MVP ARCHIVE PEOPLE | Social Impact : Diana, Princess of Wales 1961-1997 / ダイアナ妃 - 世界から向けられた視線を、見過ごされていた人々へ向けた女性

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ダイアナ妃 - 世界から向けられた視線を、見過ごされていた人々へ向けた女性
1987年、ロンドンの病院で、一人の女性が HIV / AIDS 患者へ手を差し出す、手袋はしていなかった。
Diana, Princess of Wales|ダイアナ妃
世界で最も撮影される人物の一人だった。
当時、HIV / AIDS をめぐっては強い恐怖と偏見が存在した。
彼女はその患者の前へ行き、触れた、手袋はしていなかった。
1997年、今度はAngolaへ向かい、防護装備を身につけ、対人地雷が残る地域を自ら歩いたその姿もまた、世界中へ伝えられた。
彼女に法律を作る権限はなく、軍縮条約を締結する権限もなかった。
もちろん、感染症を治療することもできなかった。
しかし彼女には、世界から見られる力 があった。
そして、その影響力をつかって発信した。
1961 Diana Frances Spencer
1961年7月1日、Diana Frances Spencer は英国 NorfolkのPark House 生まれ、Spencer 家は英国貴族社会と深いつながりを持つ家系だった。
1975年、父が第8代Spencer伯爵を継承すると、Lady Diana Spencer
となる。
その後、Charles 皇太子 との関係が世界的な注目を集めることになる。
まだ20歳にもなっていない若い女性へ、英国王室と世界のメディアの視線が集中し始めた。
1981 Royal Wedding
1981年7月29日、Diana は Charles, Prince of Wales と St Paul's Cathedral にて、20歳で結婚した。
結婚式は世界中へテレビ中継され、巨大な Royal Event となった。
Diana は、Princess of Wales となる。
1982年には William、1984年には Harry が誕生した。
彼女は英国王室を代表する人物の一人となり、世界各国を訪問する。
そしてその知名度は、急速に英国王室という枠を越えていった。
Princess Diana
Diana は非常に強いメディアの関心を集めた。
彼女がどこへ行ってもカメラが追った。
それは大きな影響力を与える一方で、私生活そのものが世界へ消費される環境 でもあった。
後に彼女の結婚生活の問題、別居、離婚 までが 世界的ニュースとなる。
Touch
Diana の活動を象徴するものの一つが、人に触れること だった。
社会が距離を置きやすかった人々のところへ自ら出向いた。
しかし、世界中のカメラが彼女を追っていたため、その行動は個人的な接触だけでは終わらなかった。
一人に触れる行動が、何百万人もの人へ届く映像 になった。
1987 HIV/AIDS
1980年代、HIV / AIDS は急速に世界的な公衆衛生問題となっていた。
同時に、病気そのものだけでなく、恐怖と偏見 も広がっていた。
HIV が日常的な身体接触によって感染するという誤解も存在した。
1987年、Diana は London Middlesex Hospital で英国初の HIV / AIDS 専門病棟を開設、そこで患者と、手袋をせず握手した。
HIV は握手では感染しない、医学的には、それが事実だった。
しかし社会的な恐怖は、医学的知識だけでは消えていなかった。
Diana はその事実を、自分自身の身体を使って示した。
一枚の写真
世界的に知られた Princess が HIV / AIDS 患者 へ素手で触れる という映像には、医学論文とは異なる伝達力があった。
説明ではなく、行動そのものがメッセージになった。
HIV / AIDS患者を、「 恐れる対象 」ではなく、同じ人間として見る。
その認識を社会へ広げる象徴的な出来事となった。
Leprosy
Diana はハンセン病にも関わった。
ハンセン病もまた、長い歴史の中で強い偏見と社会的排除を伴ってきた感染症であるが、Diana は患者を訪問し、直接触れた。
それは、Diana の人道活動に繰り返し現れる行動だった。
英国王室によれば、離婚後も彼女は Leprosy Mission や National AIDS Trust などの Patron を続けている。
Homelessness
英国の ホームレス支援団体、Centrepoint のPatron として活動した。
彼女の訪問する場所は一見すると、それぞれ異なる問題に見える。
しかし Diana の行動には共通点がある。
社会の中心から見えにくい人のところへ、自分から行く。
Royal Marsden / Great Ormond Street
Diana は医療分野でも複数の組織に関わった。
英国王室の公式記録によれば、離婚後に多くの Patronage を辞した後も、これらの医療・人道分野との関係を残し、医療を必要とする人々へ社会の視線を運ぶ という役割を担った。
1992 Separation
華やかな Royal Wedding の背後で、Charles との結婚生活は次第に困難になり、1992年、二人の別居が正式に発表され、夫妻双方の私生活をめぐる報道が激しくなる。
Diana 自身も自身の結婚生活について公に語り、英国王室の内部にあった個人的問題が、世界的なPublic Story へ変わっていった。
1996 Divorce
1996年8月、Charles と Diana の離婚が成立、Diana は、Her Royal Highness の称号を失う。
しかし、Diana, Princess of Wales という称号は保持した。
ここから Diana は、Prince の妻としてではなく、自分自身の名前によって世界へ行動する人物 として、より明確に見えるようになっていく。
Landmines
そして彼女が晩年に強く関わった問題が、Anti-Personnel Landmines|対人地雷 だった。
地雷は戦争が終わっても残り、戦争とは直接関係のない人々を殺傷する。
1990年代、対人地雷禁止 を求める 国際運動が拡大 していた。
ICRC、International Campaign to Ban Landmines、各国政府、市民社会などが条約制定へ動いていた。
1997 Angola
1997年1月、Diana はAngolaを訪れ、地雷被害者と会った。
そして防護装備を身につけ、地雷が存在する地域を自ら歩いた。
世界的 Celebrity が地雷原へ入ったことで、遠い戦争の後遺症だった地雷問題が、世界中の各種メディアへ現れた。
「政治的すぎる」
Diana の地雷活動には批判もあった。
対人地雷は軍事政策と軍縮交渉に直接関係する。
英国国内でも、Royal Family の一員だった人物が政治的問題へ関与することへの批判が起きた。
1997年6月、Londonで地雷問題について活動し、Washington でも American Red Cross の地雷キャンペーンを支援。
そして8月にはBosniaを訪れ、地雷被害地域や被害者と接触した。
Bosnia 最後の人道活動
1997年8月7日から10日、Diana はBosniaを訪問した。
これは彼女が死亡する、わずか3週間ほど前 のことである。
英国王室の記録でも、Bosniaでの地雷関連活動が彼女の最後の Public Engagements となっている。
Ottawa Treaty
1997年9月。
Diana の死から約2週間後、Oslo で対人地雷全面禁止条約の交渉がまとる。
12月3日、Ottawaで、Anti-Personnel Mine Ban Convention 対人地雷禁止条約 が署名開放された。
条約は国家、ICRC、International Campaign to Ban Landminesなど、多数の主体による長年の活動によって成立した。
一方、ICRC による交渉史も、Diana の死後に生じた大規模なメディア注目が1997年の政治的機運に影響した要素の一つだったと記録している。
31 August 1997
1997年8月31日、Paris。
Diana を乗せた Mercedes-Benz がP ont de l'Alma 付近のトンネル内で衝突事故を起こし、Diana は病院へ搬送されたが死亡、享年36歳だった。
同乗していた Dodi Fayed と運転手 Henri Paul も死亡した。
世界中へニュースが流れ、英国では、非常に大きな追悼が起こった。
20|Media
Diana の死は、Celebrity と Media の関係 についても巨大な議論を残した。
彼女は生前から、世界で最も追跡される人物の一人だった。
写真には巨大な商品価値があり、私生活まで報道対象になった。
死亡事故の夜にもPaparazziが彼女を追っていた。
しかし、その後の英国の公式捜査と2008年のInquestを含め、事故原因は単純に「Paparazziだけ」に帰結するものではなかった。
Diana の人生は、Public Interest と Privacy の境界を問い続けるものでもあった。
Funeral
1997年9月6日、Westminster Abbey で葬儀が行われた。
世界中で放送され、多くの人々が追悼した。
棺の後ろには、家族だけではなく、Dianaが生前関わっていた慈善団体の代表者たち も歩いた。
彼女が人生の中で接続した人々が、最後に彼女の後ろを歩いた。
36 Years
36年、長い人生ではなかった。
Royal Weddingから死亡までは16年。
離婚から死亡までは、わずか1年だった。
そしてAngolaの地雷原を歩いてから死亡までは、約7か月。
残されているのは、36年間に実際に行ったこと だけである。
「見る」から「行動する」へ
世界へ何かを伝えようとするとき、言葉は重要である。
しかし時には、一つの行動が何千もの言葉より強く伝わる。
Diana は、それを世界規模で示した人物の一人だった。
Archive Point
Diana, Princess of Wales。
彼女が持っていたものの一つは、世界から見られるという力 だった。
社会が問題を見るための入口を作ることも、行動の一つである。
1997年、Diana は Angolaの地雷原 を歩いた。
その数か月後には Bosniaで地雷被害者 と会った。
そして8月31日、36歳でその人生を終えた。
Diana の人生を「 悲劇のPrincess 」としてだけ残すには、そこにはあまりにも多くの行動がある。
世界から見られ続けた女性は、その視線を世界が見るべき人へ向け直した。
それが、Diana, Princess of Wales が残したものの一つである。

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