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神功皇后の航跡、瀬戸内編まとめ

神功皇后じんぐうこうごうの伝承地を巡る旅 ⑦ 広島県の伝承地と往路まとめ

 広島県福山市、三原市、広島市の伝承地を紹介します。
ヘッダーは沼名前神社で授かったお守り。


鞆の浦とものうらの伝承

 瀬戸内海の潮流の分岐点。古代から「潮待ちの港」であった福山市の「鞆の浦」にも神功皇后の伝承が伝わります。

皇后島

 「神功皇后が仙酔島に渡る前、島に船をこぎ、小舟に乗り換えて移動したので皇后島と名づけられた」と伝わります。

淀媛神社から見た皇后島


沼名前ぬなくま神社

 神功皇后が西国へ向う際にこの浦に宿泊し、この地に社が無いことを知り、斎場を設け浦から湧出した霊石を神璽として綿津見命を祀り、海路の安全を祈ったのが始まり。帰路再び立ち寄り綿津見神に「稜威の高鞆いづのたかとも」を奉納されたことから、この地が「鞆」と呼ばれるようになったと神社社伝に伝えます。

社号標
隋神門
拝殿
由緒


淀媛神社

神功皇后の妹 淀媛(虚空津姫命)を祀る神社。虚空津比売命そらつひめのみことは『古事記』に記され、九州や北陸地方に祀る神社が多くあります。福井県敦賀市の気比神宮では「玉姫命」として祀られています。

鳥居
鞆の港を一望できます
拝殿
本殿
由緒書
今どき



三原の伝承


糸𥔎いとさき神社

鞆の浦の次の停泊地でしょうか。万葉歌で詠まれる風待ちの港「長井の浦」。皇后に水を献じたという「後調井みつぎい」や、北西に少し歩くと皇后が船を繋いた「船つきの松」があります。

鳥居
拝殿
本殿
御調井の碑
御調井
樹齢500年の大楠


船つなぎの松



浮鯛神社

【記紀】は神功皇后が敦賀を出発して山口県下関市の豊浦に着くまでの間のエピソードとして、唯一渟田門ぬたのみなとの浮鯛の話を記します。

『日本書紀』仲哀天皇紀二年六月条に

夏六月十日、天皇は豊浦津に泊まられた。皇后は敦賀から出発して、渟田門ぬたのみなと(福井県)に至り、船上で食事をされた。そのとき鯛が沢山船のそばに集まった。皇后が鯛に酒をそそがれると、鯛は酒に酔って浮かんだ。そのとき漁人は沢山その魚を得て、よろこんでいった。「聖王(神功皇后)のくださった魚だ」と。

そこの魚は六月になると、いつも浮き上がって口をパクパクさせ酔ったようになる。それはこれがもとである。

秋七月五日、皇后は豊浦津に泊まられた。

日本書紀(上)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫


 本書では、「渟田門ぬたのみなと」を(福井県)と注釈していますが、私は六月十日に福井に居て、七月五日に山口県下関市の豊浦津に着くのは無理があると思っていて、このシリーズで紹介してきたように、瀬戸内の伝承地を辿ってきて、これは三原市付近の出来事だったと考えます。

浮鯛神社
拝殿
本殿
本殿裏から。 向かいは今治造船の造船所

当地では海流の影響で海面に鯛が浮き上がってくる「浮鯛現象」が見られ、かつては実際に浮鯛漁も行われていたといいます。

ネットで見つけた記事↓



広島市の伝承

旭山神社

 神功皇后が三韓征伐に向う途中当地で休息された。その時に出迎えた土地の県主あがたぬしが大きな鯉を献上したところ神功皇后は、「おお、こひ、こひ」と喜ばれた。それでこの地域を「こひ(己斐)」と呼ぶようになった(神社由緒より)。


鳥居
被爆建物のプレート
由緒書
拝殿
境内から見る広島市内



一行は航行を続け豊浦津を目指しますが、山口県下の寄港地は未見のため今回省略させていただきます。



穴門豊浦宮

 豊浦宮をたてたのが仲哀二年九月。八年一月に筑紫に移るまで6年余りこの地で過ごした事になります。

秋七月五日、皇后は豊浦津に泊まられた。この日皇后は如意の珠(すべての願いがかなうという珠)を海から拾われた。

九月、宮室を穴門にたてて住まわれた。これを穴門豊浦宮という。

八年春一月四日、筑紫においでになった。

日本書紀(上)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫



忌宮いみのみや神社


忌宮神社 拝殿
由緒書
 神功皇后お手植えの「さか松」の子孫
 「牛窓伝説」で紹介した境内の鬼石



豊浦宮趾

 『日本書紀』の記述では6年余りこの地を行宮として過ごされてことになります(実際は3〜4年か)。関門海峡は古くは「穴門」と呼ばれていました。

 『先代旧事本紀』によると、景行天皇の御代に桜井田部のむらじと同じ先祖の速鳥命はやつどりのみことを穴門国造に定められたとあります。桜井田部連は河内国桜井郷の屯倉に使役した伴造家で物部氏系の一族です。

 『日本書紀』神功紀には、穴門直あなとのあたいの祖践立ほんたちという人物が登場します。両者の関係はよくわかりませんが、いずれにしてもこの穴門までは当時すでに大和朝廷の支配下にあったと考えて良いのだと思います。



往路まとめ


訪れた地をマークしてみました


 神功皇后が三韓征伐へ向かう際に立ち寄ったとされる瀬戸内の伝承地を巡る旅をしてきました。 訪れた場所を振り返ってみると、各所に古代の伝承が息づいていることを改めて感じます。

 『日本書紀』には、ほぼ敦賀から穴門豊浦へ向かったと記されているだけにも関わらず、これだけ多くの土地に伝承があり、それらが違和感無く繋がっていることには驚きます。


 しかし、旅はこれで終わりではありません。このあと、九州にはさらに多くの伝承地があり、瀬戸内の各地も帰路は帰路でまた別の伝承地が待っています。もちろん近畿地方にも多くの伝承地があります。

戦後の歴史観では「神功皇后は架空の人物」とされており、ネットの時代さまざまな説があふれていますが、こうして伝承地を巡り深く理解をすることも重要なことだと思います。

私の想定では神功皇后は4世紀中頃から後半にかけての人物ですが、日本の国家形成において重要な意味を持つ時代です。この旅を通じて、神功皇后のさらなる真実に迫りたいと考えています。次回からは九州編です。引き続きよろしくお願いします。



おまけ

広島焼き


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