの国際政治によってフランス王家へ嫁ぎ、18歳で王妃となった女性だった。
その38年の生涯は、18世紀ヨーロッパの王侯社会とフランス旧体制が崩れていく過程の中にあった。

ハプスブルク家の皇女

マリー・アントワネットは1755年11月2日、ウィーンに生まれた。
父は神聖ローマ皇帝フランツ1世。
母はハプスブルク君主国を統治した、Maria Theresa|マリア・テレジア 。

彼女の出生名は、 Maria Antonia マリア・アントニア。
当時のヨーロッパ王侯社会では、王族の結婚は個人だけの問題ではなかく、婚姻は国家間の関係を結ぶ外交手段でもあった。

長く対立してきたオーストリアとフランスは18世紀半ばに外交関係を転換し、同盟関係へ入る。
その関係を強化する婚姻として選ばれたのが、マリア・アントニア とフランス王太子 ルイ=オーギュスト だった。

フランスへ

1770年、14歳の マリア・アントニア はオーストリアを離れ、フランスへ向かい、フランス王太子との結婚に伴い、名前もフランス式の、 Marie Antoinette となる。
彼女が入ったのは、ヨーロッパでも特に巨大な宮廷社会を持つ、 Versailles|ヴェルサイユ だった。

そこでは王族の日常生活そのものが宮廷儀礼の中に組み込まれていた。
王と王妃の生活は、多くの貴族たちが参加する政治的・社会的な舞台でもあり、14歳で外国から来た少女は、その世界の中心へ置かれた。

フランス王妃

1774年、ルイ15世が死去し、王太子ルイ=オーギュストが、 Louis XVI|ルイ16世 として即位する。
19歳の国王、18歳の王妃、マリー・アントワネット はフランス王妃となり、王妃はファッション、舞踏会、演劇など宮廷文化に関心を持ち、ヴェルサイユ宮殿 の一角にある プチ・トリアノン を私的な生活空間として使用した。

こうした生活は後に、王妃の「 浪費 」を象徴する材料として繰り返し語られることになる。
しかし、この時代のフランス財政危機を王妃個人の支出だけで説明することはできない。
国家財政には長年の戦争費用、債務、税制構造、さらにアメリカ独立戦争への参戦など、はるかに大きな要因が存在していた。

王妃という「象徴」

それでもマリー・アントワネットへの批判は強くなっていった。
理由の一つは、彼女が、 オーストリア出身の王妃 だったことにある。
フランスとオーストリアは同盟関係になっていたものの、長い対立の記憶は消えていなかった。

王妃を外国勢力と結びつける批判や風刺が広がり、さらに18世紀後半には印刷物が広く流通し、王妃を性的・道徳的に攻撃するパンフレットや風刺文書も大量に出回った。
実際の政治的責任とは別に、 マリー・アントワネットという人物そのものが旧体制への不満を映す象徴 になっていった。

首飾り事件

1785年。 王妃の評判をさらに傷つける事件が起こる。 Affair of the Diamond Necklace 首飾り事件 である。 高価なダイヤモンドの首飾りをめぐり、王妃の名を利用した詐欺事件が発生した。 マリー・アントワネット自身は首飾り購入の計画に関与していなかった。 しかし事件が公開裁判へ発展すると、王妃を取り巻く悪評と結びつき、世論に大きな影響を与えた。 事実とは別に形成された人物像が、現実の政治へ影響し始めていた。

フランス革命

1789年、深刻な財政危機を背景に、ルイ16世は三部会を召集する。
そこから政治危機は急速に拡大した。

6月、第三身分を中心に国民議会が成立、7月14日、 Bastille|バスティーユ牢獄 が襲撃され、フランス革命が進行していく。
同年10月、食糧不足などを背景にパリの群衆がヴェルサイユへ向かった。
国王一家は ヴェルサイユ からパリへ移され、 テュイルリー宮殿 で生活することになり、ヴェルサイユを中心とした王宮生活は終わった。

ヴァレンヌ逃亡

1791年6月、 国王一家はパリから脱出を試みた、目的地はフランス東部。 しかし途中のヴァレンヌで発見され、拘束され、国王一家はパリへ連れ戻された、Flight to Varennes|ヴァレンヌ逃亡事件 である。

この事件は王政に対する信頼を大きく損ない、憲法のもとで国王を残すことが可能なのか、その前提自体が揺らいでいく。
マリー・アントワネットもまた、革命政府と外国君主国との間で政治的な連絡を行うようになっていた。

王政の終わり

1792年、フランスはオーストリアへ宣戦布告する。
革命は国内政治だけではなく、ヨーロッパ規模の戦争へ拡大していった。
マリー・アントワネットにとって、戦争相手となったオーストリアは自らが生まれた国でもあった。

王妃への疑念はさらに強まり、8月10日、テュイルリー宮殿が襲撃され、王権は事実上崩壊した。
9月、フランスでは王政が廃止され、 French Republic|フランス共和国 が成立する。 マリー・アントワネットは、もはや王妃ではなくなった。

ルイ16世の処刑

王政廃止後、ルイ16世 は裁判にかけられた。
1793年1月21日、ルイ16世 はギロチンによって処刑された。
マリー・アントワネット はその後も拘束され、8月にはコンシェルジュリー監獄へ移される。
10月、革命裁判所で裁判が行われた。 反逆などの罪で有罪判決を受ける。

1793年10月16日

処刑当日、 マリー・アントワネットはコンシェルジュリーから革命広場へ移送され、かつて ヴェルサイユ宮殿 の中心にいたフランス王妃は、 ギロチンによって処刑された、享年38歳だった。
その遺体は簡素に埋葬されたが、王政復古後の1815年、ルイ16世とともにサン=ドニ大聖堂へ改葬された。

「パンがなければケーキを」

マリー・アントワネット について、現在まで非常によく知られている言葉が「 パンがなければケーキを食べればいい 」 である。

しかし、彼女が実際にこの言葉を発したことを示す史料は確認はない。
ジャン=ジャック・ルソー は『 告白 』の中で、パンを持たない農民について「 ある高貴な女性 」が似た言葉を語ったという逸話を書いている。

しかしその記述は、マリー・アントワネット がまだ幼く、フランス王妃になる以前の時期に由来する。
後世に形成された マリー・アントワネット 像と、実際に確認できる人物史は必ずしも同じではない。

KEY POINT

マリー・アントワネット の生涯を見ると、 一人の人物と、その人物について作られたイメージを分ける必要がある。
彼女は確かにヴェルサイユ宮廷の王妃であり、華やかな宮廷生活を送り、政治にも関与したが、フランス国家の財政破綻を生み出した人物ではない。
「 パンがなければケーキを食べればいい 」という有名な言葉も、彼女の発言として確認されていない。

一方で革命が進むにつれ、彼女が王政維持のため外国君主国との接触を強めたことも史実として残っている。
つまり、 実在した マリー・アントワネット と、革命期の社会が作り上げた「 マリー・アントワネット 」は重なりながらも同一ではない。

彼女の38年間を追うことは、ヨーロッパの王朝外交によって結ばれた旧体制の世界が、革命によって崩れていく過程を、一人の人生を通して見ることでもある。

Marie Antoinette

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