鞆の浦、潮待ちの港に眠る「上書きされた神々」
神功皇后の伝承地を巡る ⑯ 鞆の浦、潮待ちの港に重なる安曇族とスサノオの影
今回は、広島県福山市の「鞆の浦」を訪れた際の記憶をもとに書きました。
穏やかな瀬戸内海を眺めていると、私の中で一つの「歴史の空白を埋める直感」がわいてきました。
現地の風を感じた時の「直感」ですので、少し話が飛躍するかも知れませんが、古代のダイナミズムを感じる回として、ぜひお付き合いください。
上書きされた「妹」の正体
「鞆の浦」は、瀬戸内海の中央部に位置し、東からの潮と西からの潮がぶつかる「潮待ちの港」として、太古から重要な港でした。ここには「皇后島」という島があり、神功皇后にまつわる伝承が残っています。しかし、私が注目したのは、この地で祀られている神々です。

■ 沼名前神社 綿津見神
綿津見を祖とする安曇族の影が、実はここに現れています。
■ 淀姫神社 與止日女命
與止日女命は、肥前国一宮(佐賀県)與止日女神社などにも祀られ、一般的には「神功皇后の妹」とされています。しかし、私は以前から、彼女は神功皇后よりもずっと古くからこの海を支配していた「海人族の女神」だったのではないかと考えていました。
大和朝廷がこの地を勢力下に置く際、土着の強力な女神を「皇后の妹」という地位に据えることで、融和を図ったのではないか──。そんなレイヤー(層)が、鞆の浦の水底に眠っている気がしました。
※沼名前神社、淀姫神社は、以前の記事で紹介しました。
出雲へ続く道
海を眺めていた私の視線は、ふと背後にそびえる山々へと向きました。「ここから北へ進めば、出雲へ繋がっているのではないか?」


直感は的中しました。調べると、約20キロ北には「蘇民将来」ゆかりの地、素盞嗚神社が鎮座しています。さらにその先には、スサノオが御魂を鎮めた(終焉の地)とされる島根県の須佐神社へ道が続いています。

今は、松江自動車道を走れば須佐神社へ2時間半で行けます。もちろん古代に車も高速道路もありませんが、峠を越えて行った人々の移動を考えてみると、途中に三次盆地があります。ここでは、弥生時代後期から末期にかけて、出雲を象徴する四隅突出型墳丘墓が複数確認されています。一方で、吉備を象徴する特殊器台・特殊壺が出土します。さらには、福岡県の平原王墓で出土するローマ製のガラス玉がここでも出土するのです。
「鞆の浦は、瀬戸内海と出雲を繋ぐ南北軸の起点だった。」
そう気づいた瞬間、私の中でスサノオの正体と海人族の姿が重なりました。記紀神話において、スサノオは伊弉諾尊から「海原を治めよ」と命じられます。出雲に降り立つ前、彼は船を駆り、大陸と日本列島を自在に往来する「海の王」だったのではないか。
そして、鞆の浦から三次を経て出雲へ通じるルートは、まさにその「海の記憶」が陸へと染み出す導線だったのではないか。
レイヤーが重ねられた由緒
「夏越の祓え」で行われている「茅の輪くぐり」は、現在では全国の神社で行われる行事ですが、そのルーツは「蘇民将来」の話がベースとなっています。この話は、『備後国風土記』にあったとされる逸文を、鎌倉末期の人、卜部兼方が『釈日本紀』(日本書紀の解説書)に引用したことで知られています(備後風土記は現存しません)。
その後、京都の祇園社(現在の八坂神社)に伝わり、牛頭天王と素戔嗚尊が習合し、御霊信仰と結びついて全国へ広がりました。

八坂神社は「斉明天皇の御代に高麗の伊利之が新羅国の牛頭山のスサノオを奉遷して八坂に祀った」と伝えますが、これらの由緒は成立年代や史料的に裏付けられたものではなく、時代ごとに解釈が重ねられた痕跡が見えます。
スサノオという神の背後には、こうした幾重もの「物語の層」が存在しています。
海を渡り、山を越えた「スサノオ」の正体
記紀神話において、スサノオは伊弉諾尊から「海原を治めよ」と命じられ、高天原追放後は、出雲へと降り立ちます。
ここで私の仮説は加速します。
「スサノオは、農耕神・疫病神・海神など多様な姿を持ちます。地域ごとに異なる像を持つ神ではありますが、(あくまで仮説ですが)最も下層にあるのは、大国主命の時代より遥か昔、高度な航海術を持って大陸や半島、そして日本列島を股にかけた海人族の記憶が投影されたものではないのか?」


彼らは鞆の浦のような「潮待ち港」、日本海に点在する「潟湖」に拠点を持ち、瀬戸内と日本海側を結ぶネットワークを構築した。そのネットワークの痕跡が、今も素盞嗚神社や淀姫神社の分布として残っているのではないか。
その海人族とは誰か
私は『日本書紀』は、聖徳太子の時代に記され焼失したという『帝記』『旧辞』の記憶や残片、あるいは持統天皇が有力18氏族に提出させたそれぞれの氏族の墓記(『日本書紀』持統天皇5年8月条)などを元に編纂されたであろうと考えています。
そして、もしスサノオを「大国主命の時代より遥か昔、高度な航海術を持って大陸や半島、そして日本列島を股にかけた海人族の記憶が投影されたもの」と考えるなら、
それは『日本書紀』の撰者の中に安曇稲敷の名が見え、墓記を提出した18氏族にも安曇氏が含まれることから、私は安曇氏の持っていた広域な海民ネットワークの記憶が、大和朝廷の物語に組み込まれる過程で『スサノオ』という象徴に集約されたのではないかと考えるのです。
海人三氏族が奉斎する神

奉斎する神は、三氏族とも「三神」になっています。これは海の「底・中・表」、「遠・中・近」を表していて、神話ではそれぞれ禊や誓約によって現れます。
そもそも「綿津見」は「海」のことです。安曇氏の奉斎する綿津見三神は言い換えれば、
底津綿津見神=海底神
中津綿津見神=海中神
上津綿津見神=海面神
です。
対して、住吉三神は、底筒男神・中筒男神・表筒男神の三神で、「筒男」の解釈にはいくつかの説があります。私は住吉三神は、「大和朝廷の海路・海流を統治する神」と考えていて、前回記事でそのことを書きました。
宗像三女神は「沖・中・辺」ですから、こちらは、大陸(朝鮮半島)との交易航路を守護する神だと言えます。
三神の組み合わせというのは、「造化三神」「三貴神」などにもみられます。三神構造は「空間の三分割」という古代思考の現れかも知れません。「海」「海路・海流」「航路」もまたそうした概念だとしたら、人が人のために必要とする場所や手段を表す「海路」や、特定の区域・進路航路を表す「航路」でもない、自然そのものの「海」を神格化した安曇氏の綿津見神が一番祖型に近いと言えます。
『出雲風土記』からの視点
『出雲国風土記』は完本として今に伝わります。出雲風土記では、出雲の国土を創生した神は、八束水臣津野命であり、素戔嗚尊は地名の由来にこそ登場するものの、「記紀神話」とはだいぶ異なる印象を受けます。

『記紀』においても、スサノオは「出雲にやって来た存在」です。もし神話を実在する場所に比定するなら、それは〝出雲ではない場所〟ということになります。
ではどこから来た神なのか。その問いに対して、私の中で浮かんだのが、今回の瀬戸内海と日本海を結ぶ南北軸でした。
神功皇后が「書き換えた」もの
ではなぜ鞆の浦には神功皇后の伝承が重なって伝えられるのでしょう。
彼女の遠征は、単なる軍事行動ではなかったと思います。時代背景と物語を重ねれば、それは、朝鮮半島との交易権の掌握、そして瀬戸内海に点在していた古い海人族のネットワークを、大和朝廷という新しい秩序の中に組み直し、「アップデート」していくプロセスだったと私は思っています。
淀姫(與止日女)は、しばしば豊玉姫(海神の娘)と同一視されます。安曇族は海神(綿津見)の子孫を自認する氏族ですので、安曇が祀っていた始祖神を「皇后の妹」と呼ぶということは、安曇族を新しい秩序に組み入れたと考えることができます。さらには、荒ぶるスサノオの記憶も大和の神話体系に組み込む。鞆の浦という場所は、まさにその物語が書き換えられた「現場」だったのではないか。そんな気がしてなりません。
潮待ちの港に溶ける境界線

鞆の浦の美しい海を眺めていると、千年前、二千年前の境界線が溶けていくようです。
ここは東西と南北の軸を結ぶ結節点。古い海人族の記憶が、「神功皇后」という物語に姿を変えた場所――。潮の香りの中で、私は確かにそう感じました。
次回は神功皇后が創建にかかわった兵庫県の廣田神社、生田神社、長田神社の三社を訪れ、そこに祀られた神の謎に迫ります。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ

【参考文献】
『日本書紀Ⅰ 』井上光貞監訳 中公クラシックス
『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『新版古事記 』中村啓信 角川ソフィア文庫
『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典・志村裕子 批評社
『風土記』 吉野裕訳 平凡社
『特選神名牒』上巻・下巻 八幡書店
國學院大學 神名データベース
ナレッジジャパン検索『日本国語大辞典』 『日本歴史地名大系』『古語大辞典』ほか。
掲載神社の由緒・社伝
画像は全て筆者現地撮影
執筆にあたり、AI(Gemini 、ChatGPT、Copilot)を活用してブレインストーミングを行いました。
