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ラッコが見た排外主義の時代―想像力の欠如と社会の分断

ここ数日、気になるニュースが続いた。

鳥羽水族館のラッコのライブカメラで、飼育員への誹謗中傷が相次いだため、映像にモザイク処理が施されることになった。
また、近鉄大和西大寺駅では、いわゆる“撮り鉄”の一部が駅員に「下がれよ、安月給」「殺すぞ」と罵声を浴びせ、鉄道会社が警察に相談する事態となった。どちらも、誠実に職務を果たす人々が理不尽な言葉の暴力に晒される「カスタマーハラスメント」の典型例である。


現代社会では、怒りや攻撃性が個人のアイデンティティを補う機能として作用している。経済格差と将来不安が人々を分断し、「下方支配」と呼ばれる心理が蔓延する。自分より弱い立場―駅員、飼育員、接客スタッフ、外国人労働者―に権威を誇示し、一瞬の優越感で自己の無力感を覆い隠す。
SNSの普及によって「公」と「私」の境界が崩れ、個人が“叩ける対象”として可視化されたことも拍車をかけている。

同時に、心理学的には「共感疲労」が進行している。
コロナ禍を経て人との距離が広がり、他者の感情に寄り添う余力が枯渇した。他人の立場を想像する前に「自分が損をした」「思い通りにならない」という感情が先に立つ。SNSの「いいね」やリツイートが、怒りの表明を“快感”として強化していく。ドーパミンの報酬回路が「他者攻撃」を正当化し、怒りに依存する構造ができあがっている。

さらに、ネットニュースや動画サイトは閲覧数や広告収益で動くため、
アクサスを稼げる「怒り」や「恐怖」を煽る情報が優先的に拡散される。人間はポジティブ情報よりネガティブ情報に約3倍反応しやすいという心理学的傾向がある。結果として、社会全体が「怒りと不信が常態化した世界(のイメージ)」へと誘導されている。


そしてもう一つ、見過ごせないのが排外主義の拡大だ。
大和西大寺駅の「日本語わかんのか」と暴言を吐くような発言には、
異質な存在を排除しようとする無意識の差別意識が潜んでいる。

X上で排外的な発言を繰り返す、自称「愛国」インフルエンサーに一般人が反論すると、「中国人」「在日」「日本から出ていけ」といった信者からのレスポンスが雪崩のように返ってくる。彼らの中では、「自分は愛国的な日本人=正義」「異を唱える者=外国人の手先」「排除してよい」という単純で幼稚な世界観が完成している。それを繰り返すうちに、人は考えることをやめ、怒りを吐き出すbotのようになっていく。


カスハラのニュースを見て、私はふとSNSの変化を思った。
私はX(旧Twitter)を17年にわたって使用している。
始めた当初―2008年頃―は、まだオタク文化、アキバ文化が花盛りだった。多くのオタクたちがアニメやゲーム、イベントの感想を共有し、ツイッターはゆるく繋がりながら「好き」を分かち合うポジティブな場所だった。
政治的な発言はほとんどなく、人々にもまだ心の余裕があった。

しかし、東日本大震災を経て安倍政権が誕生した頃から、空気は急速に変わっていった。円安と物価高、止まらない少子高齢化、実質賃金の低下が進み、人々の収入格差が広がり、社会的不安が広がった。そのあたりから、私の同世代―50代前後―のタイムラインで、アニメや漫画の話題が減り、代わりに「リベラル叩き」「フェミニスト叩き」「外国人叩き」を延々とRTする“愛国日本人bot”のようなアカウントが増えていった。
「昔一緒にガンダムやウルトラマンを語っていた仲間が、いつの間にかヘイトを拡散する側に回っている」そんな悲しい現実を何度も目にした。

おそらく、感性が古くなり、価値観をアップデートができないままに、同世代と連帯できる“共通のネタ”が、「敵を叩くこと」くらいしか残らなかったのだろう。
かつてアニメや特撮を通じて「他者への想像力」を育んできたはずの世代が、その想像力を失っていった。それは、オタク文化の成熟の敗北でもあると思える。本来、創作を愛する文化とは、他者の視点を理解し、共感する訓練そのものであったはずだからだ。


このような社会に必要なのは、まず想像力の回復であると思う。
目の前の店員、職員、あるいは外国から来た隣人達が、感情を持つ一人の人間であることを思い出すこと。そして、怒りの代わりに感謝の言葉を届ける文化を育てること。「こんにちは」「ありがとう」「お疲れさま」と言える社会は、怒りを連鎖させる社会よりはるかに健全だ。

私はSNSの変化を、mixiの時代から20年以上見続けてきた。
かつてmixiやツイッターが“好きなものを語り合う場所”だった頃の穏やかさを、今でも忘れられない。あの頃、人々は誰かを叩くよりも、自分の「好き」を誇りに思っていた。その精神を取り戻せるかどうか――それが、怒りに覆われたこの国の未来を、「オタクの視線」から回復するための処方箋になると信じている。

かつてオタクだった者の立場から、社会にもう一度働きかけることができるのか。私はその可能性を、考え続けたいと思う。

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