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なぜ愛蓮先生なのか 〜 未済のまま、問いを受け止める「器」

先日、Menina Veneno という記事を書きました。

19歳当時の喪失を、還暦を前にして言葉にしました。
悲しみ、憎しみ、喪失
そんな言葉では、とても足りませんでした。

書き終えて、ひとつのことが腑に落ちました。

私はあの経験を
「忘れる」ことも
「手放す」ことも
「乗り越える」ことも
してきませんでした。
しようとしても、できなかったのです。

消せないのではなく、
消してはいけないものとしてずっと守ってきました。
私の頭の中には、40年間ずっと Menina Veneno が流れています。

忘れられない。
手放せない。
乗り越えられない。
そのまま、未済のままで
それが、
私のかたちなのだと、ようやく思えるようになったのです。

そしてその「『未済』のまま」という感覚は、
私が40年かけて易経と共に生きてきた感覚と、
深いところで重なっています。

高井紅鳳先生のこと

私が易経を学んだのは、
加藤大岳先生の系譜に連なる高井紅鳳先生からでした。

紅鳳先生が大切にしていたのは、
卦の解釈の精密さよりも、
お客様の前に座る時の「心構え」でした。
理論のみで武装する前に、まず余裕を持って沈黙できるか。
結論を急がずに、その人の人生の重みと共にゆっくり呼吸できるか。

易者はお客様を鑑定させていただいてこそ、易者になれるものと思います。
数々のお客様を鑑定させていただきながら成長し、
時に孤独な苦しみや喜びを経て、
少しずつ易者になっていくものだと思っています。
そのような中で、易者としての肝となることは

正解のない現実を前にして、逃げないこと。

これが、紅鳳先生の教えの根にあったと、私は受け取っています。

易経の言葉は豊かで果てしないものです。
だからこそ、
理屈好きな人間が陥りやすい罠がある。
言葉で世界を整理し、他者を解釈し、
自分の知の城の中に収めようとする。
しかしそれは、
易経が示す「流転」とは正反対の方向だと思うのです。

紅鳳先生は、その罠を知っていました。
だから敢えて私に「正解」を教えてくださらなかった。
ただ、共に割り切れない「問い」を持ち続けられたのです。

「Menina Venenoがいつまでもいつまでも…
いつまでも私の頭の中にこびりついて離れないんです。」

21歳頃の私はこの曲を頭の中から掻き消したく、
喉から絞り出すような声でそう紅鳳先生に伝えると
私のその言葉に優しく頷き少しだけ間を置いて

「無理に忘れなくていいのですよ。
手放せなくて当然です。
無理に乗り越えようとしなくていいのです。」

そう静かに仰いました。

易経が示すもの

易経を哲学として読むか、占いとして読むか、
そういう分け方を、私はこれまであまりしてきませんでした。

問いに答えが示されることもあれば、
答えにたどり着くまでの時間が、
そのままその人の生になることもあります。
どちらが本質かというより、
どこに重みを置くかの違いなのだと思います。

ただ私が紅鳳先生のもとで受け取ってきたのは、
答えそのものよりも、
その問いとどう共に在るか、
という在り方でした。

『火水未済』という卦があります。
未だ済らず、未完のまま。
一般には未完成の状態を表します。
けれど私には、
この未済の卦がずっと、
ある種の希望に見えていました。

完結しないことが、
終わりではない。
未済のまま「問い」を抱えて歩くことが、
その人の生そのものになる。

易経は「正解」を示しません。
流転する現実の中で、
人間がどう在るかという問いを、
ただそっと差し出すのです。

知識だけでは触れられない領域がある

易経は知識の体系ではないように思います。
人の機微に触れ、
その人の生の文脈の中で卦を読む
それが易者の仕事だと思うのです。

どれだけ正確に卦辞爻辞を暗記していても、
高度な占法技法を習得したとしても、
肝心の目の前の人の心に無関心では
易経は単なる記号の羅列になってしまう。

知識や技法ばかりを詰め込み、
目の前の人に興味が向かないままでは、
易者として人と向き合うことはできないと思うのです。

例えば
「痛み」とは排除すべき非効率な感情だと
思われる方もいらっしゃるでしょうけど
私にとっての「痛み」とは
自己の存在を形作る大切な手触りなのだと思うのです。
安心のために作った理屈の城壁に閉じ込めずに
在るがまま、そして問いを抱えたまま生きて行く
それを丸ごと受け止められる器が必要なのではと感じるのです。

愛蓮先生と共に学ぶ理由

愛蓮先生と出会った時、不思議と安心感を覚えました。

彼女は、わからないものをわからないまま持てる方でした。
結論を急がない。
他者の言葉を、すぐに意味づけしない。
理論で応答しない。

ただ、そこに易者として静かに在り続けることができる。

私の感性と、とてもよく似ていたのです。

「悩み」とは、
消しゴムで消すべき汚れでも、
解いて終わるパズルでもないと思います。
易者の仕事は、
その解き方を説明することではなく、
お客様の人生の深みに触れた時、
圧倒されたり逃げ出したりしない「器」というものを
しっかりと持つことだと思っています。
愛蓮先生は、その器をすでにお持ちでした。
知識としてではなく、生き方として。

何も言わずとも、
割り切れないまま、共に座り続けられた人が、
愛蓮先生だけだったのだと
1年近く毎週続けてきた勉強会の中で、改めて思うのです。

系譜とは何か

系譜とは、易経の解釈を伝えることではなく
「正解のない問いに向き合う覚悟」を、
次の人間へ手渡すことだと思っています。

紅鳳先生から私へ。
私から愛蓮先生へ。
愛蓮先生からまた次の人へ。

手渡すというより、共に「問い」を抱えながら歩くこと
そう言ったほうが正確かもしれません。
なぜなら、
渡してしまえば軽くなるような種類のものではないからです。

紅鳳先生が私に渡してくださったものも、そういうものでした。
答えではなく、問いの抱え方。
解決ではなく、未済のまま受け止めること。

そしてそれを今、私は愛蓮先生へ渡しています。

渡しきらずに、ただ共に抱えながら。


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