日本国旗損壊罪と「空気の国」日本が抱える危うさ
にわかに、高市早苗首相が推進する「日本国旗損壊罪」の制定が話題になっています。
最初は悪い冗談かと思っていましたが、SNS、とくにX(旧Twitter)では、「日本国旗損壊罪のどこが悪い!」「反対する奴は反日!」といった投稿に“イイネ”が集まり、愛国ビジネス系インフルエンサーがその流れを焚きつけています。 この光景を見て、正直なところ、深いため息が出ました。
こうした風潮こそが、「仲間はずれ探し」を助長する危険な空気を生み出します。だからこそ、私はこの種の法案は、そもそも議論の俎上に載せるべきではないと思います。
私は問いかけたいのです。
「日本国旗損壊罪に賛成している人は、祝日に実際に日の丸を掲げているのでしょうか?」と。
本当に日の丸を“誇り”と考えているのであれば、掲揚は自然な行動のはずです。しかし現実には、祝日に国旗を掲げている家庭はごくわずかです。体感的には100軒に1軒あるかないか。地域差はあるでしょうが、決して多いとは言えません。
それだけ、現代の日本では「国旗を掲げる」という行為が、“思想的アピール”として見られてしまう空気があるのです。
多くの人が祝日に国旗を掲げないのは、単に愛国心が薄いからではありません。「自分の思想を表明すると、変な人だと思われるかもしれない」――そうした“空気の圧力”があるからです。
右であれ左であれ、日本では政治的立場を公にすることを避ける傾向が強い。共産党のポスターを自宅に貼っても“浮く”ように、国旗を掲げても“浮く”社会なのです。
これは、良くも悪くも日本社会の「空気を読む文化」の表れでしょう。けれども私は、それを良いことだとは思っていません。政治的意見を表に出さないことが、政治への無関心を生み、結果として望まない政策を止められない社会を作ってしまっているからです。
もしこのまま「日本国旗損壊罪」が制定されたら、どうなるでしょうか。「空気を読む」ことが生存戦略となっている日本人のことです。いずれ「国旗を掲げない家は非国民だ」という風潮が広まるかもしれません。そして、今とは逆に、祝日にはあらゆる家々が日の丸を掲げ、掲げない家が「怪しい」「反日だ」と指をさされる――そんな息苦しい社会がやってくるのではないかと感じます。

そんな世界は、絶対にごめんです。
アメリカや韓国のように、思想の違いを公に議論し、一歩外に出ればノーサイドになれる社会であればまだ良いのです。しかし日本のように、「空気を読む」ことが最優先される社会では、このような法律が制定されれば、戦前のような“村八分的同調圧力”と“理不尽な差別”を再び生み出しかねません。
私は「国旗を大切にすること」そのものを否定する気はありません。けれども、国旗はあくまで国家という共同体を象徴する“印”にすぎません。それを過剰に神聖視し、「誇り」や「尊厳」といった感情を武器にして他人を攻撃するような空気が生まれるなら、そのとき私たちは、日本の民主主義社会の根本を危うくしてしまうでしょう。
本当の愛国心とは、国を象徴する旗を守ることではなく、その旗のもとに生きる多様な人々の尊厳を守ることだと、私は思います。
