カヤックの上で……真実 #短編小説
休みは取ったもの勝ちだ。
穏やかな凪の海。雲はとぎれとぎれ。うっすらと風が吹いている。
いまごろ会社であれやこれやとしている後輩の姿が思い浮かぶ。
「……え、先輩、このタイミングで休むんですか、いいなあ」
昨夜の、彼のうらやましそうな顔が頭をよぎる。ごめん。天気予報では今日しか晴れないんだ。でも明日には戻るから。許してくれ。
車のラゲッジルームを開けて、ナイロン製のキャリーバッグを引きずり出す。背負うとズシリと肩に食い込んでくる。
「痛ッ」
あまりの重さに、その場でしりもちをついてしまう。腰を痛めないようにゆっくり立ち上がる。持ち方を何度も変えながら、砂浜近くのアスファルトの道までゆっくり歩く。
道に着いたころには、首筋どころか全身から汗が噴き出しているし、Tシャツの背中はびっしょりだ。でも替えのシャツはない。汗がサングラスのレンズに落ちて前がよく見えない。
◇
キャリーバッグのファスナーを開けると、大きな袋が三つ。
最初にフレームの袋からパーツを取り出す。アルミ製のパイプはどれも傷だらけ。久しぶりなので組み立て方を忘れている。たしか説明書が……どこにもない。
記憶を頼りに、なんとか骨格標本のような船体フレームを組み立てた。
ふと、すぐそばに人がいることに気づいた。老人と麦わら帽子を被った少年だった。いつからいたのだろう。全然気づかなかった。
少年はつまらなそうな目つきでフレームを指さした。
「……何だこれ?」
こういうときは、できるだけ正確に答えたい。
「折り畳み式のカヤックだよ」
すると老人が言った。
「フォールディングカヤックや」
知っているなら聞くなよ……
防水性の船体布(セイルスキン)を広げた。中に、組み上がった船体フレームを滑り込ませていく。しかし、思ったように入らない。老人がため息をつく。やっとそれらしい船体ができたときには、退屈した少年は砂浜のほうに走り去っていた。老人だけ立って見ている。
船体両脇のエアチューブにポンプをつないで空気を入れる。しかしポンプが壊れていて空気が入らない。仕方ないので、チューブを咥えて直接、息を送り込む。なかなか入らない。なんとか船体が塊になったころには、フルマラソンを走り切ったようにその場にへたり込んだ……
◇◇
それでも気を取り直し、ブレード(羽)が両端に着いたパドルを組み立て、ライフジャケットを身に着ける。
老人が聞いてくる。
「釣り道具は?」
「……ないです」
「釣りせんの?」
「はい……」
「アホやなあ……」
それだけ言うと、老人はプイと少年のほうに歩いていく。
必要なものだけ防水袋に詰め、砂浜に繰り出す。そして、ゆっくりとカヤックを波打ち際に浮かばせる。
「冷たい!」
あまりの海の水の冷たさにビビる。
ポケットのスマホがブルッと震えた。出るかどうか少し迷う。
とりあえず手に取り、送信者の名前だけ見る。
さっきの老人と少年が波打ち際で遊んでいる。片足をさっとカヤックに乗せると、バランスを崩してひっくり返りそうになる。背後から、「ダサッ」と少年の冷たい声が聞こえる。
聞こえないふりをして下半身を滑り込ませ、船を水面に進めた。
◇◇◇
少しだけ沖に出る。
聞こえるのは、静かな波の音と、ときおり流れる風の音だけ。疲れたので漕ぐのはやめた。
さっきの老人の言葉がリフレインする。
――「アホやなあ」
ほっとけ!
ふと、ポケットからスマホを取り出し、さっきの通知の中身を確認する。
『やばいです。デスクが血相変えて先輩を探してます』
編集部の様子が目に浮かんでため息が出る。返事は……
――良かった。圏外だ。
やっぱり、休みは取ったもの勝ちだ……
<了>
(作者より)
本作のオリジナルは下記の作品です。実は本作はオリジナルとセットで執筆し、最初の作品の一週間後に「真実は……」と本作を続けて公開する予定でした。しかし前作が想定より読まれたため、種明かしのような本作を出すべきか迷い、公開を見送っていました。ただ、このままお蔵入りにするのももったいなく感じ、遅ればせながら公開した次第です。前作を覚えていない方も、未読の方も、興味があればご覧ください。
以下は、本作の関連短編です。本作では少々情けない姿をさらした『先輩』ですが、仕事中はもう少しだけ頼りになります。併せてお読みいただけますと幸いです。
