40年間の末路 第31章 最初で最後の二人旅 ドキュメンタリー小説|自叙伝|50代
調停離婚での財産分与を算出するため、銀行の預金残高を確認しようとしたら、仁美が神妙な顔で切り出した。
「実は光太郎にお金を貸してるの……」
「え?アイツから決別宣言して、勝手に除籍して、僕に相談もなく結婚したのに?」
「光太郎に『パパには内緒で』と言われてたけど、離婚するならこれ以上内緒にできないと思って」
「いくら貸したの」
「だいたい80万円」
詳しく聞くと、光太郎家族の生活支援のため、4ヶ月前から毎月20万円ずつ光太郎の口座に送金していた。その瞬間、車ドロボーの件で、仁美が口にした言葉が頭の中で繋がり、背筋がゾゾッと寒くなった。
『つまり家族のお金を盗んでも罪にならないのね』
「車ドロボー」の一件で、仁美が漏らした的外れ言葉が、パズルのピースが嵌まるように脳内で繋がった。あれは真那のことではなく、仁美自身のことだったのだ。
ようやく自己破産から抜け出し、僕がコツコツと貯め直した大切な財産。それを仁美は、罪に問われないと知った上で、確信犯として息子へ横流ししていた。
怒りで怒鳴りつける気力さえ湧かなかった。ただ、胸の奥が痛くなり、足元が崩れ落ちるような猛烈な虚しさが込み上げてくる。
「この33年は何だったのだろう」
――僕が必死に守ろうとしていた家族の輪郭が、指の間から砂のようにサラサラと崩れていくような感覚だった。
しかし問い詰めれば仁美が逆上して、また「印籠」を出してくるのはわかっていた。
だから状況を把握するために、仁美のスマホを使ってLINE通話で光太郎と連絡を取った。僕のLINEはすでに光太郎からブロックされていたからだ。
「決別宣言して結婚したのに、パパに内緒でお金を借りているとはどういうことだ」
「会社をクビになって、すぐに次の仕事が見つからず、
障害年金だけの収入では苦しくて…
パパとは決別したけど、ママとは決別していない。
だからママから借りた」
光太郎は鬱による体調不良で欠勤率がひと際高かった。障碍者雇用だったとはいえ、社内的に看過できず、改善できなかったためクビになっていた。
そのため再び親の脛を齧り始めたワケだ。
「でも全部、パパが稼いで貯めたお金だよね」
「パパが稼いだお金だけど、パパとママ二人のお金だよね」
僕は受話器の向こうの息子の声に、しばし言葉を失った。
……コイツは本気で言っているのだ。
僕が汗水流して稼いだ金を何の悪びれもなく、当然の権利のように横取りしていく。
光太郎の自分勝手な屁理屈に、怒りを通り越し、乾いた溜息が漏れた。
どうせゲームや趣味で浪費しているのは察しがついていた。
それでも光太郎が「借りた」と言っている以上、債権を放棄して、こちらから返済を免除するつもりも、寄付するつもりもなかった。
「調停が始まるまでの間は支援を続けてもいい。それまでに定職を見つけなさい。
ただ貸したお金は財産分与に含まれるので、きちんと生計を見直して、少しずつでも返しなさい」
通話を切ってから、仁美に伝えた。
「これ以上光太郎にお金を貸し続けるなら、もっと安いアパートに引っ越すか、お前もアルバイトを始めるしかない」
「私も自立するために働くわ」
仁美は10年ぶりに重い腰を上げた。だが既に車を手放した仁美が自転車で通える職場は限られていた。
後日、仁美は近所の大型スーパーの品出しアルバイトに採用されたが、一日で辞めた。
理由を聞いて、苦笑した。
「バックヤードで迷子になったから」
元々方向音痴なのは知っていた。だがそれ以上に、長年に亘って努力することも、辛抱することも、殆どしなかったため、たかだか半日働く気力や社会適応能力が、完全に衰えていた。
数日後、仁美が自ら白旗を挙げた。
「やっぱりこの先一人では暮らせない。
埼玉に行って、光太郎夫婦と一緒に暮らして、そこで仕事を探す」
「沙穂ちゃんがOKなら、将来的にはそれがいいかもしれないね」
光太郎の奥さんの沙穂ちゃんが快諾するとは思えなかったが、僕がとやかく言う筋合いはないので、素直に同調した。
話が一段落したところで、仁美が言った。
「それで、離婚前の旅行なんだけど…」
「どこに行きたいか決めた?」
「塩原温泉のリゾートホテルに泊まりたい」
仁美が提案したのは、最近オープンしたばかりの高級リゾートホテルだった。仁美も温泉好きだが、僕とは違い泉質やロケーションより設備・食事重視派だった。
ただ栃木県内を希望するとは想定外だったが、まだコロナ禍でもあり、県外に遠出するのを避けたのかもしれない。
「いいよ。シルバーウィークに予約取れるか調べてみる」
と、すぐに予約サイトで調べてみたが、GOTOトラベルの反響により、残念ながら満室だった。
「この時期のリゾートホテルは難しいね。ほかに最優先する条件は?」
「客室露天風呂がある温泉ならどこでもいい」
結婚してから二人で日帰り旅行はあったが、泊りの旅行はいつも子供連れだった。最後の旅行だから、贅沢な特別室を仁美は希望した。
栃木県内だけでなく、隣県まで範囲を広げて調べると、福島県の飯坂温泉に、客室露天風呂付きの部屋が一つだけ空いている旅館を見つけた。
「飯坂温泉の老舗旅館でもいい?」
「客室露天風呂がついてるなら……」
夫婦として最初で最後の二人旅が、飯坂温泉に決まった。
33年間の結婚生活の締めくくりには、悪くはなかった。
思い返せば、僕たちは新婚旅行にさえ行っていなかった。
人生のスタートで諦めた旅を、ゴールの瞬間になってようやく取り戻す。
そんな皮肉な贅沢が、今の僕たちには一番お似合いのようにも思えた。
第1章はこちらから
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