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あの世の銭、この世の金:怪談から読み解く執着の鎖と、破滅の罠〈後編〉

前編では、日本の怪談におけるお金が、あの世とこの世、人と物のあいだの境界を溶かす「心の媒介物」として働いてきたことを見ました。六道銭は愛の対価に変わり、金霊や銭神は都市の不安を笑いに変える隣人になりました。
では、海を越えた西洋の怪談で、お金はどのような姿をとるのでしょうか。

同じ「お金と幽霊」というテーマでも、これほど違う顔を見せるのかと、調べるたびに驚かされます。今回はその落差を、二つの物語からたどってみます。


死してなお、金貨を手放さない

西洋のフォークロアにおいて、お金は「境界を溶かす温かい媒介」ではなく、死後もなお個人を現世に縛り付ける「執着の鎖」として描かれることが多いようです。

フランスの作家アナトール・フランスの短編「聖餐祭」には、煉獄の境界から戻ってきた死者たちが集う、真夜中の不気味なミサが描かれます。死んだ騎士や貴婦人たちが、教会の集金盤に、この世ではもう通用しない古い硬貨を音もなく投げ入れていく――生前お金に異様な執着を抱いていた者が、死後もなお自分が隠した金貨の周りを徘徊し、見張り続けます。
所有への深いこだわりが、死者を現世につなぎとめてしまうのです。

理性を狂わせる、不条理な富の罠

お金が「人間の理性を内側から破壊する罠」として描かれた、より決定的な例が、ロシアの文豪プーシキンの「スペードの女王」です。

主人公の工兵士官ヘルマンは、堅実で合理的な青年でした。経済、節制、努力を信条とし、賭博には決して手を出さなかったのです。しかし、老伯爵夫人が持つという「必ず勝てる三枚の切り札」の秘密を知った瞬間、彼の理性は狂気に侵されていきます。

ヘルマンは秘密を暴くために夫人を脅し、彼女をショック死させてしまいます。葬儀の夜、現れた夫人の亡霊から「三、七、一」の数字を聞き出した彼は、全財産を賭けて大勝負に出ます。最初の夜は「三」で、二日目は「七」で大勝ちします。そして最終日、「一(エース)」にすべてを賭けて勝利を確信した瞬間、手元にあったカードは「一」ではなく、彼を嘲笑う夫人の顔をした「スペードの女王」にすり替わっていました。全財産を失ったヘルマンは完全に発狂し、精神病院で「三、七、一」とつぶやき続ける廃人となります。

西洋における一攫千金の富とは、勤勉な労働という秩序を乱し、自己の傲慢さを肥大化させる、悪魔的な誘惑として描かれる――亡霊がもたらした不条理な数字の罠が、ヘルマンの理性をあざ笑うように絡め取り、破滅へと追い込むのです。

溶かす媒介か、縛る鎖か

前編で見た日本の金霊や銭神と、今回の吝嗇の亡霊やスペードの女王を並べると、根っこにある世界観の違いが際立ちます。

日本の富の怪異は、つかまえようとすると消える、気まぐれで愛嬌のある存在でした。人々はそれを妖怪として親しみ、都市の不安を笑いに変えて共存していました。
対して西洋の富の怪異は、個人の執着や理性の崩壊と結びついた、峻厳で罪深いものとして描かれます。

前者では、お金は境界を溶かして人と幽霊、生者と死者をつなぐ媒介でしたが、後者では、お金はむしろ個を現世に縛りつけ、あるいは理性を狂わせて破滅させる鎖として働きます。

この違いは、これまでの連載で見てきた「境界線をどこに引くか」という日本と西洋の擬人化の違いと、実はそのまま重なります。
日本は人と物、生者と死者のあいだに絶対の壁を置かず、お金でさえ地続きの存在として扱います。西洋は、理性を持つ人間と、それを狂わせる不条理な富とのあいだに、越えてはならない一線を引きます。
お金という、人間が作り出した最も合理的なはずのシステムをめぐる怪談は、その社会が人間と世界をどう区切っているかを、そのまま映し出す鏡なのだと思います。

>> 連載「異形を愛でる東洋、理性を写す西洋」

まとめ

数値化し等価交換するための道具であるはずのお金を、不合理な怪異というフィルターを通して見つめ直すとき、そこには人間が「富」や「所有」、そして「死」に対して抱く、驚くほど異なる精神のあり方が映し出されます。

すべてを数値で等価交換してしまいがちな現代の私たちに対しても、本当に大切な価値は、数値化できない境界の向こう側にあるのかもしれない――江戸の人々が百物語の百本目の蝋燭を消す前に抱いた、あの不気味でどこか心地よい畏敬の念は、そんなことを静かに教えてくれる気がします。

>> 前編「あの世の銭、この世の金」

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